エーテル・リリィと透明な羽根
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エーテル・リリィと透明な羽根

第一章 孤独のエーテル

リリィは、他人の感情に色が見えた。正確には、友情と呼ばれる、その不可視の繋がりが放つ微かな光――エーテルを視認できた。街ゆく人々の背からは、暖かい黄金色や、静謐な青銀色の光の粒子が立ち上り、互いに絡み合っては、その純度と濃度をリリィの網膜に数値として映し出す。純度98.2%、共鳴率87.5%。彼女にとって世界は、無数の数値と色彩で織りなされたタペストリーだった。

雨の日は、その色がひときわ鮮やかに見える。濡れた石畳に反射する街灯の光が、人々の背に宿る『絆の羽根』を照らし出すからだ。この世界では、誰もが『友情共鳴周期』を迎えるたびに、友情の証として羽根を生やす。孔雀のように豪華な羽根、鷲のように力強い羽根、蝶のように繊細な羽根。その輝きこそが、社会的地位であり、個人の価値そのものだった。

リリィの背には、何もない。

十八回目の共鳴周期を終えても、彼女の背には一片の羽根も芽吹かなかった。人々は彼女を『孤独の兆候』を持つ者と呼び、その視線は憐れみと侮蔑の絵の具で塗りたくられていた。彼女の視界に映るエーテルは、常に自分を避けて流れていく。まるで、彼女という存在が、友情という概念そのものから拒絶されているかのように。

冷たい雨粒が頬を伝う。リリィは濡れるのも構わず、胸元に手を当てた。そこには、幼い頃から肌身離さず持っている、くすんだ石――『絆の原石』が、心臓の鼓動と呼応するように、微かな温もりを宿していた。これがある限り、自分は独りではない。そう信じることだけが、彼女の唯一の支えだった。

第二章 透明な共鳴

その出会いは、雨上がりの広場で訪れた。水たまりが空の青を映す中、噴水の縁に座る一人の少年が、リリィの目に留まった。彼の周りには、誰の友情エーテルも漂っていない。人々は彼を存在しないかのように通り過ぎていく。リリィと同じ、孤独の匂いがした。

だが、違った。

彼の背には、確かに羽根があったのだ。それは硝子細工のように精巧で、陽光を浴びて淡い虹色の輪郭を描いていたが、ほとんどの部分が空気のように透き通っていた。リリィ以外の誰にも、その存在は見えていないようだった。彼女の網膜が弾き出した数値は、計測不能――『ERROR』。こんな表示は初めてだった。

思わず、一歩踏み出す。

「あの……あなたの羽根……」

少年は驚いたように顔を上げた。影を帯びた瞳が、真っ直ぐにリリィを射抜く。

「見えるのか? 僕の羽根が」

彼の声は、静かな水面のように凪いでいた。

カイと名乗るその少年は、リリィと同じく、周囲から『羽根なし』として扱われていた。彼の透明な羽根は、友情のエーテルを一切放出しない。だから誰の目にも映らないのだと、彼は諦めたように言った。

「妹がいるんだ。『羽根枯れ病』で……」

カイの視線が、遠くの時計塔に向けられる。その横顔に浮かぶのは、純度100%の、しかし行き場のない無色の祈りだった。

第三章 枯れゆく世界

『羽根枯れ病』――それは、世界を静かに蝕む絶望の病だった。あれほど誇らしく輝いていた絆の羽根が、ある日を境に色を失い、脆く崩れ落ちていく。原因は不明。治療法もない。羽根を全て失った者は、例外なく孤独死を迎えるとされていた。

街は活気を失い、人々の友情エーテルは、濁った灰色や錆びた赤色に変質していた。互いを疑い、見えない病原菌を恐れるように距離を取る。かつては共鳴し合っていた光の粒子が、今は反発し合い、世界全体のエーテル濃度が日に日に希薄になっていくのを、リリィは肌で感じていた。

カイの妹、ミナの病状も悪化の一途を辿っていた。カイが必死に看病する傍らで、彼女の背にある小さな純白の羽根は、一枚、また一枚と力なく抜け落ちていく。その光景は、リリィの胸を鋭く抉った。

「何か、方法があるはずだ」

リリィは、カイの固く握られた拳を見つめながら言った。彼女の目には、ミナの生命エーテルが、まるで風前の灯火のように揺らめいているのが見えていた。自分には羽根がない。誰かを勇気づける立派な友情もない。けれど、この透明な羽根を持つ少年の絶望を、ただ見ていることだけはできなかった。

