クロノグラスの残響
第一章 共鳴する心臓
夕暮れの鐘が鳴り響くたび、僕の心臓は他人の記憶で軋む。
街角のベンチに腰掛けていると、それは唐突にやってきた。脳髄を直接掴まれるような激しい哀切。目の前の風景がぐにゃりと歪み、セピア色の残像が流れ込んでくる。知らないはずの卒業式の光景。舞い散る桜、涙で滲む友の顔、そして、どうしても伝えられなかった「ありがとう」の一言。
これは僕、リクに与えられた呪いにも似た能力。誰かの感情が極限まで高ぶると、その想いと共鳴し、過去の未練を強制的に追体験してしまうのだ。まるで他人の青春の残像を、自分の魂に上書き保存するように。
息を切らして現実に戻ると、僕の頬を一筋の涙が伝っていた。さっきの残像の持ち主であろう、老婆が杖をつきながら雑踏に消えていくのが見えた。
この世界では、誰もが『露の収穫』と呼ばれる儀式を経て大人になる。十六歳の誕生日、それまで経験した全ての感情は「記憶の露」という美しい結晶となって体から剥離する。感情を失った人間は、穏やかで理性的な社会の一員となるのだ。僕の収穫も、あとひと月に迫っていた。この忌まわしい能力から解放される安堵と、僕という人間を形作ってきた全てを失う恐怖が、胸の中でせめぎ合っていた。
ふと、広場の大型スクリーンに映し出されたニュースが目に留まる。市庁舎の前で、感情を失ったはずの大人たちが、理由もなく泣き崩れたり、怒鳴り散らしたりしている映像だった。「原因不明の“感情の残響”現象、拡大の兆し」というテロップが、無機質に点滅していた。
ポケットの中で、祖父の形見である小さな砂時計が、ひやりと冷たく自己主張した。僕の心臓の鼓動に呼応するように、その中で眠る微細な光の粒子が、微かに揺らめいた気がした。
第二章 記憶の露の囁き
その女性、シズクと出会ったのは、古書店が立ち並ぶ裏路地だった。雨上がりの湿ったアスファルトの匂いが立ち込める中、彼女は静かに僕の前に現れた。感情を失っているはずの世代なのに、その瞳にはどこか物憂げな色が揺らめいているように見えた。
「あなたの持っているもの、見せてもらえないかしら」
彼女の視線は、僕のポケットに注がれていた。戸惑いながらも取り出したのは、例の砂時計――クロノグラスだった。
「これは……やはり」シズクは白い指先でそっとガラスに触れる。「時間の砂時計。持ち主の感情に共鳴し、失われた記憶の在り処を示す羅針盤」
彼女は僕の能力を知っている。それどころか、クロノグラスがただの形見ではないことまで見抜いていた。
シズクは語り始めた。近年、自然消滅するはずの「記憶の露」が、強い未練を宿したまま世界に留まり、「感情の残響」を撒き散らしていること。そして、僕の能力とクロノグラスこそが、それらを鎮める唯一の鍵なのだと。
「残響に揺さぶられるのは、大人たちも同じ。理性という名の薄氷の下で、忘れ去ったはずの感情が暴れだすの。このままでは、社会の秩序が崩壊するわ」
「僕に、それを集めろと?」
「ええ。あなたの力なら、露の囁きが聞こえるはず」
疑念はあった。けれど、呪いだと思っていたこの力が、誰かの役に立つかもしれない。混乱した街の光景が脳裏をよぎる。僕は、こくりと頷いていた。シズクの瞳の奥で、安堵とも憐憫ともつかない光が微かに灯った。
第三章 残響の追跡
最初の目的地は、街外れの丘に立つ廃墟となった音楽ホールだった。蔦の絡まる壁、割れたステンドグラスから差し込む月光が、ステージ上のグランドピアノを青白く照らし出している。埃と黴の匂いに混じって、微かに甘い金木犀の香りがした。クロノグラスが、僕の手の中で熱を帯びて震えている。
ピアノの鍵盤の上に、それはあった。琥珀色に輝く、一粒の「記憶の露」。
指先が触れた瞬間、世界が反転した。
冷たい象牙の感触。客席のないホールに響き渡る、不協和音。震える指で奏でるのは、かつて愛した人へ贈るはずだった未完成のソナタ。才能の枯渇、夢への絶望、そしてステージに立つことへの恐怖。ピアニストになる夢を諦めた老人の、あまりにも生々しい後悔が、僕自身の記憶であるかのように全身を駆け巡った。幻の拍手と、現実の静寂が耳の中で混ざり合う。
「……っ!」
我に返った時、僕はピアノに突っ伏して喘いでいた。琥珀色の露は光を失い、ただのガラス玉のように僕の掌に収まっていた。
「よくやったわ」
いつの間にか隣に立っていたシズクの声に顔を上げると、ホールの入り口に冷たい光が灯った。長身の男が、無感情な目でこちらを見ている。管理局の制服だ。
「特殊共鳴能力者、リクだな」男――カガミと名乗った――は言った。「その能力は社会にとって危険な劇薬だ。感情の残響は、お前のような存在が触媒となって増幅されている疑いがある。直ちにその露を渡してもらおう」
