反響する虚無のソネット
第一章 借り物の輪郭
エコーの存在は、常に借り物だった。彼が今まとっている穏やかな眼差しも、思索にふけるときに指で顎をなぞる癖も、すべては傍らを歩く歴史家アリアから反響したものだ。彼女の深い友情が、エコーという名の空っぽの器に、意味と輪郭を与えていた。自身の過去を持たずに生まれた彼は、他者の最も大切な記憶を写し取ることでしか、自己を認識できなかった。
「また、薄くなっているわ、エコー」
アリアの声には、乾いた紙を撫でるような憂いが滲んでいた。彼女の指がエコーの腕に触れる。その感触は確かにあるはずなのに、エコー自身の感覚は曖昧で、まるで霧の向こうから触れられているようだった。
「気のせいだよ」
そう答える声も、今はアリアの声を模している。しかし、その響きには芯がなかった。
原因は分かっている。胸に提げた銀のロケットが、その証拠だった。かつて、エコーの最初の友人――『平和の建築家ライラ』の記憶を反響させていた頃、このロケットは虹色の光で満たされていた。ライラの揺るぎない信念、世界への深い慈愛、そのすべてがエコーの核だった。だが今、ロケットは鉛のように鈍く、重い。世界からライラの記憶が消えゆく「大いなる忘却」が、エコーの存在そのものを根底から蝕んでいた。ライラが築いた街は活気を失い、彼女が紡いだ法は忘れられ、アニマの流れは淀み、世界はゆっくりと死に向かっていた。そして、その忘却は、エコーの内なる虚無を呼び覚まし、彼を飲み込もうと牙を剥いていた。
第二章 褪せる色彩
彼らが目指すのは、世界のあらゆる知識が集まるという「始原の書庫」。大いなる忘却の発生源とされる場所だ。道中、彼らはライラが架けたという「調和の大橋」を渡った。かつては七色の石で飾られ、渡る者の心を和ませたと伝えられる橋も、今はただの灰色の石くれの連なりに過ぎない。欄干に触れると、指先がざらりとした感触と共に、冷たい虚無を感じた。記憶の空洞が放つ気配だ。
橋の上で、数人の老婆たちが虚ろな目で川面を眺めていた。彼女たちの瞳には光がなく、まるで魂を抜き取られた人形のようだった。
「昔はねえ、この橋を渡るとライラ様の歌が聞こえたもんさ」
一人がぽつりと呟いた。だが、その声には何の感情も乗っていなかった。忘却は人々の心から生気を奪い、ただの抜け殻に変えてしまうのだ。
その時、エコーの足元がふっと揺らいだ。まるで陽炎のように、彼の身体の輪郭が一瞬透ける。
「エコー!」
アリアが彼の腕を掴む。その必死な温もりが、彼をこの世界に繋ぎとめていた。
「大丈夫…」
彼は微笑もうとしたが、その表情すら借り物だと自覚すると、唇が虚しく震えるだけだった。胸のロケットは、さらに色を失い、冷たい鉄の塊のように彼の肌を圧迫していた。
第三章 始原の書庫
始原の書庫は、巨大な静寂の塊だった。埃と古いインクの匂いが満ちる空間の中央で、目に見えないはずの「記憶の空洞」が、音もなく空気を歪ませ、光を飲み込んでいた。そこは、世界の記憶が引き裂かれた傷口そのものだった。
書庫の奥から現れた守護者の老賢者は、皺深い目でエコーを見つめた。
「忘却の源は、ライラ様の記憶の最も深い場所。まるで…まるで、あの方ご自身が、世界から忘れられることを望んでおられるかのようだ」
その言葉は、エコーの存在意義を根底から揺るがした。ライラが自分を消そうとしている? では、彼女の記憶を核とする自分は、そもそも生まれるべきではなかったというのか?
