虹彩のレガシー
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虹彩のレガシー

第一章 薄れゆく虹

僕の右腕には、虹が宿っている。それは生まれつき刻まれたタトゥーで、僕の「青春」の残量計だった。鮮やかな七色が脈打つように輝いていれば、まだ時間は残されている。だが、その色彩が褪せ、くすんだ灰色に沈んだとき、僕という存在はこの世界から完全に消滅する。それが、僕ら世代に課せられた運命だった。

最近、手首に近い紫色の部分が、雨に濡れたアスファルトのような色を帯び始めていた。僕はそれを隠すように長袖のシャツの袖をいつも下ろしている。消えることへの恐怖よりも、諦めに似た静かな感情が心を支配していた。世界とはそういうものなのだ。僕らはいつか「青春の色彩」と呼ばれるオーラを失い、最も大切な記憶ひとつを代償に、大人になる。その色彩と記憶は空に浮かぶ巨大な「思い出の雲」となり、世界を潤す生命エネルギーへと還る。僕のような存在は、そのサイクルから少しだけ早く脱落する、いわば不良品のようなものだった。

「カイ、またそんな顔してる」

隣を歩くリナが、僕の顔を覗き込む。彼女の肩にかかる髪が、夕暮れの風にふわりと揺れた。その瞬間、公園の街灯が灯り、彼女の周囲に淡い桜色のオーラが立ち上るのが見えた。それが彼女の「青春の色彩」。それを見ると、僕の胸は少しだけ温かくなる。

「別に。今日の雲は、やけに騒がしいなと思って」

僕が見上げた空には、マーブル模様を描く巨大な「思い出の雲」が広がっていた。人々の失われた記憶と青春で構成されたそれは、いつもは穏やかな光を放っている。だが今日は、内部で稲妻が走るかのように、激しく明滅を繰り返していた。リナと、その後ろから追いついてきたソウタも空を見上げる。

「本当だ。なんか、いつもよりギラギラしてないか?」ソウタが眉をひそめる。

他愛のない会話を交わしながら、僕たちはいつものカフェに向かった。リナが笑い、ソウタが冗談を言う。その声が、空気が、僕の心をわずかに揺さぶる。ふと、右腕に微かな熱を感じた。シャツの袖をそっとめくると、タトゥーの紫が、ほんの少しだけ深みを取り戻していた。まるで、消えないでくれと誰かが囁いているかのように。だが同時に、街角で囁かれる不穏な噂が、僕の脳裏をよぎった。最近、成人を迎える前に、若者たちが次々と消えているらしい。僕と同じ、早すぎる消滅。それは、まるで雲に青春を喰われているかのようだと、誰かが言っていた。

第二章 雲の不協和音

「思い出の雲」の異常な活性化は、日を追うごとに顕著になっていった。空は時に燃えるような赤に、時に凍てつくような青に染まり、その光景は不気味なほど美しかった。人々はそれを「天の気まぐれ」と呼び、空を見上げてはため息をついたが、僕はその光の中に、飢えた獣のような渇望を感じていた。

ソウタは独自に調査を進めていた。図書館の古文書やネットの都市伝説を漁り、消えた若者たちの共通点を探していたのだ。ある日の放課後、彼は息を切らして僕らの元へ駆け込んできた。

「わかったぞ! 消えた奴ら、みんな……とてつもなく強い夢を持ってたんだ」

彼の言葉に、僕とリナは顔を見合わせた。ピアニストを目指していた少女、宇宙飛行士になると語っていた少年。彼らの「青春の色彩」は、誰よりも鮮やかだったという。

「強い色彩ほど、雲にとっては極上の餌だってことか?」

僕の呟きに、ソウタは悔しそうに唇を噛んだ。リナは不安げに空を見上げている。彼女の夢は、小さな花屋を開くこと。ささやかだが、彼女にとっては誰にも負けないほど強く、美しい夢だ。その瞬間、僕の右腕のタトゥーがズキンと痛んだ。まるで、空の雲と僕の腕が、見えない糸で繋がっているかのように共鳴している。雲が輝きを増すたびに、僕のタトゥーは生命力を吸い取られるように色を失っていく。

