***第一章 破られた頁(ページ)***
祖父が死んだのは、初夏の雨がアスファルトの匂いを立ち上らせる、そんな蒸し暑い日のことだった。病院の白いベッドの上で、祖父は枯れ木のように静かだった。僕、水島健司(みずしまけんじ)にとって、祖父は物静かで、背筋がいつも伸びている、ただの古い人だった。戦争の話をせがんでも、「つまらん話だ」と口を閉ざし、その瞳の奥に揺らめく感情を読み取れたことは一度もなかった。
四十九日を過ぎ、祖母に頼まれて祖父の書斎を整理していた時のことだ。埃っぽい書棚の奥、古い漢和辞典の影に隠れるようにして、一冊の革張りの手帳が置かれていた。手に取ると、ずしりと重い。表紙には何も書かれていない。好奇心に駆られてページをめくると、そこにはインクが滲んだ、祖父の生真面目な筆跡がびっしりと並んでいた。
『昭和十九年、秋。我々の部隊は、名も知らぬ南の島に駐屯している』
それは、祖父の戦時中の日記だった。退屈な日常、飢えと渇き、仲間たちの死。テレビドラマでしか見たことのない世界が、生々しい言葉で綴られていた。僕は、まるで禁じられたものを覗き見るような背徳感とともに、ページをめくる手を止められなかった。
日記は淡々と戦場の日常を描いていたが、ある時期から頻繁に、一人の「敵兵」のことが記されるようになる。
『捕虜収容所の鉄条網の向こうに、青い目をした兵士がいる。名はオリヴァート言うらしい。いつも俯いて、何かを恐れている小動物のようだ』
『今日、オリヴァーがハーモニカを吹いていた。故郷の歌だろうか。悲しく、美しい旋律だった』
『身振り手振りで話をした。俺の故郷には桜という美しい木があること、彼の故郷には樫の木が森を作っていることを知った』
祖父と敵国の兵士、オリヴァー。二人の間には、言葉の壁を越えた不思議な友情が芽生えていたようだった。そして、日記の終盤に、僕の心を強く掴む記述が現れた。
『オリヴァート約束をした。もし、この地獄を生き延びることができたら。俺は彼の故郷に桜の木を、彼は俺の故郷に樫の木を植えよう、と。互いの国に、憎しみではなく、命の証を残すのだ。馬鹿げた夢物語かもしれん。だが、今はその約束だけが、俺の心を支えている』
胸が熱くなった。こんなロマンチックな約束を、あの寡黙な祖父が。しかし、僕の興奮は次の瞬間、冷水を浴びせられたように消え失せた。その約束が書かれたページを最後に、日記はぷっつりと途切れていたのだ。いや、違う。よく見ると、最後の数ページが、根本から綺麗に引きちぎられていた。
約束の結末は?二人はどうなったのか?祖父はなぜ、この最も重要な部分を自らの手で葬り去ったのだろう。書斎の窓から見える、庭の隅にそびえ立つ一本の巨大な樫の木が、不意に僕の目に飛び込んできた。子供の頃から当たり前にそこにあった、あの木が。まさか。謎は、深い霧のように僕の心を包み込んだ。
***第二章 名もなき兵士の旋律***
その日から、僕の日常は一変した。これまで無気力に眺めていた灰色の世界が、祖父の日記というフィルターを通して、鮮やかな色彩と謎を帯び始めたのだ。僕は大学の講義もそこそこに、図書館に通い、祖父がいたであろう南方の戦線に関する資料を読み漁った。しかし、一個人の兵士の記録など見つかるはずもなかった。
手がかりは、あの日記と、庭の樫の木だけだ。