有無を言わせぬ圧力。シズクが僕を庇うように一歩前に出た。張り詰めた空気の中、僕は掌の中の小さな結晶を強く握りしめた。
第四章 剥離の前夜
『露の収穫』を翌日に控え、僕の部屋は静寂に満ちていた。テーブルの上には、これまでに集めた色とりどりの露が、クロノグラスの周りで小さな銀河のように瞬いている。これら一つ一つに、誰かの人生が、血の通った感情が封じられている。明日になれば、僕自身の感情も、この中の一つになる。その事実に、言いようのない喪失感が胸を締め付けた。
窓を叩く音がして、シズクが入ってきた。
「準備はいい?」
彼女の問いに、僕は首を横に振る。「怖いんだ。全部なくなってしまうのが」
シズクは僕の隣に座り、クロノグラスを手に取った。中の粒子が、僕の不安に共鳴して鈍い灰色に澱んでいる。
「全ての露を集めきった時、あなたは救われる。約束するわ」
その言葉は、慰めにしてはあまりに確信に満ちていた。
その時、ドアが乱暴に開け放たれ、カガミが部下を連れて踏み込んできた。
「やはりお前たちか。これ以上、事態を悪化させるな」
カガミの冷徹な目が僕を射抜く。「リク、お前を保護する。お前の能力こそが残響現象のトリガーだ。全ての露は管理局が厳重に管理する」
絶望が僕を襲う。だが、シズクが僕の腕を掴んだ。
「行って、リク!儀式の場へ!」
彼女はカガミの前に立ちはだかる。その瞬間、僕は見てしまった。感情を失ったはずの彼女の目に宿った、燃えるような強い光を。それは、僕がこれまで追体験してきた、どんな未練よりも鮮烈な決意の色をしていた。
第五章 大人の青春
儀式の間は、純白の光に満ちていた。中央の台座に横たわると、全身から力が抜けていく。喜びが、悲しみが、怒りが、愛おしさが、僕の中からゆっくりと剥がされていく感覚。やがて胸の中心から、温かい光を放つ一粒の露が生まれ、宙に浮かんだ。僕自身の、「記憶の露」。
震える手を伸ばし、それに触れる。
次の瞬間、時が砕け散った。
集めた全ての露の感情が、僕自身の失ったはずの全感情が、奔流となって精神になだれ込んできた。卒業式の哀切、ピアニストの後悔、初めて手をつないだ日のときめき、友と喧嘩した夜の痛み。無数の感情の津波に飲み込まれ、僕は意識の淵へと沈んでいく。
――どれくらい時間が経っただろうか。
目を開けると、心配そうに僕を覗き込むシズクの顔があった。そして、その隣には、驚くべきことにカガミが立っていた。彼らの表情は、もはや能面のような無感情ではない。そこには微かな、しかし確かな人間らしい感情の色が浮かんでいた。
「ようこそ」シズクが微笑んだ。「『大人の青春』へ」
彼女の口から語られた真実は、僕の世界を根底から覆した。大人たちは感情を完全に失ったわけではなかった。彼らは『露の収穫』で剥離した露の核となる一部を秘匿し、この地下組織で静かに共有し合うことで、理性を保ちながらも人間性を維持し続けていたのだ。カガミの冷徹な態度も、僕が新たな仲間となる資格があるか試すための芝居だったという。
「我々は感情を捨てたのではない。ただ、その扱い方を学んだだけだ」カガミが静かに言った。彼の声には、もう氷のような冷たさはない。
第六章 記憶の管理者
「感情を失うことは、終わりじゃないの」
シズクは僕の手を取り、語りかけた。その声は、雨上がりの空のように澄んでいた。
「それは、誰にも制御できない感情の奔流を、静かで、どこまでも深い河の流れに変えるための儀式。私たちはその河から少しずつ水を汲み上げ、心を潤しているのよ」
「感情の残響」は、その共有システムから稀に漏れ出してしまった、いわば制御不能な感情の断片だった。彼らは、僕のような強い共鳴能力を持つ者が、その流れを調律する新たな『記憶の管理者』として現れるのを、ずっと待ち望んでいたのだ。
差し出されたシズクの手を、僕は強く握り返した。呪いだと思っていたこの力は、人と人の心を、過去と未来を繋ぐための絆だったのかもしれない。
僕はクロノグラスを高く掲げた。砂時計の中では、僕自身の露と、これまで集めてきた無数の露の粒子がゆっくりと混じり合い、オーロラのような幻想的な光を放ち始めた。それはもはや誰か一人の未練の色ではない。僕がこれから守り、受け継ぎ、そして新たに紡いでいくであろう、全ての感情が溶け合った希望の色だった。
感情と共に生きることは、時にひどく厄介で、痛みを伴う。けれど、その輝きを失ってしまえば、人生はあまりに色褪せてしまうだろう。僕は新たな世界の入り口に立ち、深く息を吸った。そこには、懐かしい金木犀の香りが満ちていた。