これは単なる自然現象などではない。巨大なシステムの一部が狂い始めている。僕の消滅も、若者たちの失踪も、全ては空に浮かぶあの雲に繋がっている。確信に近い予感が、冷たい雨のように心を濡らしていった。

第三章 褪せた色彩

その日は、突然やってきた。

リナが、倒れたのだ。

授業中、彼女の身体からふっと力が抜け、椅子から崩れ落ちた。駆け寄った僕の目に映ったのは、信じられない光景だった。彼女の身体を包む桜色の「青春の色彩」が、陽炎のように揺らめき、急速にその色を失っていく。まるで、目に見えない何かに吸い上げられているかのように。

「リナ!」

「しっかりしろ!」

ソウタの叫び声が教室に響く。僕は彼女の手を握った。氷のように冷たい。彼女の瞳は虚ろで、焦点が合っていない。

「カイ……? 私……なんだっけ……お母さんと約束した、花の種……」

途切れ途切れの言葉。記憶が混濁している。成人期を迎える前の、強制的な「代償の徴収」。こんなことはあり得ない。僕の右腕で、虹色のタトゥーが警報のように激しく明滅を繰り返した。怒りか、悲しみか、分からない感情の奔流が僕を襲い、タトゥーは一瞬、生まれた時のような鮮烈な輝きを取り戻した。

リナを救わなければ。

この狂った循環を、止めなければ。

医務室のベッドで眠るリナの傍らで、僕は固く決意した。自分の運命を受け入れるつもりだった。静かに消えていくはずだった。だが、友人が、僕にとっての世界そのものである彼女が理不尽に奪われるというのなら、話は別だ。残された時間がどれほど短くなろうとも、構わない。

「ソウタ、手伝ってくれ。僕は、あの雲に行く」

「正気か!? どうやって!」

「この腕のタトゥーが、たぶん鍵だ。これはただの残量計じゃない。雲と同じエネルギーで出来ている。こいつを燃やせば、きっと道が開ける」

僕の覚悟を悟ったのか、ソウタは何も言わず、ただ強く頷いた。僕の青春の終わりは、もうすぐそこまで迫っていた。ならば、この命の最後の輝きを、リナのために使おう。

第四章 記憶の階段

街外れにそびえ立つ、忘れられた「古の尖塔」。頂上が雲に隠れるほど高いその塔は、古来より「思い出の雲」と地上を繋ぐ唯一の場所だと伝えられていた。僕とソウタは、夜の闇に紛れてそこへたどり着いた。湿った石の匂いと、吹き抜ける風の音が、僕らの緊張を煽る。

塔の最上階。円形の広間の中央には、空へと続く巨大な穴が口を開けていた。見上げれば、渦巻く雲の底が、まるで巨大な瞳のようにこちらを見下ろしている。

「カイ、本当にやるのか。お前の身体が……」ソウタの声が震えていた。

「リナを助ける。それだけだ」

僕は右腕のシャツをまくり上げ、虹色のタトゥーを晒した。リナを想う強い感情が、タトゥーを燃えるように輝かせている。僕は覚悟を決め、その腕を天に突き出した。

「僕の青春の全てを喰らえ! そして、道を開け!」

叫びと共に、タトゥーから眩いばかりの七色の光がほとばしった。凄まじい熱が腕を焼き、意識が遠のきそうになる。光は一本の柱となり、空の穴へと吸い込まれていった。やがて、僕の足元から雲の底へと続く、虹色の光の階段が生まれた。僕の生命そのもので編まれた道だ。

「カイ!」

「先に行ってる。リナを頼む」

ソウタに背を向け、僕は光の階段を一歩、また一歩と踏みしめた。一歩進むごとに、僕自身の記憶が足元から剥がれ落ちていく感覚がした。初めて自転車に乗れた日の高揚感、夏祭りの花火の匂い、些細な、けれど愛おしい僕の青春のかけらたち。右腕のタトゥーは急速に色を失い、灰色へと近づいていく。だが、僕は歩みを止めなかった。

