***第一章 天文台の幽霊と架空の星座***
錆びた鉄の匂いがする放課後の空気は、いつも僕を無気力にさせた。写真部の部室の窓から見える空は、退屈な灰色に塗り固められている。シャッターを切る気にもなれず、僕はただ、埃っぽい机に肘をついていた。水島湊、高校二年生。かつて絵を描くことに夢中だった僕は、今ではその情熱をどこかに置き忘れたまま、時間を浪費するだけの毎日を送っていた。
事件が起きたのは、そんな月曜日のことだった。古びた煉瓦造りの校舎の片隅に、今は使われていない古い天文台がある。老朽化を理由に立ち入りが禁じられ、生徒たちの間ではいつしか「天文台の幽霊」の噂が囁かれるようになっていた。もちろん、ただの怪談話だ。そう思っていた。
その夜、忘れ物を取りに学校へ戻った僕は、見てしまったのだ。固く閉ざされているはずの天文台のドームの隙間から、星屑を溶かしたような、淡く幻想的な光が漏れているのを。心臓が跳ねた。幽霊なんて信じない。だが、あの光はあまりに非現実的で、僕はその場に釘付けになった。
翌日、学校はその話題で持ちきりだった。「天文台の幽霊、見たか?」。クラスメイトたちの興奮した声が耳障りだった。そんな喧騒の中、彼女は現れた。
「夏川陽菜です。今日からお世話になります」
黒板の前に立った転校生、夏川陽菜(なつかわひな)は、まるで光そのものみたいに笑った。太陽をいっぱいに浴びた向日葵のような、屈託のない笑顔。教室の空気が、彼女の登場でぱっと華やいだ気がした。美術部に入部したらしい彼女の噂は、すぐに僕の耳にも届いた。なんでも、とんでもない天才なのだという。
その日の放課後、僕は好奇心に抗えず、再び天文台へと足を向けた。重い鉄の扉が、昨日とは違って僅かに開いている。息を殺して中へ入ると、螺旋階段が薄暗い闇の奥へと続いていた。階段を上りきった先に、その正体はあった。
ドーム状の観測室。床から天井まで届く巨大なキャンバスに、一人の少女が向き合っていた。夏川陽菜だ。イーゼルの傍らには、ランタンが置かれ、あの不思議な光を放っていた。彼女は一心不乱に筆を動かしている。そのキャンバスに描かれていたのは、圧倒的な熱量を持つ、満天の星空だった。
息を呑むほどに美しい。だが、僕の視線は、その星空の一角に吸い寄せられた。そこには、あり得ないものが描かれていたのだ。
——白鳥座の隣で、小さな狐が円を描くように星を結んでいる。
それは、僕が小学生の頃に空想で描き出した、僕だけの「子狐座」。誰にも見せたことのない、僕の秘密の星座。
なぜ、彼女がそれを知っている? 背筋を冷たい汗が伝った。僕の心の最も柔らかな部分に、見知らぬ誰かが土足で踏み込んできたような、不快な衝撃。夏川陽菜は、僕に気づくと、絵筆を止めて振り向いた。そして、あの向日葵のような笑顔で言った。
「見つかっちゃった」
彼女の瞳は、描いている星空と同じくらい、深く澄んでいた。
***第二章 届かないパレット***
「どうして、あの星座を知ってるんだ」
僕は詰問するように言った。陽菜はきょとんとした顔で小首を傾げ、「あの星座?」と繰り返す。僕がキャンバスの子狐座を指さすと、彼女は「ああ、これね」と嬉しそうに声を弾ませた。
「かわいいでしょ? なんだか、夢で見たことがあるの。ずっと昔から知ってるような、懐かしい感じがして」
夢で見た? そんな馬鹿な話があるものか。僕の疑念に満ちた視線にも、彼女は全く動じなかった。それどころか、「君も絵を描く人? なんだか、そんな匂いがする」と、僕の心の奥底を見透かすように言った。その言葉に、僕は蓋をしていた古い傷口が抉られるような痛みを感じた。
それから、僕と陽菜の奇妙な交流が始まった。僕は天文台の秘密の共有者となり、放課後、彼女が絵を描く姿を眺めることが日課になった。陽菜はいつもスケッチブックを大事そうに抱えていて、時折何かを熱心に書き込んでは、僕に話しかけてきた。
「湊くんの撮る写真、見てみたいな」
「どうして絵、やめちゃったの? もったいないよ」
