第一章 無彩色のファインダー
僕の目には、世界はいつも少しだけ彩度が低いように見えていた。卒業を間近に控えた高校三年生の教室は、午後の西日に満たされて、生徒たちの影を床に長く伸ばしている。友人たちの「どんな色の『青春の欠片』になるかな」という、熱を帯びた会話が、僕の耳をすり抜けていく。
この世界では、誰もが十八歳を過ぎた最初の満月の夜に、たった一つの記憶を結晶化させる。「青春の欠片」と呼ばれるそれは、最も強烈で、最も輝いた瞬間の記憶が物理的な形になったものだ。そして、その代償のように、欠片にならなかった他の青春時代の記憶は、急速に色褪せ、曖昧な輪郭だけを残して消えていく。だからこそ、誰もが血眼になって、自分の欠片が最高の輝きを放つ瞬間を追い求める。
僕、水島湊には、そんな情熱はなかった。所属する写真部の活動も、ただシャッターを切るだけ。ファインダー越しに見える世界も、結局は褪せた現実の複製に過ぎない。僕にとっての青春は、無色透明なのだろうと、半ば諦めていた。
その諦念の根源は、三年前に亡くなった兄が遺した、一つの欠片にあった。兄の机の引き出しの奥にしまわれたそれは、まるでただのガラス玉のように、何の光も色も宿していなかった。成績優秀で、誰からも好かれていた兄の青春が、なぜ無色透明だったのか。その謎が、僕の心を重く曇らせていた。
「水島くんの撮る空の写真、好きだよ」
不意に、すぐ隣から鈴が鳴るような声がして、僕は我に返った。クラスの中心にいる太陽のような存在、天野陽菜が、僕の机に置かれたカメラを覗き込んでいた。彼女の周りだけ、空気がきらきらと光の粒子で満ちているような錯覚に陥る。
「……ありがとう」
かろうじてそれだけを返すのが精一杯だった。陽菜は、誰もが最高に鮮やかな、虹色の欠片を生成するだろうと噂する少女だ。彼女が僕のような日陰の存在に話しかけるなんて、天変地異の前触れかもしれない。
「今度、私を撮ってくれないかな。水島くんのファインダーを通したら、私も少しは違って見えるかも」
そう言って悪戯っぽく笑う彼女の瞳は、吸い込まれそうなほど澄んだ琥珀色をしていた。その瞬間、僕のモノクロームだった世界に、ほんの少しだけ、確かな色が差したような気がした。それが、僕の青春が、予期せぬ方向へ大きく舵を切った瞬間だった。
第二章 プリズムの屈折
陽菜を撮り始めてから、僕の日常は一変した。放課後の屋上、夕暮れの帰り道、誰もいない図書室。僕のファインダーは、陽菜というプリズムを通して、退屈だったはずの世界に無数の光と色を見出した。
彼女は完璧な被写体だった。コロコロと変わる表情、風に揺れる髪、ふとした瞬間に見せる、どこか遠くを見つめる儚げな横顔。シャッターを切るたびに、カシャリ、という乾いた音が、僕の心臓の鼓動と重なる。これはただの部活動ではない。僕たちは、失われてしまうかもしれない時間を、必死に光の粒としてフィルムに焼き付けていた。
「ねえ、湊くんはどんな欠片が欲しい?」
ある日の撮影の後、河川敷の土手に二人で座り込みながら、陽菜が尋ねた。僕は答えに窮した。考えたこともなかったからだ。
「……別に。どうせ、大した色にはならない」
「そんなことないよ。だって湊くんは、誰も見ていない空の青さとか、光の匂いとか、ちゃんと知ってる人だもん。きっと、すごく綺麗で、静かな色の欠片になるよ」
陽菜の言葉は、いつも僕が自分自身で蓋をしていた心の奥の柔らかい部分を、そっと撫でるようだった。彼女と一緒にいる時間そのものが、僕の「青春」なのかもしれない。もし、この温かい時間が結晶になるのなら、それはきっと、夕焼けのようなオレンジ色をしているのだろう。そんな淡い期待が、初めて胸に芽生えた。
しかし、彼女の眩しいほどの明るさの裏に、時折、深い影がよぎることに僕は気づいていた。何気ない会話の中で、少し前の出来事を覚えていなかったり、僕が話した内容を初めて聞くような顔をしたりすることがあった。そして、僕が兄の話をしようとすると、決まって悲しそうな、それでいて何かを堪えるような表情で黙り込んでしまうのだ。
その違和感は、日に日に大きくなっていった。まるで彼女の記憶が、ところどころ抜け落ちた不完全なパズルのようだった。彼女が必死に「今」を輝かせようとしているのは、もしかしたら、失われていく過去から目を逸らすためなのではないか。
僕の十八歳の誕生日を過ぎ、生成の夜である満月が、三週間後に迫っていた。陽菜の誕生日は、その一週間前だ。僕たちは約束をした。彼女の生成の夜の直前に、二人で一番の写真を撮りに行こう、と。それが彼女の最高の記憶になるように。そして、願わくは、僕の記憶にもなるように。
その約束が、僕たちの運命を根底から覆すことになるなど、その時の僕には知る由もなかった。
第三章 砕け散った真実
約束の日、陽菜は来なかった。夕暮れの丘で、僕は一人、茜色に染まる空が深い藍色に沈んでいくのを、ただ待ち続けた。電話は繋がらず、メッセージに既読はつかない。胸騒ぎが、冷たい霧のように心を覆っていく。
僕は駆け出していた。彼女の家へと続く道を、息を切らしながらひた走る。チャイムを鳴らすと、出てきた彼女の母親は、憔悴しきった顔で僕を招き入れた。
