第一章 色褪せない八月
蝉の声がアスファルトの熱に溶けていく。八月の終わり、空は抜けるように青く、雲だけがゆっくりと流れていた。僕、湊(ミナト)は、旧視聴覚室の床に広げた大きなキャンバスに向かい、油彩の匂いに満たされながら筆を走らせていた。
「湊、またその世界に入ってる」
呆れたような、それでいて優しい声がする。ギターを爪弾いていた陽太(ヨウタ)が、窓枠に腰掛けたまま笑っていた。隣では、美咲(ミサキ)がファインダーを覗き込み、カシャリ、と乾いたシャッター音を響かせる。床に寝転がっていた健太(ケンタ)は、野球ボールを天井に向かって軽く放り、受け止める動作を繰り返していた。
この時間が、好きだった。それぞれの音、それぞれの匂い、それぞれの存在が混じり合う、夏の終わりの放課後。絵に没頭すると、僕の周りの世界は奇妙な変容を遂げる。友人たちの笑い声が早回しのテープのように聞こえ、窓の外の雲が性急に形を変えていく。集中しているせいだ、といつも自分に言い聞かせていた。僕の情熱が、世界の解像度を少しだけ変えているだけなのだと。
「ほら、見て。今日の夕日も最高」
美咲がカメラの液晶画面を僕たちに向ける。そこに写っていたのは、窓から差し込む光が床に長い縞模様を描き、僕たちのシルエットを黄金色に縁取る、完璧な一枚だった。美しい、と僕は思った。だが、胸の奥で何かが小さく軋む。この光景を、僕たちは昨日も、一昨日も、見ていなかっただろうか。美咲の写真フォルダに並ぶ「8月31日」のタイムスタンプが、脳裏を掠めた。
第二章 止まった秒針
自室の机の引き出しの奥で、僕はそれを見つけた。祖父の形見だという、『秒針のない懐中時計』。銀色の蓋には細かな彫刻が施され、開くと現れる文字盤には時針と分針だけが静かに鎮座していた。添えられた古いメモには、こう記されていた。『強く願う時を指し示す。されど、時を縛るべからず』。
試しに、僕はあの放課後の時間を願ってみた。陽太の拙い新曲、美咲のシャッター音、健太のボールが空を切る音、そして僕がキャンバスに向かう匂い。
カチリ、と微かな音を立て、針が動いた。午後四時。僕たちがいつも旧視聴覚室に集まる時間だ。
その翌日も、僕は違和感の正体を探っていた。
「なあ、明日の文化祭の準備、どうする?」
陽太の言葉に、僕は凍りついた。その台詞を、僕たちはもう何週間も繰り返している。僕たちのカレンダーは、八月三十一日から一枚もめくれていないのだ。
まさか。僕の体質のせいなのか? 僕が絵に情熱を燃やすたび、周囲の時間が加速し、友人たちの「楽しい瞬間」だけが圧縮されて、永遠に繰り返されているのではないか。僕の情熱が、彼らの未来を、その胸に宿るはずの『時間の果実』が熟すのを、妨げているのではないか。
その考えに至った瞬間、絵筆が鉛のように重くなった。僕が描くほどに、彼らの時間は失われていく。僕は、彼らの未来を盗む泥棒だったのだ。
第三章 情熱の牢獄
僕は描くのをやめた。描きかけのキャンバスに白い布を被せ、絵筆を箱にしまい、油絵の具の匂いがしないように窓を開け放った。友人たちの未来を奪わないために、僕の情熱を殺さなければならなかった。
しかし、世界は僕の期待とは違う形で歪み始めた。
情熱を失った僕の周りでは、時間の流れが著しく減速した。蝉の声は引き伸ばされたテープのように不気味に響き、夕日は地平線に膠着してなかなか沈まない。旧視聴覚室の空気は澱み、友人たちの笑顔から光が消えた。
陽太のギターはメロディを忘れ、美咲はファインダーを覗くのをやめ、健太はボールをただ握りしめるだけになった。彼らの瞳は虚ろで、まるで夢の中を彷徨っているかのようだ。時間は止まるのではなく、腐り始めていた。
僕は悟った。情熱を抑え込むことは、解決にはならない。この緩慢な窒息こそが、本当の牢獄だった。僕が彼らから時間を奪っているのではない。僕たちの誰もが、この淀んだ時間に囚われているのだ。希望のない永遠は、ただ緩やかに心を殺していく。
第四章 懐中時計の告白