第五章 循環の真実

光の階段を上りきった先は、静寂に包まれた空間だった。無数の光の粒子が、銀河のように渦を巻いている。一つ一つが、誰かの失われた記憶。「思い出の雲」の核。世界の心臓部だった。

その中心に、それはいた。明確な形はない。ただ、膨大なエネルギーと、古く、疲弊しきった意思だけが存在していた。世界の循環を司る、システムの化身。

『来訪者よ。汝の目的は理解している』

声ではない声が、直接脳内に響く。僕の問いを待たず、システムは真実を語り始めた。世界の生命エネルギーである「思い出の雲」は、永い時を経て枯渇し始めていた。世界の崩壊を防ぐため、システムは自己保存本能に従い、より純度が高く、エネルギー効率の良い「未来の世代の青春」を前倒しで徴収し始めたのだ。強い夢を持つ若者の色彩は、格好のエネルギー源だった。リナが狙われたのも、そのためだった。

『これは、世界を維持するための、やむを得ぬ調整だ』

「調整だと? それはただの収奪だ! 未来を喰い潰しているだけじゃないか!」

僕の怒りの叫びは、静かな空間に虚しく響いた。システムに善悪の概念はない。ただ、世界の存続という目的のために、最も効率的な手段を選んでいるだけ。このままでは、リナも、これから生まれてくる子供たちも、輝かしい青春を知る前に、その色彩を奪われ続けるだろう。

『汝もまた、消えゆく運命。抵抗は無意味だ』

システムが僕に手を伸ばすかのように、エネルギーの濁流が押し寄せる。僕の身体はもう限界だった。右腕のタトゥーは、ほとんど光を失っている。だが、僕の心にはまだ、最後の切り札が残っていた。僕の、最も輝かしい青春の記憶。

「僕の消滅は止めない。だが、僕の終わり方は、僕が選ぶ」

僕は目を閉じ、心の奥底にある、最も大切な宝物を引き出した。

第六章 君のいた空

それは、ごくありふれた放課後の記憶だった。

夕暮れの公園。壊れかけのベンチで、僕とリナとソウタは、くだらない話で笑い合っていた。リナが買ってきたクリームパンを三人で分け合い、ソウタが将来の夢を熱く語り、僕がそれを茶化す。夕日が僕らの影を長く伸ばし、リナの桜色のオーラと、僕の腕の虹色が、混じり合ってきらめいていた。特別なことなど何もない。だが、僕にとっては、世界の何よりも輝かしく、かけがえのない時間。

「これが、僕の青春の全てだ」

僕はその記憶の全てを、僕の存在の全てを、システムの核に向かって解き放った。それは、枯渇した大地に注がれる恵みの雨のようだった。暴走していたエネルギーの濁流が、僕の温かい記憶に触れて、穏やかな流れへと変わっていく。

『これは……なんという、満たされた光だ……』

システムの意思が、初めて感情のようなものを揺らめかせた。僕の身体が、足元から光の粒子となって崩れていく。右腕のタトゥーが、最後の力を振り絞るように、一度だけ鮮やかな虹色を放った。それは、未来への希望の光だった。

「未来の若者たちの青春を、もう奪うな……。奪うのではなく、見守ってやってくれ……」

僕の意識はそこで途切れた。

地上では、医務室のベッドで眠っていたリナが、そっと目を開けた。窓の外では、荒れ狂っていた「思い出の雲」が、嘘のように穏やかな、優しい乳白色の光を放っている。彼女の身体を包む「青春の色彩」は、以前よりも鮮やかな桜色を取り戻していた。

「……あれ?」

リナは自分の胸に手を当てた。誰かのことを忘れてしまったような、言いようのない喪失感。けれど同時に、どうしようもなく温かい何かが、心の奥で灯っているのを感じた。

隣では、ソウタが黙って空を見上げていた。彼の頬を、一筋の涙が伝う。

空に浮かぶ雲の中心で、小さな虹色の光が、永遠に瞬き続ける。それは、世界を守った一人の少年の、友人との絆の記憶。彼の存在を誰も思い出すことはない。けれど、彼が遺した温もりは、新しい雲の核となり、これから先もずっと、空から若者たちの青春を優しく見守り続けるだろう。


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