二人は、街の古文書館に籠もった。忘れ去られた伝承の中に、万分の一の希望を探して。

第四章 原石の囁き

古書の黴臭い匂いが、沈黙を濃密にしていた。何冊目かの羊皮紙の束をめくっていた時、リリィの指がある記述の上で止まった。

『――世界が絆の光を失いし時、羽根なき乙女が現れる。その身に宿すは『触媒の石』。形なき友情は、枯れたる羽根に生命を注ぐ源泉とならん――』

その文字列を目で追った瞬間、リリィの胸の『絆の原石』が、心臓を鷲掴みにするような熱を発した。

「うっ……!」

思わず胸を押さえる。石が、まるで生き物のように脈打ち、熱い奔流が全身を駆け巡った。

その時だった。館の扉が乱暴に開かれ、息を切らした伝令が駆け込んできた。

「カイ! ミナの容態が……!」

病室に駆け戻ると、ミナの呼吸は浅く、最後の一枚となった羽根が、塵となって消えかかっていた。絶望が空気を凍らせる。カイが崩れ落ちるようにベッドの傍らに膝をついた。

リリィは、衝動的に動いていた。震える手でカイの背中――その透明な羽根に触れる。

刹那、リリィの指先から、抑えきれないほどの純粋な光が溢れ出した。それは、彼女の胸の原石から直接流れ込む、生命そのもののようなエーテルだった。光はカイの透明な羽根を通過すると、増幅され、優しいプリズムとなってミナの背中に降り注いだ。

消えかけていた羽根の輪郭が、ふわりと光を帯びる。ほんの僅かだが、確かな生命の色を取り戻していた。

リリィは悟った。カイの透明な羽根は、友情エーテルを放出しない代わりに、他者の力を増幅し、伝える『レンズ』だったのだ。そして、自分の羽根が生えなかった理由。それは、私の友情が、誰かのための『力』になる運命だったからだ。胸の原石こそが、その力の源泉だった。

第五章 最後の選択

真実は、あまりにも過酷な祝福だった。自分の力を解放すれば、世界中の羽根枯れ病を癒せるかもしれない。だがそれは、自身の友情の核である『絆の原石』を砕き、その存在そのものを賭けることを意味していた。力の源を失った自分がどうなるのか、想像もつかなかった。

「駄目だ、リリィ」

カイが、リリィの腕を掴んだ。その瞳には、初めて見る強い光が宿っていた。

「君を犠牲になんてできない。そんなのは、本当の救いじゃない」

彼の言葉が、リリィの心を温かく満たす。初めてだった。誰かが、自分のために、これほど純粋なエーテルを向けてくれたのは。彼女の視界に映るカイのエーテルは、もはや無色透明ではなかった。それは、リリィにしか見えない、朝焼けのような、暖かく優しい色をしていた。

「ありがとう、カイ」

リリィは微笑んだ。その表情は、不思議なほど晴れやかだった。

「でもね、これが、私の友情の形なんだ。誰かに羽根を誇ることじゃない。誰かのために、この力を使うこと。やっと、見つけられたの」

彼女はそっとカイの手を振りほどき、街の中心にある時計塔の広場へと向かった。空は、まるで世界の終わりを告げるかのように、重い鉛色に染まっていた。

第六章 羽根なき祈り

広場の中央で、リリィは立ち止まった。人々が、不安げな表情で遠巻きに見ている。彼女は静かに瞳を閉じると、胸元から『絆の原石』を取り出した。くすんでいたはずの石は、内側から眩い光を放ち、今にも弾けそうに脈動していた。

リリィは祈る。

この孤独な世界で出会った、いくつもの友情の光を。疎まれ、蔑まれながらも、確かに感じた人の温もりを。そして、透明な羽根で、私の本当の価値を教えてくれた、たった一人の少年のことを。

「――行って」

囁きと共に、彼女は原石を天に掲げた。石は甲高い音を立てて砕け散り、無限の光の粒子となって世界中に降り注いだ。それは、まるで暖かな春の雨だった。光のシャワーを浴びた人々の背で、枯れ果てていた羽根が次々と再生していく。色を失った世界に、再び鮮やかな色彩が戻っていく。人々は、互いの再生した羽根を見つめ、涙を流し、そして、固く抱きしめ合った。

光が収まった時、リリィはまだそこに立っていた。

彼女の背中には、やはり羽根一枚ない。彼女の周りを流れていたはずの、他者の友情エーテルさえ、もう彼女の目には映らなかった。全ての力を、使い果たしてしまったのだ。

だが、彼女は独りではなかった。

カイが、静かに隣に立っていた。彼は何も言わず、そっとリリィの手を握った。その手は、確かな温もりを持っていた。

リリィは空を見上げた。灰色だった空は、いつの間にか澄み渡るような青に変わっていた。

もう、友情の色も数値も見えない。けれど、それでよかった。本当の絆は、目に見えるものではなく、こうして繋いだ手の温もりで感じられるものなのだと、世界が、そして彼女自身が、ようやく知ったのだから。

羽根なき少女の背中は、どんな豪華な羽根よりも、気高く、美しく見えた。


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