第一章 色褪せた栞
湊が営む古書店『時のかけら』は、街の喧騒から忘れ去られたような路地裏にひっそりと佇んでいた。埃とインクの匂いが混じり合った独特の空気が、訪れる者を現世から切り離す。湊自身、その空気に馴染みきっていた。古い物語のページをめくるように、自身の過去の記憶を慈しむのが彼の日常であり、喜びだった。
そんな彼の静かな世界に、陽(はる)という鮮やかな色彩をもたらす存在がいた。陽は、湊とは正反対だった。太陽のように明るく、常に新しいことを求め、湊を古書の壁の中から外の世界へと連れ出す。二人がどうして親友になったのか、本人たちでさえうまく説明できなかった。ただ、陽は湊の語る昔話を、世界で最も美しい物語を聞くかのように、目を輝かせて聞いてくれるのだった。
「湊の思い出話は、あったかい味がするね」
陽はよくそう言った。湊はそれを、彼の独特な表現だと微笑ましく受け止めていた。
異変に気づいたのは、ある秋晴れの午後だった。陽に誘われ、子供の頃によく遊んだ河川敷を訪れた時のことだ。夕日に染まるススキの穂が、風に揺れて金色の波を作っていた。それは間違いなく、湊の記憶の中にある、あの日の風景そのものだった。
しかし、何かが決定的に欠けていた。
胸の奥から込み上げてくるはずの、甘酸っぱい感傷。友達と日が暮れるまで走り回り、泥だらけになった日の幸福な疲労感。それらが喚起するはずの「懐かしさ」という感情が、まるで一枚の膜を隔てた向こう側にあるかのように、少しも心を揺らさないのだ。風景は覚えている。出来事も覚えている。だが、その記憶に付随していたはずの温かい感情だけが、すっぽりと抜け落ちていた。まるで、誰かに抜き取られたかのように。
「どうしたんだい、湊? ここ、好きだったんだろう?」
陽が屈託のない笑顔で問いかける。その笑顔が、なぜか少しだけ恐ろしく見えた。湊は首を振り、曖昧に微笑み返す。
「ああ、そうだな。少し、疲れてるだけかもしれない」
その日からだった。湊は、自分の記憶という名の書架から、大切な感情のページが少しずつ抜き取られていくような奇妙な感覚に苛まれ始めた。陽と過去について語り合うたびに、その思い出は色褪せ、ただの事実の羅列へと変貌していく。美しい装丁だけが残り、物語の魂が消えてしまった本のように。湊は得体の知れない恐怖に、静かに心を侵食されていった。
第二章 空白のアルバム
記憶の欠落は、確実に湊の世界を蝕んでいった。それは、思い出そのものが消えるのではない。もっと狡猾で、残酷な喪失だった。例えば、祖母が焼いてくれたクッキーの思い出。その甘い香ばしい匂い、サクサリとした食感、優しかった祖母の皺くちゃの笑顔。それらすべてを「情報」としては覚えているのに、思い出すことで胸が温かくなるあの感覚だけが、綺麗に消え失せている。それはまるで、心という名のアルバムから、写真に焼き付けられた感情の色だけが抜き取られ、モノクロの抜け殻だけが残されていくようだった。
湊は、陽と会う頻度を減らした。陽が彼の昔話を聞きたがるたびに、また一つ、大切なものが失われるのではないかと恐れたからだ。陽は何も気づいていないかのように、以前と変わらず湊を外に誘った。
「最近、昔の話をしてくれないね。何かあったのかい?」
ある日、カフェで陽にそう問われた時、湊の心臓は冷たく跳ねた。彼の顔を見ることができず、コーヒーカップの中の黒い液体に視線を落とす。この男に、自分の内側で起きている異常をどう説明すればいい? 友情が壊れることへの恐怖と、失われ続ける自己への恐怖が、湊の中でせめぎ合っていた。
「別に……。ただ、過去より今の方が面白いって、君が教えてくれたから」
我ながら、ひどい嘘だと思った。陽は少し寂しそうな顔をしたが、それ以上は追及せず、「そっか。それなら、もっと面白いこと、たくさんしよう!」と、いつものように笑った。
しかし、湊の心は晴れなかった。彼は自分の書斎に閉じこもり、日記や古いアルバムを必死に読み返した。そこに記された出来事や笑顔の写真を眺めても、心は凪いだ水面のように静まり返っている。感動も、切なさも、喜びも、かつてそこにあったはずの感情の波は、もう二度と訪れないかのようだった。
自分は、何者だったのだろう。過去の感情の積み重ねが人格を形成するのだとすれば、中身をくり抜かれた自分は、もはや空っぽの容れ物ではないのか。
孤独と恐怖が限界に達した時、湊は一つの疑念に行き着いた。この奇妙な現象は、いつも陽と話をした後に起きる。まさか。そんな馬鹿なことがあるはずがない。だが、その疑念は黒い染みのように心を広がり、湊を苛んだ。親友を疑う罪悪感と、真実を知りたいという渇望。板挟みになった彼は、陽からの連絡を完全に無視するようになった。友情という名の最後の栞を、失う覚悟はまだできていなかった。
第三章 ノスタルジアの捕食者
陽からの連絡を絶って、二週間が過ぎた。古書店の静寂は、もはや湊にとって安らぎではなく、己の空虚さを映し出す鏡となっていた。降りしきる雨が、窓ガラスを叩く音だけが響く。店じまいをしようと重い腰を上げたその時、店の扉に寄りかかるようにして、誰かが倒れているのに気づいた。
駆け寄ると、それは陽だった。
