ラスト・ブルーム
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ラスト・ブルーム

第一章 色褪せた街の収集家

アスファルトの匂いが、雨上がりの湿気と共に立ち上る。しかし、そこに本来あるべき濡れた黒の深みはない。街のすべてが、まるで古い写真のように色褪せていた。建物の壁はくすんだ鼠色、空は白に近い灰色。人々は緩慢な動きで歩道を行き交い、その瞳には何の光も宿っていなかった。

僕、カイは路地裏の壁に背を預け、息を潜めていた。目の前には、ギターケースを抱きしめたまま蹲る青年がいる。かつて彼が放っていたであろう情熱の残滓が、陽炎のように揺らめいて見えた。真紅の、閃光のような色彩。だがそれも、今や消えかけの蝋燭のようだ。

「……もう、音が聴こえないんだ」

青年が虚ろに呟く。カイはゆっくりと立ち上がり、彼に近づいた。罪悪感が冷たい指先となって心臓を掴む。けれど、このままでは彼は完全に「色」を失い、動かぬ石になってしまう。

そっと、青年の肩に触れた。

瞬間、網膜を焼くような真紅の奔流が、カイの身体に流れ込んでくる。ライブハウスの熱気、弦を掻き鳴らす指先の痛み、恋人に向けた不器用なメロディ。彼の「青春」が、その未熟さと情熱のすべてが、一瞬にしてカイの中にダウンロードされた。

青年は小さく呻き、ゆっくりと顔を上げた。その瞳から葛藤の炎は消え、諦観にも似た穏やかな光が宿っている。彼の時間は、ほんの少しだけ未来へ加速したのだ。大人になってしまった、と言ってもいい。

カイはふらつきながら後ずさる。懐から取り出した古びた日記帳のページをめくると、そこには一枚の幻影が浮かび上がっていた。スポットライトの下で、汗まみれになってギターをかき鳴らす青年の姿が、鮮明な写真のように焼き付いている。

その代償に、日記帳に記されていたはずの僕自身の記憶――幼い頃、初めてクレヨンを握った日の思い出の文章が、インクの染みのように滲んで薄れていく。胸にぽっかりと穴が空く感覚。他人の青春を奪うたび、僕自身の時間が歪み、過去が消えていくのだ。

第二章 残光の少女

世界から色彩が失われていく中で、奇跡のようにその輝きを保っている存在がいた。

公園のベンチに座り、スケッチブックを広げる少女。彼女の名前はルナ。風に揺れる彼女の髪は、この街で唯一残された淡い琥珀色をしていた。彼女の周りだけ、空気がほんのりと色づき、世界がまだ終わっていないことを証明しているかのようだった。

カイは少し離れた木陰から、ただ彼女を見つめていた。触れたい。その衝動は、彼女の放つ生命力に引き寄せられる蝶のようだった。しかし同時に、強い恐怖が全身を縛り付ける。この手に触れれば、彼女のその貴重な輝きさえも奪い、日記帳のコレクションに加えてしまうことになる。

「あの……何か?」

不意に声をかけられ、カイは心臓が跳ねるのを感じた。ルナが、不思議そうな顔でこちらを見ている。その瞳は、澄んだ泉のような色をしていた。

「いや、ごめん。君の周りだけ、なんだか……空気が違う気がして」

「空気が?」ルナは首を傾げたが、やがて寂しそうに微笑んだ。「昔は、もっと世界がキラキラしてたって、おばあちゃんが言ってた。夕焼けは燃えるようなオレンジで、森は深い緑色だったって。私、その色を描きたいのに、もうどんな色だったか思い出せないの」

