第一章 硝子仕掛けの夏
僕の部屋の机の引き出しの奥に、光を失った小さな石が一つだけ眠っている。かつて、澄み切った空の色をしていたそれは、今ではただの曇ったガラス片にしか見えない。これが、僕たちの青春の墓標だなんて、あの頃の僕ら、特に彼女は、知る由もなかっただろう。
高校二年の夏、僕、水野蒼(みずのあお)の世界は、退屈なほどに平坦だった。感情の起伏が乏しく、クラスメイトの熱狂や喧騒を、いつも一枚のすりガラス越しに見ているような気分だった。写真部の活動だけが、ファインダーという四角い窓を通して、世界と繋がる唯一の手段だった。
そんな僕の日常に、いつも鮮やかな色彩を投げ込んでくるのが、幼馴染の天野陽菜(あまのひな)だった。太陽みたいな笑顔と、向日葵のような快活さを持つ彼女は、僕とは正反対の存在だった。
「ねえ、蒼。聞いた? 旧天文台の噂」
夏の気配が濃くなり始めた放課後、現像室の赤いランプの光の下で、陽菜は声を弾ませた。薬品のツンとした匂いの中で、彼女の声だけが生き生きと響く。
「感情結晶(エモーショナル・クリスタル)の話だろ? ただの都市伝説だよ」
僕たちの町には、奇妙な噂があった。閉鎖された丘の上の旧天文台に、人の強い感情を物理的な結晶として取り出すことができる、不思議な機械があるというのだ。
「でも、本当だったらすごくない!?『楽しい』とか『嬉しい』とか、そういうキラキラした気持ちを、形にしてずっと取っておけるんだよ! 永遠に!」
永遠、という言葉を、陽菜は宝物のように口にした。僕は、現像液に浸した印画紙にゆっくりと像が浮かび上がるのを眺めながら、曖昧に頷いた。永遠なんて、信じていなかった。写真は一瞬を切り取るだけで、時間は無情にすべてを色褪せさせることを、僕は知っていたからだ。
「行ってみようよ、蒼!」陽菜は僕の腕を掴んだ。「私たちの『今』を結晶にして、永遠に残すの。最高の夏の記念になるよ!」
彼女の瞳は、本気だった。そのあまりに純粋な輝きに、僕は抗うことができなかった。断れば、彼女のこの輝きが少しでも曇ってしまう気がして、それが何よりも怖かった。こうして、僕たちの硝子仕掛けの夏は、一つの都市伝説を確かめるための、無謀な冒険から始まったのだった。
第二章 太陽のコレクション
錆びた鉄のフェンスを乗り越え、草いきれのむせ返る小道を登った先、月明かりの下に旧天文台は静かに佇んでいた。埃とカビの匂いが混じったひんやりとした空気の中、僕たちは巨大なドームの真下に、その機械を見つけた。古びた天体望遠鏡に、奇妙なガラス管や歯車がいくつも接続された、錬金術師の道具のような異様な装置だった。
「本当に……あった」
陽菜は息を呑み、恐れるよりも先に好奇心で目を輝かせた。彼女は操作盤らしきものに触れ、いくつかのスイッチを直感で押し込んだ。すると、機械が低い唸り声を上げ、中央のガラス管が淡い光を放ち始める。
「じゃあ、私から!」
陽菜は装置の一部であるヘッドギアのようなものを被り、目を閉じた。何を考えているのだろう。今日の放課後、友達と笑い合ったこと? 昨日食べたアイスの味? それとも、これから始まる夏への期待?
