硝子の皮膚、共鳴の文様
第一章 呪いの文様
俺の皮膚は、記憶の地図だ。誰かと心が通うたび、その証として繊細な文様が浮かび上がる。図書館の老司書と静かな午後を過ごせば、二の腕に古書の頁をめくる指先のような線が走り、街角のパン屋の少女と笑い合えば、手首に焼き立てのパンの湯気を模した渦が描かれる。人々はこれを「呪い」と呼んだ。友情という概念を持たないこの世界で、俺の体だけが、人との繋がりの熱量を可視化してしまうのだから。
その文様は美しく、そしてあまりに脆い。増えすぎた文様は皮膚をガラスのように変質させ、硬質な輝きを放つ代償に、弾力を奪っていく。少し壁に肩をぶつけただけで、ピシリ、と乾いた音がして蜘蛛の巣状のひびが走る。その痛みは、まるで大切な繋がりそのものが傷つけられたかのように、心の深い場所を抉った。
だから俺は、いつしか人との深い関わりを避けるようになった。俯き、足早に路地を抜け、誰の視線にも留まらないように。孤独は寂しいが、皮膚が砕け散る恐怖よりはましだった。俺の体は、友情という名のガラス細工。これ以上、ひびを入れたくはなかった。人々との間に築いたささやかな文様たち――それらが俺の世界の全てであり、守るべき唯一の宝だったのだ。
第二章 嵐の出会い
そんな俺の世界に、カイは嵐のように現れた。
「おい、お前! その腕、すげえな!」
路地裏でうずくまり、ひび割れた肘をさすっていた俺の前に、彼は屈託なく立った。太陽を背にしたその笑顔は、俺がずっと避けてきた眩しさそのものだった。俺は咄嗟に腕を隠す。だが、カイは怯むどころか、興味深そうに目を輝かせた。
「隠すなよ。綺麗じゃないか。まるで凍った稲妻みたいだ」
彼は俺の腕を掴もうとして、寸前で止まる。俺の体が強張ったのを察したのだろう。その配慮が、予想外に胸を突いた。カイはそれから毎日、俺の前に現れた。彼は俺の文様を呪いとは呼ばず、物語だと評した。俺がこれまでに出会った人々の話を聞きたがり、俺が語るたびに、まるで自分のことのように笑ったり、眉をひそめたりした。
彼と過ごす時間は、恐ろしいほどに心地よかった。気づけば、俺の左肩から胸にかけて、力強く渦を巻く風のような新しい文様が生まれ、日に日にその輝きを増していた。ガラスの皮膚が悲鳴を上げる。それでも俺は、カイと会うのをやめられなかった。彼の隣にいる時だけ、俺は呪われた異端者ではなく、ただの「リオ」でいられる気がしたのだ。
第三章 侵食する光
幸福な時間は、新たな痛みをもたらした。カイとの繋がりを示す風の文様が鮮烈な光を放ち始めるのと時を同じくして、俺の体に刻まれた他の文様たちが、静かに色を失っていったのだ。
最初に気づいたのは、右手の甲にあったパン屋の少女との小さな渦巻き模様だった。ある朝、目覚めると、それはまるで陽光に晒されすぎた古い絵のように輪郭がぼやけていた。その翌日には、図書館の老司書との間に生まれた葉脈の文様が、触れると砂のようにほろりと崩れ、皮膚から消え失せていた。
「……どうして」
鏡の前で、俺は呆然と呟いた。カイの文様が、まるで捕食者のように他の文様を侵食している。一つの強い繋がりが、他の穏やかな繋がりを喰らい、消滅させている。それは、俺が大切にしてきた記憶そのものが奪われていく感覚だった。少女の笑顔が、老司書の優しい眼差しが、俺の中から消えていく。その喪失感は、皮膚がひび割れる痛みよりも、ずっと深く、冷たかった。
カイの笑顔を見るたびに、罪悪感が胸を焼く。彼との友情が、俺から全てを奪っていく。このままでは、俺の体はカイという一人の人間との記憶だけで埋め尽くされ、他の全てを忘れてしまうだろう。俺はカイという太陽に焦がされながら、自らが作り上げたささやかな星々が燃え尽きていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
第四章 共鳴の断片