彼女はスケッチブックをカイに見せた。そこには鉛筆で描かれた精緻な街の風景があったが、彩色は一切されていなかった。描くべき色が見つからないのだ。

ルナの言葉が、鋭い棘となってカイの胸に突き刺さる。この世界から色を奪っている元凶の一端が、自分にあるのかもしれないという疑念が、黒い霧のように心を覆っていく。

第三章 日記帳の囁き

埃っぽい自室に戻り、カイは色褪せた日記帳を開いた。ページをめくるたび、他人の青春が幻灯のように明滅する。

卒業式で泣きながら親友と抱き合う少女の、淡い桜色の喜び。

初めて告白して振られた少年の、滲むような藍色の痛み。

夢を追いかけて故郷を飛び出した若者の、燃えるような黄金色の希望。

これらは全て、僕がダウンロードしたものだ。僕の中に渦巻く鮮やかな感情の数々。しかし、どれ一つとして僕自身のものではない。それはまるで、借り物の心で生きているような、奇妙な孤独感をもたらした。

日記帳の残りのページは、もう数えるほどしかない。祖母から譲り受けたこの日記帳には、不吉な予言が記されていた。『最後の頁が埋まる時、世界の光は永遠に失われる』。

コンコン、と控えめなドアのノックが響いた。そこに立っていたのはルナだった。

「あなたの絵が見たいって言ったら、迷惑かな?」

彼女は少し恥ずかしそうに言った。カイがたまに絵を描いていることを、どこかで聞きつけたらしい。

カイは躊躇った。この部屋は、僕が集めた「青春の墓標」で満ちている。しかし、彼女の真っ直ぐな瞳を拒むことはできなかった。招き入れた部屋で、ルナは壁に飾られた数枚の絵に目を輝かせた。それらは、カイが追体験した青春の感情を、ありったけの色を使ってキャンバスに叩きつけたものだった。

「すごい……こんなに鮮やかな色、久しぶりに見た……」

ルナが絵に近づき、その表面にそっと指を伸ばした。その瞬間、カイは衝動的に彼女の腕を掴んでいた。

「だめだ!」

触れてしまった。ルナの肌の温もりが、カイの掌から全身へと駆け巡る。そして、彼女の中から流れ込んでくる、まだ蕾のように固い、けれど確かにそこにある未来への期待と不安の色彩。

カイは慌てて手を離した。ルナは驚いた顔をしたが、その瞳の輝きはまだ失われていない。だが、日記帳の最後から二番目のページに、淡い光の輪郭が浮かび上がり始めていた。

もう、時間がない。

第四章 灰色の真実

その日は、突然やってきた。空が鉛のような重い灰色に完全に閉ざされ、街に残っていた最後の色彩が、まるで水に溶ける絵の具のように急速に失われていったのだ。人々は道端で次々と膝をつき、まるで糸の切れた人形のように動かなくなっていく。世界の生命活動が、停止しようとしていた。

カイがルナのアパートに駆けつけると、彼女もまたベッドの上でぐったりとしていた。あの琥珀色の髪も、今は色を失い、乾いた藁のようだ。

「カイ……寒い……」

彼女の放つ色彩が、風前の灯火のように揺らめいている。このままでは、ルナも消えてしまう。

カイの脳裏に、幼い頃に聞かされた御伽噺が蘇る。街の中心にそびえ立つ、時を司るという「古き時計塔」。そこが全ての始まりであり、終わりであると、祖母は言っていた。

カイはルナの手を握りしめた。

「必ず、色を取り戻す。だから、待っていて」

時計塔の重い扉を開けると、そこは無数の歯車が静かに回る異質な空間だった。中心には、光の粒子が集まってできた巨大な人型の精神体が浮遊している。

『来たか、我が末端よ』

声が直接、頭の中に響いた。

「お前が、この世界の色彩を……!」

『我はクロノス・コレクター。世界の調律者だ』精神体は静かに語る。『生命が放つ過剰な感情――お前たちが「青春」と呼ぶそれは、世界を不安定にする混沌の源。我はそれを回収し、世界に秩序と安定をもたらしているのだ』

