夏の残滓、ひまわりの幻影

夏の残滓、ひまわりの幻影

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第一章 硝子玉の憂鬱

僕の住むこの海辺の町には、奇妙な風習がある。夏の終わりに、そのひと夏で最も輝いた思い出が、手のひらサイズの「夏の結晶」となって現れるのだ。琥珀のように透き通るもの、瑠璃色に深く輝くもの、虹色の光を放つもの。人々はそれを誇らしげに飾り、過ぎ去った季節の証とした。

僕、水嶋湊の結晶は、いつだって煤けたビー玉みたいだった。小さく、濁っていて、何の輝きもない。写真部の部室の隅、埃をかぶった棚の上。去年の僕の夏が、今年も虚しく転がっている。ファインダー越しに世界を切り取るのは好きだった。被写体と距離を置き、冷静に構図を定め、光と影を支配する。その行為は、情熱や感傷といった厄介なものから僕を守ってくれる盾のようだった。熱に浮かされたように「青春」を叫ぶ同級生たちを、僕はいつも少しだけ冷めた目で見つめていた。

「すごい! これ、湊くんが撮ったの?」

突然、背後からかけられた声に、心臓が跳ねた。振り向くと、そこにいたのは、数日前に都会から越してきた転校生、夏川陽菜だった。彼女は、僕がコンテストにも出さず壁に無造作に貼っていた一枚の写真を指差していた。誰もが見過ごすような、錆びたトタン壁が続く路地裏に、西陽が劇的な影を落としているだけの写真だ。

「ああ……まあね」

「なんだか、寂しいのに、すごく優しい色だね。好きだな、この写真」

陽菜は屈託なく笑った。その笑顔は、僕が避けてきた夏の太陽そのものみたいだった。彼女の瞳が、僕の足元に転がっている去年の結晶に留まる。

「これが、噂の『夏の結晶』? 綺麗……。ねえ、私も作ってみたいな。とびっきり大きくて、キラキラのやつ!」

無邪気な言葉。けれど、その一瞬、彼女の瞳の奥が、ありえないほど深く、まるで幾千年も経た古木の年輪のような色に揺らめいたのを、僕は見逃さなかった。気のせいだと思おうとした。だが、僕の胸に生まれた小さな棘は、夏の終わるまで抜けることはなかった。

「私、湊くんと一緒に、最高の夏の結晶を作りたいな。約束だよ」

強い風が吹き込み、部室の窓がガタンと音を立てた。彼女の真っ直ぐな視線から、僕はなぜか逃れることができなかった。

第二章 ファインダー越しのひまわり

僕の平穏な夏は、その日を境に陽菜という名の台風に掻き回されることになった。彼女は僕を半ば強引に部室から引きずり出し、「青春の取材!」と称して様々な場所に連れ回した。

「ほら、湊くん、早く! ひまわりが待ってる!」

丘一面に広がるひまわり畑。噎せ返るような青い匂いと、ぶんぶんと飛び交う蜂の羽音。太陽に向かって咲き誇る黄金色の花々は、あまりに暴力的で、直視するのをためらうほどだった。僕は日陰に腰を下ろし、うんざりしたふりをしながら、その光景の中心で笑う陽菜にカメラを向けた。

ファインダー越しに見る彼女は、まるで一枚の絵画だった。白いワンピースが風に揺れ、麦わら帽子からこぼれた髪が陽光を弾く。シャッターを切るたびに、カシャリ、という乾いた音が僕の心に染み込んでいく。いつもなら被写体との間に感じるはずの透明な壁が、彼女を前にすると、なぜか溶けて消えてしまうようだった。

夏祭りでは、二人でりんご飴をかじった。べたつく指先。遠くで鳴り響く和太鼓の音。人いきれと甘い綿菓子の匂い。陽菜が金魚すくいに夢中になっている横顔を、僕はこっそりと一枚撮った。夜空に大輪の花火が咲く。その光に照らされた彼女の瞳は、僕が今まで見たどんなものよりも綺麗だった。

僕の撮る写真は、少しずつ変わっていった。構図や光を計算するのではなく、ただ、目の前の感情を、その一瞬を、必死で留めようとしていた。陽菜と過ごす時間は、僕のモノクロームだった世界に、鮮やかな色彩を与えていく。

「今年の結晶、すごいのができそうだね」

ある日の帰り道、陽菜が嬉しそうに言った。僕も、そう思っていた。初めて、夏の終わりが楽しみになっていた。僕の結晶は、きっと今年は、陽菜の笑顔みたいに輝くに違いない。そんな確信にも似た予感が、胸を熱くしていた。僕はこの時、まだ知らなかったのだ。輝きが大きければ大きいほど、その影もまた、深く濃くなるということを。

第三章 結晶の代償

夏の終わりの気配が、夕暮れの風に混じり始めた頃だった。町の小さな郷土資料館で、僕は偶然、古い文献の一節に目を奪われた。町の「結晶化」現象について書かれたものだった。

『夏の結晶は、人の魂の輝き、そのものを削りて顕現す。故に、大いなる輝きは、大いなる代償を伴うことを忘るるなかれ。最も美しき結晶を残せし者は、しばしば季節の終わりと共に、その存在を世界から薄れさす』

背筋に冷たい汗が流れた。魂を、削る? 存在が、薄れる? まるで出来の悪い怪談話だ。しかし、僕の脳裏には、陽菜と出会った日の、あの古木のような瞳が焼き付いて離れなかった。