もう、隠していられない。僕は震える手で友人たちにメッセージを送り、旧視聴覚室に集まってもらった。澱んだ空気の中、僕は自分の体質のこと、時間のループのこと、すべてを打ち明けようと口を開いた。
「みんなに、話さなきゃいけないことがあるんだ。この夏が、終わらないのは…」
僕の言葉を遮ったのは、健太だった。
「なあ、湊。俺たち、本当は気づいてるんだ」
彼の静かな声に、陽太も美咲も、こわばった顔で頷いた。彼らは気づいていた。毎日が同じことの繰り返しであることに。けれど、誰もそれを口にはしなかった。未来が来るのが、怖かったからだ。
陽太は、この夏が終わればバンドは解散し、音楽から離れなければならない現実が待っている。健太は、最後の夏が終わった野球のない日常をどう生きていけばいいのか分からない。そして美咲は、秋に結果が発表されるコンクールに落選する未来を恐れていた。
「私たち、願ってたんだ」
美咲が小さな声で呟きながら、ポケットから取り出したのは、僕の持っているものと全く同じ、『秒針のない懐中時計』だった。それは彼女の祖母の形見だという。
「この夏が、終わらなければいいのにって…」
真実は、僕の想像を遥かに超えていた。ループの原因は、僕の情熱だけではなかった。友人たち一人ひとりの「青春を終わらせたくない」という切実な願い。その集合的な無意識が、懐中時計を介してこの八月三十一日という時間を固定していたのだ。僕の情熱は、その願いを増幅させ、強固なものにするための、触媒に過ぎなかった。
第五章 未来を描くパレット
罪悪感が、霧のように晴れていく。僕の情熱は、彼らの時間を奪う呪いではなかった。彼らの願いを叶えるための、魔法だったのだ。だとしたら、僕がすべきことは一つしかない。
「終わりが怖いなら、終わらない未来を描けばいい」
僕は叫ぶように言って、白い布をキャンバスから引き剥がした。そこに現れたのは、まだ色のない、僕たちのシルエットだけが描かれた絵。
僕は再び絵筆を握った。今度は、時間を止めるためじゃない。未来へ進むための推進力を、この絵に、僕の情熱のすべてを注ぎ込むために。
パレットの上で色が混ざり合う。僕は、光溢れるステージで熱唱する陽太を描いた。彼の歌声は、もう小さな視聴覚室だけのものではない。次に、異国の街角でファインダーを覗く美咲を描いた。彼女の瞳は、まだ見ぬ世界への好奇心で輝いている。そして、小さな子供たちに囲まれ、笑顔でボールの投げ方を教える健太を描いた。彼の掌には、野球への愛情が満ち溢れている。
僕の情熱が、絵を通して彼らに流れ込んでいく。それは、熱い奔流となって、彼らの胸の中にある冷たく未熟な『時間の果実』を温めていくのが分かった。
第六章 果実が熟す時
「すごい…温かい…」
美咲が自分の胸に手を当てて呟いた。陽太も健太も、驚いたように互いの顔を見合わせる。彼らの瞳に、虚ろな色はもうない。恐怖ではなく、湊が描いた未来への希望の光が宿っていた。
「行こうか」陽太がギターをそっとケースにしまいながら言った。「九月一日へ」
健太が、美咲が、力強く頷く。
彼らが未来を受け入れる決意をした瞬間、奇跡が起きた。視聴覚室の窓から差し込む西日が、まるで世界中の光を集めたかのように黄金色に輝きを増した。そして、僕たち四人の胸の内側から、柔らかな光が溢れ出す。未熟だった『時間の果実』が、一斉に熟したのだ。それは青春の終わりを告げる光であり、同時に、新たな季節の始まりを祝福する光でもあった。
友人たちの顔が、ほんの少しだけ大人びて見えた。寂しさと、どうしようもないほどの誇らしさが、僕の胸を満たす。
ふと気づくと、僕自身の胸からも、これまでになく大きく、鮮やかな光が放たれていた。僕の情熱は、誰かから何かを奪うものではなかった。与え、分かち合うことで、より豊かに、より強くなるものだったのだ。
机の上に置かれた二つの懐中時計の蓋が、静かに閉じる。その文字盤が、もはや過去の時間を指し示していないことだけは、確かだった。空は燃えるような茜色に染まり、明日へと続く夜の帳が、ゆっくりと降り始めていた。