精神体の言葉に、カイは愕然とした。

『お前の能力は、効率よく感情を回収するために我が生み出した、数ある端末の一つに過ぎぬ。お前がダウンロードした青春は、全て我の元へ送られていたのだ』

僕が良かれと思ってやってきたことは、結局、この世界の色彩を奪う手伝いをしていただけだったのか。絶望が、カイの心を蝕んでいく。

第五章 全ての青春を君に

カイの持つ日記帳が、激しく光を放ち始めた。最後のページが、まさに今、色を失いつつあるルナの生命力で埋まろうとしていた。これが埋まれば、予言通り、世界は完全な沈黙に包まれるだろう。

『これで世界は永遠の安寧を得る』

クロノス・コレクターが宣告する。

安定だと? 感情のない、色のない、ただ時間が流れるだけの世界。それは死んでいるのと同じじゃないか。ルナが描きたがっていた、燃えるような夕焼けも、深い森の緑もない世界。そんなもの、誰が望む!

カイは決意した。全身の血が沸騰するような感覚。これは僕自身の感情だ。初めて、心の底から湧き上がってきた、僕だけの情熱。

彼は日記帳を胸に強く抱きしめた。そして、意識を集中させる。ダウンロードするのではない。解放するんだ。この身体に溜め込んできた、名も知らぬ人々の、かけがえのない青春のすべてを。

「これはお前なんかのものじゃない! これは、この世界が生み出した、痛みと輝きの結晶だ!」

カイが叫ぶと同時に、彼を中心に色とりどりの光の奔流が巻き起こった。日記帳に封じられていた全ての青春が、一度に解き放たれる。真紅の情熱、藍色の悲哀、黄金色の希望、桜色の恋心――無数の色彩粒子が渦を巻き、巨大な光の龍となってクロノス・コレクターに叩きつけられた。

『な……にを……! 許容範囲を……超える……カオスだ……!』

精神体が苦悶の声を上げる。システムが過剰な感情の奔流に耐えきれず、激しい光を放ちながら崩壊していく。カイの身体もまた、膨大なエネルギーの放出に耐えきれず、意識が白く染まっていった。

第六章 青春なき世界で

気がつくと、カイは公園のベンチに座っていた。

世界は、信じられないほどの色彩で満ち溢れていた。空はどこまでも青く、木々の緑は目に鮮やかで、咲き乱れる花々はそれぞれの色を誇っている。街行く人々は笑い、語らい、その瞳は生命力に満ちていた。世界は、色と感情を取り戻したのだ。

「カイ!」

懐かしい声に顔を上げると、そこにルナが立っていた。彼女の髪は輝くような琥珀色に戻り、その頬は健康的な薔薇色に染まっている。

「良かった……目が覚めたのね」

彼女はカイの隣に座り、その手を優しく握った。その瞳には、深く、穏やかな愛情が満ちていた。完成された、大人の愛。

カイは違和感を覚えた。世界は確かに色を取り戻した。人々も感情豊かになった。だが、何かが決定的に失われていた。

街には、かつて存在した「危うさ」がなかった。夢に破れて泣き崩れる若者も、理由もなく走り出したくなるような衝動に駆られる子供もいない。人々は愛を知り、夢を追う。けれど、そこに「未熟さ故の青臭い輝き」や「どうしようもない焦燥感」といった、かつて「青春」と呼ばれた感情の揺らぎが存在しなかった。誰もが、生まれながらにして成熟した魂を持っているかのようだった。

あの最後の解放の代償として、「青春」という概念そのものが、この世界から消滅してしまったのだ。

カイは自分の手元を見た。そこには、真っ白な、何も書かれていない新しい日記帳があった。彼がダウンロードした青春の記憶も、彼自身の過去の記憶も、全てが消え去っていた。ただ、胸の奥に、何かとても大切なものを失ったような、微かな痛みだけが残っている。

「ねえ、カイ。これから二人で、この世界の美しい色をたくさん見に行きましょう」

ルナが微笑む。その完璧な笑顔を見つめながら、カイは静かに頷いた。

色鮮やかで、感情豊かで、けれど二度とあの不器用な輝きが生まれることのない世界。僕たちは何を得て、何を失ったのだろう。

その答えを知る者は、もうどこにもいない。

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