彼女の言葉は、いつも真っ直ぐで、純粋で、だからこそ残酷だった。陽菜の描く絵は、僕がかつて目指し、そして届かなかった理想そのものだった。光と色彩に溢れ、命が宿っているかのように躍動している。彼女の圧倒的な才能を目の当たりにするたび、僕の胸は焦燥感と、醜い嫉妬で黒く塗りつぶされていった。
ある日、僕は衝動的に、何年も触れていなかった絵の具を取り出した。もう一度、描けるかもしれない。陽菜が僕の中に眠っていた何かを呼び覚ましてくれたのかもしれない。だが、白いキャンバスを前に、僕の腕は鉛のように重かった。頭の中に浮かぶイメージは、どれも色褪せていて、生命力がない。陽菜の輝きを知ってしまった今、自分の描くものが、ひどく陳腐で価値のないものに思えた。
結局、僕は何も描けずに絵筆を置いた。パレットの上で混じり合うことのなかった絵の具が、僕の無力さを嘲笑っているようだった。
陽菜は、秋の美術展に出品するのだと言って、天文台の星空の絵を完成させることに全霊を傾けていた。僕は複雑な思いを抱えながらも、画材の買い出しを手伝ったり、彼女の話を聞いたりした。
「この絵が完成したら、湊くんに一番に見てほしいな」
そう言って笑う彼女の横顔は、少しだけ儚げに見えた。僕は嫉妬と劣等感に苛まれながらも、どうしようもなく彼女の描く光に、そして彼女自身に惹かれていた。この感情に名前をつけるのが怖かった。
***第三章 忘れな草のスケッチブック***
締め切りを一週間後に控えた金曜日、事件は起きた。陽菜が学校に来なかったのだ。嫌な予感が胸をざわつかせた。放課後、僕は美術部の顧問から、彼女が過労で倒れ、入院したと聞かされた。
いてもたってもいられず、僕は彼女の母親から聞いた病院へと向かった。個室のベッドで眠る陽菜の顔は、いつもよりずっと幼く、そして青白かった。傍らにいた彼女の母親は、僕に深々と頭を下げた。
「湊くん、ですね。いつも娘が、お世話になっております」
陽菜の母親は、僕に全てを話してくれた。それは、僕の想像を絶する、あまりにも残酷な真実だった。
陽菜は三年前に交通事故に遭い、頭を強く打った。命に別状はなかったが、脳に重い障害が残った。新しい出来事を記憶しておくことができない、前向性健忘。彼女の記憶は、数日経つと綺麗に消えてしまうのだという。
「だから、あの子はいつもスケッチブックを持ち歩いているんです。忘れたくないこと、大切な人の顔、話したこと…全部、そこに書き留めておくの。それが、あの子にとっての世界そのものなんです」
言葉を失った。陽菜の天真爛漫な笑顔の裏に隠された、壮絶な現実。僕が嫉妬していた彼女の純粋さは、全てを忘れてしまうという宿命の上になりたつ、あまりにも脆い輝きだったのだ。
そして、母親の口から、決定的な事実が語られた。
「あの子が絵を描き始めたのは、事故の後なんです。リハビリの一環でした。でもある日、古いコンクールの画集を見て、突然『これを描きたい』って言い出したんです。あの子、ほとんどの記憶を失くしてしまったのに、その絵のことだけは、なぜかずっと覚えていて…」
母親が差し出した画集のページを開いた瞬間、僕は呼吸が止まった。そこに載っていたのは、小学生絵画コンクール、金賞受賞作品。色褪せた写真の中には、誇らしげに賞状を掲げる、幼い僕の姿があった。そして、その隣には、僕が描いた「子狐座」が輝く夜空の絵。
「この絵を描いた男の子に、あの子はずっと憧れていたんです。事故で記憶が曖昧になってからも、『夢で見た光』だって言って、その光を追いかけるように、必死に絵を描き続けて…。あの子を支えていたのは、湊くん、あなたの絵だったんですよ」
頭を鈍器で殴られたような衝撃。全身の血が逆流するような感覚。
なんだ、これは。なんだっていうんだ。僕が醜い嫉妬を向けていた相手は。僕が才能の違いに絶望し、打ちのめされたその相手は。僕が捨てた過去の栄光を、僕が価値がないと切り捨てた光を、ずっとずっと、大切に拾い集めてくれていたというのか。
彼女が追いかけていたのは、僕だった。僕自身が生み出した光だった。
陽菜が僕を「絵を描く人」だと見抜いたのも、「懐かしい感じがする」と言ったのも、全てはここに繋がっていた。彼女は、憧れの対象が目の前にいるとは知らずに、ただ、僕の面影を追いかけていたのだ。