「陽菜なら、自分の部屋に……あの子、今、少し混乱していて」
通された陽菜の部屋は、彼女の明るいイメージとは裏腹に、どこか静かで、物悲しい空気が漂っていた。ベッドの上で膝を抱える彼女の背中は、ひどく小さく見えた。床には、アルバムや手紙らしきものが散らばっている。その一つに、見覚えのある筆跡を見つけて、僕は息を呑んだ。それは、亡くなった兄の文字だった。
「湊くん……ごめんね、約束……」
「何があったんだ、天野さん」
彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳は潤み、僕の知らない深い哀しみを湛えていた。そして、彼女の口から語られた事実は、僕が築き上げてきた世界のすべてを粉々に砕くような、残酷な響きを持っていた。
陽菜は、先天性の脳の疾患で、新しい記憶を長く留めておくことが困難だった。『前向性健忘』。彼女にとって、昨日はおろか、数時間前の出来事さえ、すぐに曖昧な霧の向こうに消えてしまう。彼女がいつも明るく、全力で「今」を生きていたのは、そうしなければ、自分の存在そのものが消えてしまうような恐怖と戦っていたからだった。
「だから、私には『青春の欠片』なんて、生まれないの。結晶化するほどの、強い記憶が……残らないから」
そして、衝撃はそれで終わらなかった。僕の兄、水島翔太は、陽菜の幼馴染だった。兄は彼女の病気のことを知る唯一の友人で、ずっとそばで彼女を支え続けていたのだという。
「翔太くんはね、私に自分の欠片をくれたの。『俺の青春は、陽菜が笑って過ごせる未来そのものだから』って。これを、お守りにしろって」
陽菜が震える手で差し出したのは、空っぽの小さなビロードの袋だった。
「一昨日、失くしちゃったの。どこを探してもなくて……翔太くんがくれた、たった一つの繋がりなのに……!」
その瞬間、すべてのピースが繋がった。兄の欠片が無色透明だった理由。それは、特定の出来事の記憶ではなかったのだ。「陽菜の幸せを願う」という、あまりにも純粋で、透明な想いそのものが結晶になったからだ。兄の青春は、すべて彼女のためにあった。
僕が陽菜に惹かれたのは、偶然ではなかったのかもしれない。ファインダー越しに見ていたのは、兄が命を懸けて守ろうとした、儚くも美しい光だったのだ。
第四章 未来へのシャッター
僕たちは、夜通し兄の欠片を探した。公園のベンチ、学校の帰り道、二人で写真を撮った河川敷。思い出の場所を辿ることは、陽菜にとって記憶を呼び覚ます行為ではなく、失われた時間を再確認する、痛みを伴う作業だった。
「もういいよ、湊くん。見つからない。私のせいで、翔太くんの想いまで消えちゃうんだ」
陽菜が地面に座り込み、嗚咽を漏らす。もうすぐ夜が明ける。そして今夜が、彼女の生成の夜、本来なら欠片が生まれないはずの、運命の夜だった。
僕は彼女の前に屈み込み、カメラを構えた。
「天野さん。君の記憶が消えるなら、俺が君の記憶になる」
陽菜が、涙に濡れた顔を上げる。
「俺の青春は、君と過ごしたこの数ヶ月だ。でも、俺の欠片は、その過去の思い出にはしない。これから君が作る、未来の思い出にする。その最初のシャッターを、今、切る。俺は、君の未来を撮り続ける写真家になる。それが、俺の青春の答えだ」
僕の指がシャッターを押す。カシャッ。夜明け前の静寂に、乾いた音が響いた。それは、過去への決別と、未来への誓いの音だった。ファインダー越しの陽菜の瞳に、驚きと共に、小さな希望の光が灯るのが見えた。
結局、兄の欠片は見つからなかった。だが、僕たちにはもう必要なかったのかもしれない。兄の想いは、僕が確かに受け継いだのだから。
数年後。僕は、小さなギャラリーで個展を開いていた。壁に並ぶのは、すべて陽菜を撮った写真だ。笑う顔、怒る顔、泣き顔、そして、僕にだけ見せる穏やかな顔。一枚一枚が、僕たちが共に紡いできた時間の証であり、彼女の記憶の錨だった。
会場の入り口に、見慣れた姿があった。陽菜が、少し照れくさそうに微笑んでいる。彼女の首には、小さなペンダントが揺れていた。それは、僕が生成した「青春の欠片」だった。それは、兄のように無色透明ではなかった。かといって、夕焼けのようなオレンジ色でもない。それは、夜明けの空の色をしていた。何もかもが始まる前の、無限の可能性を秘めた、淡く、優しい光の色だった。
陽菜は僕の隣に立つと、自分の手のひらをそっと開いて見せた。そこには、彼女自身のものだろうか、信じられないほど小さいけれど、確かに淡い光を放つ乳白色の結晶が乗っていた。
「最近ね、時々、思い出せるの。湊くんのシャッターの音だけは、いつも」
僕たちは、どちらからともなく微笑み合った。失われた記憶も、不確かな未来も、何も解決してはいない。けれど、僕のファインダーが彼女を捉え続ける限り、僕たちの物語は続いていく。青春とは、一つの輝かしい結晶に閉じ込めるものではなく、こうして誰かと共に、不器用な一瞬一瞬を重ねていく、その時間そのもののことなのかもしれない。僕は再びカメラを構えた。彼女の今の笑顔を、未来の記憶へと変えるために。