数分後、機械の唸りが高まり、受け皿のような部分に、カラン、と乾いた音が響いた。そこに転がっていたのは、ピンポン玉ほどの大きさの、燃えるようなオレンジ色に輝く結晶だった。内側から光を放っているかのように、それは僕たちの影をドームの壁に揺らめかせた。
「すごい……! 太陽のかけらみたい!」
陽菜はそれをそっと掌に包み込み、宝物を見る目で見つめた。それが、彼女の輝かしいコレクションの第一号だった。
僕も試してみたが、結果は惨憺たるものだった。ヘッドギアを被り、必死に「楽しい」や「嬉しい」を思い出そうとしても、感情は靄のように掴みどころがなく、機械はうんともすんとも言わない。結局、米粒ほどの濁った欠片が一つ生まれただけで、僕は自分の感情の希薄さを改めて突きつけられた。
その日から、僕たちの夏は、感情結晶を中心に回り始めた。海へ行ってはしゃいだ日、陽菜は波の色を映したようなアクアマリンの結晶を。夏祭りの夜、夜空に咲く大輪の花火を見上げながら、色とりどりの小さな結晶をいくつも生み出した。陽菜の部屋の窓辺には、太陽の光を浴びてキラキラと輝く結晶のコレクションが、日ごとに増えていった。
僕はといえば、相変わらず大きな結晶は作れなかった。ただ、ファインダー越しに見る陽菜の笑顔は、僕の心に小さな、しかし確かな波紋を広げていた。夕暮れの浜辺で、風に髪をなびかせる彼女にカメラを向けた時、不意に胸が締め付けられるような、甘くて切ない感覚が込み上げた。
その夜、僕は一人で旧天文台を訪れた。陽菜を想う、この名付けようのない気持ち。それをすべて注ぎ込むと、機械は静かに応え、僕の掌に一つの結晶を生み落とした。それは、夏の終わりの空の色をした、小さな、小さな青い結晶だった。僕だけの、たった一つの宝物だった。
第三章 空洞のノクターン
夏休みが終わり、風に秋の匂いが混じり始めた頃、陽菜に明らかな変化が現れた。あれほど輝いていた笑顔は影を潜め、授業中も窓の外をぼんやりと眺めていることが多くなった。冗談を言っても、以前のように弾けるような声で笑うことはなく、ただ力なく微笑むだけだった。
「陽菜、最近元気ないな。どうかしたのか?」
ある日の帰り道、僕は思い切って尋ねた。陽菜は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに俯いて「なんでもないよ」と小さな声で呟いた。その声は、まるで遠くから聞こえてくるようだった。
心配が募った僕は、その週末、陽菜の部屋を訪ねた。窓辺に並べられた結晶のコレクションは、相変わらず太陽の光を乱反射させて、部屋中に虹色の光を散らしていた。しかし、その輝きはどこか空虚で、部屋の主の不在を際立たせているように感じられた。
陽菜は、いなかった。胸騒ぎがして、僕は旧天文台へと駆け出した。
息を切らして辿り着いたドームの中、陽菜はいた。機械の前に一人で座り込み、肩を震わせていた。彼女の足元には、泥水のように淀んだ灰色や、鈍い紫色の結晶がいくつも転がっていた。
「陽菜……!」
僕の声に、彼女はびくりと顔を上げた。その瞳は潤んでいたが、涙は一滴も流れていなかった。まるで、泣き方さえ忘れてしまったかのように。
「……蒼」
「何してるんだ、こんな所で。こんな色の結晶……一体、どうしたんだよ」
問い詰める僕に、陽菜はか細い声で、恐ろしい真実を告白した。
「結晶を作るとね、その気持ち、心から無くなっちゃうんだよ」
僕は、言葉を失った。陽菜は、力なく笑った。その笑顔は、まるで精巧な人形のようだった。
「永遠に残したかったの。楽しかった夏を、蒼といた時間を、絶対に忘れたくなかった。だから、いっぱいいっぱい結晶にした。海ではしゃいだ『楽しい』も、花火を見た『綺麗』も、祭りで笑った『嬉しい』も……全部」
彼女は窓辺のコレクションに目をやった。しかし、その瞳には何の感情も映っていなかった。
「でも、気づいたら、何も感じなくなってた。あの結晶を見ても、楽しかったはずなのに、何も思い出せないの。心が、空っぽになっちゃった。それが怖くて、悲しくて……だから今度は、『悲しい』とか『寂しい』を結晶にしてみたんだけど……もう、その気持ちさえ、よく分からなくなってきちゃった」
衝撃の事実だった。永遠を願う行為は、その対象である感情そのものを奪い去る、取り返しのつかない代償を伴うものだったのだ。陽菜が宝物のように集めた太陽のかけらたちは、彼女が失った感情の墓標だった。彼女の心は、美しい結晶を増やせば増やすほど、空っぽの宝箱になってしまっていたのだ。