夜、再び祖父の書斎に忍び込み、日記を手に取った。インクの匂いにかすかに混じる、古い革と、遠い時代の湿った土の匂い。僕はページをゆっくりとめくり、祖父とオリヴァーの交流を何度も読み返した。
そこには、戦争という極限状態の中にあるとは思えないほど、穏やかな時間が流れていた。
『オリヴァーが、俺の拙い絵を見て笑った。桜の花が、まるで爆発しているように見えたらしい。無理もない。俺は本物の爆発しか、もう思い出せないのだから』
『ハーモニカの音が聞こえた。それは俺が鼻歌で歌った故郷の歌だった。オリヴァーが覚えて、吹いてくれたのだ。不覚にも、涙がこぼれた。鉄条網のこちら側と向こう側で、同じ旋律が夜の闇に溶けていく。この音色に、国境などない』
五線譜のように引かれた鉄条網を挟んで、二人は音を交換し、絵を描き、未来を語った。それは、敵と味方という記号を剥ぎ取られた、ただの青年と青年の姿だった。祖父は、オリヴァーとの時間に救われていたのだ。殺伐とした日々の中で、人間性を失わずに済んだのは、間違いなくオリヴァーの存在があったからだろう。
僕は日記を閉じ、窓の外に目をやった。月光に照らされた樫の木が、巨大な影を地面に落としている。子供の頃、あの木に登っては、蝉の声を聴き、幹に背を預けて昼寝をした。祖父はいつも縁側から、黙って僕の姿を見ていた。一度だけ、「その木は、大事な木なんだ」と、ぽつりと言ったことがある。あの時は意味が分からなかったが、今なら分かる気がした。
この木は、オリヴァーが植えたものなのか?いや、戦後、彼がはるばる日本を訪れたとは考えにくい。では、祖父が苗木を手に入れて植えたのか?だとしたら、約束は果たされたことになる。なのに、なぜ日記の最後を破り捨てたのだろう。そこには、美しい友情物語で終わらせられない、何かがあったのではないか。
答えの出ない問いが、頭の中を巡る。僕は、祖父が隠したかった真実の欠片を、どうしても見つけ出したかった。それはもう、ただの好奇心ではなかった。祖父という人間の、本当の姿に触れたいという、渇望にも似た想いだった。
***第三章 鉄条網の向こうの約束***
決定的な手がかりは、思いもよらない場所から見つかった。祖母が「形見分けに」と渡してくれた、桐の箱。中には祖父の勲章や古い万年筆と一緒に、一冊の分厚いアルバムが収められていた。
ページをめくると、セピア色の写真の中に、若い頃の祖父がいた。軍服を着て、仲間たちと肩を組んでいる。その表情は、僕が知る晩年の祖父とは別人のように、若さと活力に満ちていた。僕は一枚一枚、食い入るように写真を見つめた。そして、アルバムの最後のページに挟み込まれた一枚の写真に、息を呑んだ。
日付も場所も記されていない、手札サイズの小さな写真。そこには、鉄条網を挟んで、二人の兵士が写っていた。一人は間違いなく、若い頃の祖父だ。そしてもう一人、鉄条網の向こう側で、ぼろぼろの服を着て物憂げに立つ、青い瞳の兵士。その手には、小さなハーモニカが握られていた。
オリヴァーだ。
心臓が大きく脈打った。僕は震える手で写真を裏返した。そこには、鉛筆で書かれた、震えるような祖父の文字があった。
『昭和二十年、一月。敵の総攻撃が始まった日。俺は、命令に従い、オリヴァーを撃った』
時が止まった。頭を鈍器で殴られたような衝撃。呼吸が浅くなり、指先が冷えていく。祖父が、オリヴァーを?あの、ハーモニカの旋律を分かち合った友を?