その夜、僕は陽菜を呼び出した。約束の場所は、彼女が最初に気に入ってくれた、あの路地裏だった。現れた彼女の顔は、街灯の下で青白く見えた。

「陽菜、単刀直入に聞く。君は、一体何者なんだ?」

僕の問いに、彼女は驚いた顔もせず、ただ寂しそうに微笑んだ。

「……気づいちゃったんだね」

陽菜は静かに語り始めた。彼女は、この町の出身ではなかった。それどころか、僕らのいるこの世界とは少しだけ違う、隣の世界の住人なのだと。彼女の世界では、かつて「夏の結晶化」によって多くの人々が輝きと引き換えに消えていったのだという。

「私のお兄ちゃんも、そうだった。たった一度の、最高に輝いた夏を過ごして……手のひらには宝石みたいな大きな結晶だけを残して、ある日突然、誰の記憶からもいなくなっちゃったの。私を除いて、ね」

彼女の兄は、現象の特異点だった。あまりに強い輝きを放ったため、完全に消滅するのではなく、存在の痕跡だけが世界から抹消された。家族でさえ、彼のことを忘れてしまった。ただ一人、妹である陽菜の心にだけ、その記憶が焼き付いていた。

「私は、この現象を止めたい。もう誰も、私みたいな思いをしてほしくないから。その方法を探しに、この町に来たの」

彼女が僕と過ごした夏。ひまわり畑も、夏祭りも、花火も。それは、この現象のメカニズムを探るための調査であり、同時に、彼女自身が兄の失われた夏を追体験する、痛みを伴う儀式でもあった。

「でも、間違ってた。湊くんと過ごすうちに、私……本当に、楽しくて……。この夏を、本当に大切なものだって、思っちゃった」

彼女の声は震えていた。

「このまま夏の終わりが来たら、私たちが作った思い出が結晶になる。そしたら、私、きっとお兄ちゃんと同じ……」

僕の足元が、ぐらりと崩れる音がした。青春の輝かしい象徴だと思っていたものが、魂を喰らう呪いだったというのか。僕たちが積み重ねてきたキラキラした時間は、陽菜の存在そのものを脅かす時限爆弾だったのだ。最高の結晶ができると、無邪気に信じていた僕の愚かさが、彼女を追い詰めていた。

第四章 君のいない風景

選択の時は、静かに、しかし残酷にやってきた。夏の最後の夜。虫の音が、まるで世界の終わりを告げる秒針のように聞こえる。僕たちは、再びあの路地裏に立っていた。

陽菜を救う方法は一つだけ。彼女が持っていた古い羅針盤のような道具を使い、町の結晶化エネルギーそのものを鎮めること。しかし、それは僕たちの夏を、その輝かしい思い出を、エネルギーの源泉ごと消し去ることを意味していた。

「湊くんの、初めての、キラキラした結晶……私が、壊しちゃうんだね。ごめんね」

陽菜が、泣きそうな顔で僕を見る。

僕は首を横に振った。そして、いつも持ち歩いていたカメラを構えた。

「俺は、君が消える未来なんて撮りたくない」

ファインダーを覗く。そこにいるのは、僕がこの夏、ずっと見つめてきた少女だ。彼女のいない世界なんて、もう考えられなかった。形に残る結晶なんか、いらない。たとえ記憶が薄れても、この胸の痛みと温かさだけは、きっと消えないはずだ。

「陽菜。俺は、君のいる明日が欲しい」

僕の言葉に、彼女ははっと顔を上げた。瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。彼女は頷き、羅針盤を構えた。儀式が始まった。路地裏に満ちていた濃密な夏の空気が、渦を巻いて羅針盤に吸い込まれていく。僕たちの記憶が、蝉の声が、ひまわりの匂いが、花火の光が、急速に色褪せていくのを感じた。陽菜の輪郭が、少しずつ霞んでいく。僕は、最後の力を振り絞るように、シャッターを切った。

翌朝、僕は自室のベッドで目を覚ました。

ひどく大切な夢を見ていた気がする。胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたような、甘く切ない喪失感が漂っていた。夏は、いつの間にか終わっていた。

机の上には、愛用のカメラが置いてある。再生ボタンを押すと、一枚の写真が表示された。

それは、見慣れた路地裏の風景だった。錆びたトタン壁に、西陽が射している。

――ああ、そうか。今年の夏も、僕は結局、この路地裏しか撮らなかったんだな。

そう思った瞬間、写真の片隅に、何か小さなものが写り込んでいるのに気づいた。

一枚の、黄色い花びら。

まるで、太陽のかけらのような、ひまわりの花びらだった。

その花びらを見つめていると、理由もなく涙がこぼれた。僕は誰かの名前を呼びたかった。けれど、その名前が思い出せない。

ただ、確かなことが一つだけあった。僕の世界は、もうモノクロームではない。ファインダー越しに見えるありふれた日常は、あの夏の日以前とは比べ物にならないほど、愛おしく、輝いて見えた。

青春とは、形に残る輝かしい結晶のことではないのかもしれない。

誰かのために何かを失うことさえ厭わないと決めた、あの瞬間の心の震え。記憶から消えてしまっても、魂に刻まれたその温かさこそが、きっと。

僕はカメラを手に、窓を開けた。澄み切った秋の空が広がっている。

カシャリ、とシャッターを切った。その音は、新しい始まりの合図のように、どこまでも響き渡っていった。

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