僕はポケットの中で、あの小さな青い結晶を握りしめた。これが、陽菜への恋心を奪うものだったのか。ぞっとした。僕たちの硝子仕掛けの夏は、残酷な罠だったのだ。
第四章 君に還る青
絶望が、冷たい霧のように僕の心を覆った。陽菜をこんなことにしてしまったのは、彼女を止められなかった僕のせいだ。後悔と無力感で、胸が張り裂けそうだった。陽菜はただ、美しい今が過ぎ去ってしまうのが怖かっただけなのだ。その純粋な願いが、彼女自身を蝕んでいた。
だが、ここで立ち止まっているわけにはいかなかった。空っぽになった陽菜の瞳を見ていると、僕の中で何かが叫んでいた。彼女を救いたい。彼女の笑顔を取り戻したい。今まで感じたことのないほど強く、熱い感情が、僕の全身を駆け巡った。それは、自分の感情の乏しさを嘆いていた頃の僕からは、想像もつかないほどの衝動だった。
僕は一つの仮説に、いや、一縷の望みに賭けることにした。
「感情を抜き取れるなら……戻せるんじゃないか?」
陽菜の手を強く握った。彼女の手は、氷のように冷たかった。
「陽菜、もう一度、天文台に行こう」
旧天文台の機械の前に、僕たちは再び立っていた。僕はポケットから、あの小さな青い結晶を取り出した。夏の終わりの空の色をした、僕の唯一の宝物。
「蒼、それ……」
「僕が、初めてちゃんと作れた結晶だ。陽菜、君を想う気持ちだけで作った」
僕は震える手で、その青い結晶を受け皿ではなく、ヘッドギアの内側にそっと嵌め込んだ。逆のプロセス。入力ではなく、出力。うまくいく保証なんてどこにもない。もし失敗すれば、この結晶も、僕の気持ちも、ただ消滅するだけかもしれない。
「僕のこの気持ちを、君にあげる」
僕はヘッドギアを陽菜の頭に被せながら言った。陽菜は、何も映さない瞳で僕を見つめている。
「これで君の心が、少しでも温かくなるなら。僕のことは、忘れてもいいから」
スイッチを入れる。機械が、これまでとは違う、静かで優しい音を立てて作動を始めた。青い結晶が、蛍の光のように明滅し始める。その光は次第に強くなり、やがて結晶は形を失って、柔らかな青い光の粒子となって空中に舞い上がった。
光の粒子は、ゆっくりと陽菜の身体に吸い込まれていく。僕の心から、陽菜への甘く切ない想いが、潮が引くようにすうっと遠ざかっていくのを感じた。胸にぽっかりと穴が空いたような、不思議な喪失感。でも、怖くはなかった。ただ、祈った。僕の青が、君に届け、と。
やがて光が収まった時、陽菜の頬を、一筋の涙が伝っていた。
彼女は、自分の頬に触れた。
「……あったかい」
そして、僕の顔を見て、ゆっくりと、本当にゆっくりと、泣きながら微笑んだ。それは、僕がずっと見たかった、本物の陽菜の笑顔だった。
「ありがとう……蒼。……青い、綺麗な色……」
完全に元に戻ったわけではないだろう。失われた多くの感情は、まだ戻らないかもしれない。でも、彼女の心に、小さな灯火が再び宿ったことは確かだった。
僕の心から陽菜への特別な恋心は、確かに薄れていた。けれど、悲しくはなかった。空っぽになったはずの胸には、誰かのために自分を差し出すことでしか得られない、温かく、そしてもっと大きな何かが、静かに満ちていくのを感じていた。
僕たちは、陽菜の部屋にあったすべての結晶を箱に詰め、夜の海へと向かった。
「さよなら、私たちの夏」
陽菜のその声は、もう空っぽではなかった。
二人で、色とりどりの結晶を、一つ、また一つと、暗い海へと投げ入れた。キラキラと最後の光を放ちながら、それらは深く、静かな水の底へと沈んでいく。僕たちが失い、そして取り戻そうとした、青春という名の幻影のようだった。
「形になんてしなくても、覚えていられるよね」
波音の合間に、陽菜が言った。僕は、隣に立つ彼女の横顔を見つめながら答えた。
「ああ。もし忘れても、きっとまた、思い出せる」
僕たちの関係は、以前とは少しだけ変わってしまったかもしれない。でも、それで良かった。青春とは、ガラスケースに飾って保存するものではない。絶えず移ろい、時に痛み、形を変えながら、心の中を流れていくものなのだ。その儚さこそが、どうしようもなく美しいのだということを、僕たちはようやく知ったのだった。
僕の机の引き出しの奥。光を失った石は、もうない。あの青は、今、君の心の中で輝いているのだから。