メモは、まだ続いていた。
『彼の体が崩れ落ちる瞬間が、今も目に焼き付いている。ハーモニカが泥の中に転がった。彼は最期に、何かを俺に差し出した。ポケットから取り出した、小さな布の包みだった。そして、途切れ途切れの声で、確かにこう言ったのだ。俺が教えた、俺の国の言葉で。
「ヤクソク……」と。
それは、一粒の、樫の木のどんぐりだった』
僕はその場で崩れ落ちそうになった。全身の力が抜け、アルバムが手から滑り落ちる。そういうことだったのか。庭の樫の木は、友情の証などではなかった。祖父が、自らの手で殺めた友から託された、血塗られた約束の証だったのだ。
祖父は戦後、そのどんぐりを持ち帰り、庭に植えた。それは贖罪だった。決して忘れることのできない罪の記憶を、命の形に変えて、自分の傍らに置き続けたのだ。日記の最後のページを破り捨てた理由も、痛いほどに理解できた。英雄的な友情物語などでは断じてない。裏切りと後悔にまみれた、あまりにも辛い真実。彼はそれを誰にも知られたくなかった。たった一人で、その重すぎる十字架を、生涯背負い続けてきたのだ。
僕は窓の外にそびえる樫の木を見上げた。子供の頃の楽しい記憶が、音を立てて崩れていく。あの木は、祖父の深い悲しみと、オリヴァーという青年の無念を吸い込んで、こんなにも大きく育ったのか。
***第四章 世代を越える木霊(こだま)***
数日間、僕は抜け殻のようだった。祖父の書斎に入ることも、庭の樫の木を見ることもできなかった。真実は、僕が想像していたよりもずっと重く、残酷だった。平和な時代に生まれ、戦争を物語としてしか消費してこなかった自分自身の浅はかさを、思い知らされた。
しかし、時間が経つにつれ、僕の心の中に別の感情が芽生え始めた。それは、祖父に対する深い、深い共感だった。友を殺めなければならなかった痛み。託された約束の重み。そのすべてを一人で抱え、沈黙のうちに生きてきた祖父の人生に、僕は思いを馳せた。寡黙だった祖父の背中は、どれほどの悲しみを背負っていたのだろう。
僕はもう一度、祖父の書斎に入った。そして、破り取られた日記帳と、あの写真、そしてメモを机の上に並べた。
祖父は、この物語を闇に葬りたかったのかもしれない。だが、本当にそうだろうか。日記を捨てずに、書棚の奥に隠していたのは。写真をアルバムに挟んでいたのは。心のどこかで、誰かにこの真実を知ってほしかったのではないか。この悲しい約束を、自分一人のもので終わらせたくなかったのではないか。
そう考えると、庭の樫の木が、まるで違う意味を持って僕の目に映り始めた。それはもはや、単なる贖罪のシンボルではなかった。戦争という巨大な不条理の中で、それでも失われなかった人間と人間の絆の証。憎しみの連鎖を断ち切り、未来へ何かを繋ごうとした、二人の青年の魂の叫びそのものだった。
祖父は、オリヴァーとの約束の半分を果たした。樫の木を、日本の地に根付かせた。だが、約束はまだ半分残っている。
「桜の木を、彼の故郷に」
僕は立ち上がった。無気力に澱んでいた心に、確かな意志の光が灯るのを感じた。僕がやるべきことは一つだ。
数日後、僕は園芸店で一本の若い桜の苗木を買った。そして、図書館でオリヴァートいう名が多そうな国を調べ、その国の地図を広げた。どこにあるのかも分からない、オリヴァーの故郷。見つけ出すのは途方もない作業になるだろう。それでも、行かなければならない。
僕は祖父の書斎に戻り、万年筆を手に取った。そして、破られた日記帳の、最後の白紙のページに、新しいインクで言葉を綴り始めた。
『じいちゃん、あなたの物語は、まだ終わっていない。今度は、僕が引き継ぐ番だ』
窓の外では、初夏の強い日差しを浴びて、樫の木が力強く葉を茂らせていた。風が枝を揺らし、ざわめきが聞こえる。それはまるで、遠い昔のハーモニカの旋律と、世代を越えて響き合う木霊のようだった。
約束は、まだ終わっていない。僕の旅は、ここから始まるのだ。
樫の木のレクイエム
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