僕の価値観が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていった。病室の窓から差し込む西日が、床に落ちた僕の涙を、オレンジ色に染めていた。
***第四章 きみが忘れた星空***
病院からの帰り道、僕はまっすぐ学校へ向かった。天文台の重い扉を開け、螺旋階段を駆け上がる。観測室の真ん中には、陽菜の描きかけのキャンバスが、主を失って静かに佇んでいた。あと少しで完成するというところで、彼女の筆は止まっていた。
傍らには、彼女の宝物であるスケッチブックが置かれていた。僕は震える手でそれを開いた。そこには、拙いけれど温かい文字と絵で、彼女の世界がぎっしりと詰め込まれていた。
『ミナトくん。写真部。ちょっとぶっきらぼうだけど、本当は優しい。わたしの絵を、すごく真剣な目で見てくれる』
『ミナトくんと話した。昔、絵を描いてたって。どうしてやめちゃったんだろう。もったいない』
『天文台の星は、すごく懐かしい感じがする。あの小さな狐は、きっとわたしの道しるべ』
ページをめくるたびに、涙が溢れて止まらなかった。彼女が僕と過ごした時間。僕が嫉妬と劣等感に苛まれていた、その同じ時間。彼女はこんなにも温かい眼差しで、僕を見つめてくれていた。忘れてしまうからこそ、一瞬一瞬を、必死に刻みつけようとしていた。
僕は決意した。この絵を、僕が終わらせる。
陽菜のためじゃない。僕自身のためだ。僕が捨てた過去と、彼女が繋いでくれた未来のために。
僕は家に帰り、埃を被っていた画材を全て鞄に詰め込んだ。そして天文台に籠り、描くことに没頭した。陽菜のスケッチブックを何度も見返し、彼女の筆致を、色の選び方を、光の捉え方を、自分の身体に染み込ませるようにして描いた。それは模倣でありながら、僕自身の祈りでもあった。
キャンバスの上で、陽菜が追いかけた僕の過去の光と、僕が陽菜に見出した現在の光が、一つに溶け合っていく。夜を徹して筆を動かし続けた。東の空が白み始める頃、絵は完成した。
それは、陽菜の絵であり、僕の絵でもあった。僕たちが共鳴して生まれた、ただ一つの星空だった。
美術展当日、僕が完成させた絵は、「夏川陽菜」の名前で展示された。多くの人が足を止め、その圧倒的な光に感嘆の声を漏らしていた。僕はその光景を、少し離れた場所から静かに見ていた。
数日後、退院した陽菜と、天文台で会った。少し痩せた彼女は、僕のことを見て、少しだけ戸惑ったような顔をした。きっと、僕の記憶はもう、曖昧になっているのだろう。
「あの…」
「やあ」僕は努めて明るく言った。「絵、完成したんだ。美術展、すごい人気だったよ」
僕が指さしたキャンバスを見て、陽菜は「わぁ…」と息を呑んだ。
「きれい…。誰が描いたの? すごい…。なんだか、とても懐かしい夢を見ていたような気がする」
そう言って、彼女は柔らかく微笑んだ。その笑顔は、僕が初めて会った日と同じ、向日葵のような笑顔だった。
「僕だよ。君と一緒に描いたんだ」
陽菜は不思議そうに僕の顔を見つめる。きっと彼女は、この会話も、数日後には忘れてしまうだろう。それでも、構わない。
たとえ君が忘れてしまっても、僕は覚えている。君が僕の光を見つけてくれたこと。君のおかげで、僕がもう一度、自分の光を取り戻せたこと。何度忘れられても、僕はまた、君に伝えよう。君のスケッチブックの新しいページに、僕たちの物語を、また一から書き始めよう。
僕は錆びた天文台を後にして、自分のアトリエに戻った。そして、真っ白なキャンバスに向かい、新しい絵筆を握る。
誰のためでもない。評価のためでもない。ただ、僕が描きたいから描く。僕の胸のうちにある、この切なくて、温かい光を、形にするために。
空には、僕と彼女だけが知っている、子狐座が静かに輝いていた。青春とは、記憶の長さではないのかもしれない。たとえ忘れ去られようとも、誰かの心に灯した光が、巡り巡って未来の自分を照らし出す。その一瞬の煌めきこそが、きっと、全てなのだ。
きみが忘れた星空
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