ずぶ濡れの彼は、紙のように白く、驚くほど痩せこけていた。湊が体を揺すると、陽はかろうじて目を開けた。その瞳にはいつもの輝きはなく、深く昏い光が揺らめいているだけだった。そして湊は、信じられないものを見た。陽の体が、雨に濡れた陽炎のように、わずかに透けているのだ。
「……湊」
か細い声が、雨音に混じって聞こえた。
湊は陽を店の中に運び入れ、乾いた毛布で包んだ。ストーブのそばに寝かせると、陽はゆっくりと口を開いた。
「ごめん……。全部、話すよ」
陽の告白は、湊の理解を遥かに超えていた。
彼は人間ではなかった。人の「懐かしさ」――ノスタルジアという感情を糧として生きる、古くから存在する生命体だという。形はなく、他者の認識の中にのみ存在できる、儚い生き物。彼は永い間、孤独に人々の記憶の残滓を拾い集めて生きてきた。
「君を見つけたんだ。この古書店で。君は……今まで出会った誰よりも、豊かで、温かい『懐かしさ』を持っていた。まるで、陽だまりみたいだった」
陽は湊の豊かな過去に惹かれ、そばにいたいと強く願った。その願いが、彼に「陽」という人間の形を与えた。湊が彼を友人として認識してくれたからこそ、彼はこの世界に確かな輪郭を持つことができたのだ。
「君の思い出話を聞くのが、本当に好きだった。それは、ただの食事じゃなかった。君の世界に触れることが、僕のすべてだったんだ。君の感情を少しだけ分けてもらうことで、僕は生きていられた。悪気は……なかったんだ。少しずつなら、君の心も再生すると思っていた。でも、君が思い出を語らなくなったから……僕は……」
陽の言葉は途切れ途切れだった。体が、さらに透明になっていく。
湊は、全身の血が凍りつくのを感じた。自分のアイデンティティの一部が、親友の「食事」だったという事実。友情だと思っていたものは、捕食関係に過ぎなかったのか。温かいと思っていた記憶の共有は、一方的な搾取だったのか。
激しい裏切りの念が、怒りとなって込み上げてきた。
「僕の過去を……僕の心を、食べていたのか!」
湊の叫びは、静かな店内に虚しく響いた。陽は、消え入りそうな声で「ごめん」と繰り返すばかりだった。目の前で命の灯火が消えかけている親友。その命が、自分の失われた過去と引き換えだったという、あまりにも残酷な真実。湊は、どうしようもない無力感と絶望の淵に突き落とされた。
第四章 未来の古書
怒りと悲しみの嵐が、湊の心の中で吹き荒れた。彼は陽から目をそらし、古書の壁に囲まれた自らの世界の中心で立ち尽くした。何冊もの本が、静かに彼を見下ろしている。その一冊一冊に、誰かの人生や感情が詰まっている。だが今の湊にとって、それはただの紙の束にしか見えなかった。自分の物語が空っぽになってしまったのだから。
見捨てるべきか。このまま彼が消えるのを見届ければ、これ以上自分の過去が失われることはない。元の、静かで孤独な自分に戻るだけだ。
だが、本当にそうだろうか?
湊の脳裏に、陽と過ごした日々の記憶が蘇る。それらは、まだ「懐かしさ」に変わる前の、生々しい記憶だ。初めて陽に海へ連れ出された日、潮風の匂いと肌を刺すような陽射し。二人で腹を抱えて笑った、くだらない映画。雨の日に、この店で肩を寄せ合って読んだ一冊の詩集。
それらの記憶には、まだ温かい感情が宿っていた。陽がいなければ、決して生まれなかった記憶だ。陽は湊の過去を糧にしたかもしれない。だが同時に、新しい未来を、新しい物語のページを与えてくれてもいたのだ。友情は、決して偽物ではなかった。生きるためにそうするしかなかった、孤独な魂の叫びだったのだ。
湊はゆっくりと振り返り、ストーブのそばで小さくなっている陽のそばに膝をついた。彼の透けかかった手に、そっと自分の手を重ねる。
「……僕の過去は、もうあまり残っていないかもしれないな。君がたくさん食べたから」
その声は、自分でも驚くほど穏やかだった。陽がびくりと肩を震わせる。
「でも」と湊は続けた。「君と過ごしたこの時間も、いつかきっと、懐かしくなる日が来る。僕たちが今日、こうして話していることも。これから二人で見る夕日も。新しく読む本も。全部、未来の『懐かしさ』になるはずだ」
陽の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは透明な光の粒となって、床に落ちる前に掻き消えた。
「だから、消えないでくれ、陽。これから、二人で新しい思い出を……未来の古書を、一緒に作っていこう」
それは、過去の記憶を一方的に「与える」関係からの決別だった。失われた過去を嘆くのではなく、これから生まれる未来を「共に作る」という、対等な友情の再契約。
陽は何度も頷き、湊の手にすがりつくようにして泣いた。彼の体は、ゆっくりと、しかし確かに輪郭を取り戻し始めていた。
二人の関係は、以前とは全く違うものになった。湊は過去の喪失を静かに受け入れ、未来に目を向けるようになった。陽は生きるために湊のそばにいるが、それはもはや依存ではない。互いが互いの未来にとって、不可欠な存在となったのだ。
雨が上がり、窓の外が茜色に染まり始めた。古書店『時のかけら』の窓辺に並んで座り、二人は静かに夕日を眺めていた。失われた過去の上に、これから綴られるべき未来の物語という、儚くも美しい絆で結ばれて。彼らの友情は、過去を糧にするのではなく、未来を創造することで輝き始めたのだ。