激しい混乱がエコーを襲う。ライラとの最初の出会い、彼女がこのロケットをくれた日の温かい記憶を辿ろうとするが、濃い霧に阻まれて何も見えない。代わりに、頭蓋の内側で何かが軋むような激痛が走り、立っていることさえ困難になった。内部の虚無が、断片化した記憶の隙間から、彼を無に帰そうと手を伸ばしてくる。
第四章 ライラの囁き
「僕が行く」
エコーは、揺らぐ身体を叱咤して言った。
「だめよ! 空洞に触れたら、あなたという存在が完全に消し飛んでしまうわ!」
アリアの悲痛な叫びが、書庫の静寂に響く。彼女の涙が、エコーの心を締め付けた。彼女から借りたこの痛みだけは、本物のように感じられた。
「でも、知らなければ。なぜライラが…」
彼はアリアの制止を振り切り、覚束ない足取りで記憶の空洞へと歩み寄った。それは絶対的な無への入り口。冷気が肌を刺し、魂が凍てつくような感覚が彼を襲う。それでも、エコーは震える指を伸ばし、歪む空間の中心に触れた。
瞬間、世界が反転した。
轟音と閃光。エコーはライラの記憶の奔流に飲み込まれた。しかし、そこに平和の建築家としての輝かしい姿はなかった。代わりに、血と炎の匂いが鼻をつき、何万もの人々の断末魔の叫びが耳を切り裂いた。それは、ライラが自らの力で終結させたという、歴史から抹消された大戦の記憶。憎悪、後悔、そして底なしの罪悪感。人々が忘れることでしか前に進めなかった「忘れ去られた罪」の全てを、ライラはたった一人で、その魂に封じ込めていたのだ。
第五章 忘れ去られた罪
記憶の嵐の中心で、エコーは光を失ったライラの幻影と対峙した。彼女の姿は苦痛に歪み、その瞳は深い絶望に満ちていた。
《…見つけたのね、私のエコー》
その声は、囁きでありながら、世界の重みを乗せて響いた。
《この罪は、もう私一人では抱えきれない。封印が解ければ、世界は再び憎しみの炎に焼かれるでしょう。だから私は、私自身の記憶ごと、この罪を世界から消し去ろうとした…》
大いなる忘却は、ライラの自己破壊の願いだったのだ。
《私の愛しいエコー。私の虚無から生まれた子。あなたは、ただの反響ではないわ。あなたは、全てを受け入れるために生まれた器…》
ライラの言葉が、雷のようにエコーを貫いた。
そうか。彼の内なる虚無は、欠陥ではなかった。それは、この世界の誰にも背負うことのできない痛みを、憎しみを、悲しみを、すべて受け入れるために用意された、究極の器だったのだ。
選択肢は二つ。ライラと共に忘却の彼方へ消え去るか、あるいは、この世界のすべての罪を、自らが引き受けるか。
第六章 虚無の器
エコーは、涙を流すアリアに向き直った。その顔には、もう迷いはなかった。
「アリア。君がくれた温かい記憶のおかげで、僕は決心できた。ありがとう」
それは、借り物ではない、エコー自身の言葉だった。彼はアリアの頬にそっと触れ、最後の温もりを確かめると、再び空洞に向き直った。
「ライラ。あなたの重荷を、僕が受け取ります」
エコーは自らの胸を広げた。その中心にある虚無が、静かに、しかし大きく口を開く。彼は、世界の憎悪と罪悪感の奔流――「忘れ去られた罪」を、自らの内へと招き入れた。
凄まじい激痛が全身を駆け巡った。何世紀にもわたって蓄積された人々の苦しみが、彼の存在を内側から引き裂こうとする。アリアの悲鳴が遠くに聞こえる。借り物の記憶が剥がれ落ち、個性の輪郭が溶けていく。だが、そのすべてが無に帰した中心で、一つの確固たる光が灯った。それは、他者の痛みを己がものとする究極の「共感」。全てを捧げる「自己犠牲」の輝きだった。エコーは、消えなかった。彼は、生まれ変わったのだ。
第七章 沈黙の守護者
すべてが終わった時、始原の書庫を歪めていた「記憶の空洞」は跡形もなく消え去っていた。淀んでいたアニマの流れが清浄な風となって吹き抜け、書物の頁を優しくめくった。世界から失われかけていたライラの記憶は、罪の重荷から解放され、彼女が本来持っていた慈愛に満ちた輝きを取り戻し、人々の心に再び灯り始めた。
その中心に、エコーは静かに立っていた。
もはや彼は、誰の反響でもなかった。アリアの癖も、ライラの眼差しも、そこにはない。穏やかでありながら、その瞳の奥には、世界のすべての悲しみを映す深淵が広がっていた。彼自身の、唯一無二の姿だった。
パリン、と乾いた音がした。彼の胸で、ライラのロケットが砕け散る。その中から現れたのは、夜の闇を凝縮したような、完璧に滑らかな黒曜石の石だった。石は、まるで心臓のように、かすかな、しかし永遠に続く悲しい光を脈打たせていた。
「エコー…なの?」
アリアが恐る恐る近づく。
彼はゆっくりと頷き、初めて、借り物ではない自分の声で答えた。
「僕は、エコーだ」
その声は深く、静かだった。彼はもはや空っぽの器ではない。世界の忘れられた痛みをその虚無で抱きしめ、沈黙のうちに癒し続ける守護者となったのだ。彼の存在そのものが、友情が到達しうる最も深く、そして最も切ない共感の形であることの、永遠の証明となった。再生を始めた世界を、エコーは静かに見つめていた。その瞳に映る悲しみは、彼が手に入れた、かけがえのない自己の証だった。