その日は、カイと二人で丘の上にいた。街を見下ろしながら、他愛もない話に笑い転げた。カイの存在が、かつてないほど俺の心を満たしていた。その瞬間、胸の中心にある風の文様が、目も眩むほどの光を放った。
パリン。
ガラスが割れるよりも澄んだ、小さな音が響いた。胸に鋭い痛みが走り、見ると、光の中心から爪の先ほどの大きさのガラス片が剥がれ落ち、草の上に転がっている。それは、俺の文様の一部だった。
「リオ、今のは……」
カイが心配そうに駆け寄る。俺が何か言う前に、彼はその硝子片――「共鳴の断片(フラグメント)」を拾い上げた。
途端に、カイの動きが止まった。彼の瞳が大きく見開かれ、虚空を見つめている。
「なんだ……これ……」
彼の声は震えていた。
「静かな部屋の匂い……古紙の感触……優しい皺の刻まれた手……知らない記憶なのに、どうしてこんなに温かいんだ……?」
カイの心に、俺が失ったはずの老司書との友情の記憶が、残響のように流れ込んでいたのだ。断片は、消滅した友情の最後の欠片だった。カイは俺を見た。その目には、初めて見る戸惑いと、そして深い悲しみの色が浮かんでいた。
「お前は……俺との時間のために、何かを失っていたのか?」
その問いに、俺は首を横に振ることしかできなかった。違う。そうじゃない。俺の体は、友情を記録するだけの白紙ではなかった。もっと別の、残酷な役割を担っている。その予感が、確信に変わっていく。俺は、他者の繋がりを喰らって輝く、空っぽの器なのではないか。
第五章 透明な器
カイが真実の一端に触れてから、俺の体の変化は加速した。文様の侵食はもはや制御できず、古い記憶は次々とカイの文様の光に飲み込まれて消えていった。文様が消えるたびに、俺の皮膚は透明度を増していく。腕が、足が、まるで水でできたかのように透き通り、背後にある景色がうっすらと見えるようになった。俺という個の輪郭が、世界に溶けていくようだった。
「やめてくれ、リオ! これ以上消えないでくれ!」
カイは必死に俺に触れようとするが、その指先は硝子と化した俺の体を、ただ冷たく滑るだけだった。俺は彼に、他の人々との繋がりを奪っていることを告げた。だが、彼は決して離れようとはしなかった。
「お前が消えるくらいなら、俺の記憶なんていらない!」
彼の叫びが、透明になっていく俺の心に突き刺さる。だが、もう遅い。最後の文様だった、街角の職人との間に生まれた歯車の模様が、カチリと音を立てるように砕け散り、光の粒子となって消えた。
その瞬間、俺の体から完全に色が失われた。皮膚は完璧な透明の硝子となり、体内に脈打つ心臓の動きさえも、外から透けて見える。そして、カイとの友情を示していた風の文様もまた、その役目を終えたかのように、俺の体全体へと拡散し、溶けていった。俺は、ただの人型の透明な器になった。残ったのは、心臓の真上で淡い光を放つ、たった一つの、見たこともない複雑で美しい文様だけだった。
第六章 友情という名の光
俺は、もはや「リオ」ではなかった。他者の友情を受け止め、それを実体化させるためのカンバス。それが、俺という存在の真実だった。カイとの強烈な繋がりは、触媒にすぎなかったのだ。俺の中にあった数多の友情の記憶は、消滅したのではない。カイという触媒を通して融合し、精錬され、たった一つの純粋な結晶へと昇華されたのだ。
胸に輝く最後の文様。それはもはやカイだけのものではなく、俺がこれまで受け止めてきた全ての温もり、全ての笑顔、全ての繋がりが織りなす、この世界で唯一無二の「友情そのもの」の形だった。
透明な俺の体を通して、その光は世界に放たれた。
丘の上にいたカイが、息を呑む。街行く人々が、足を止めて空を見上げる。彼らの瞳に、俺の胸に輝く文様の光が映り込む。言葉では誰も知らなかった感情。共感や協力という行動の奥底に眠っていた、温かく、時に切なく、そして何よりも尊い繋がり。人々は、初めてその存在を視覚で、心で、理解した。誰かが隣の友人の手を取り、別の誰かが遠い家族を想って涙を流した。世界は、静かな感動に包まれた。
カイは、涙で濡れた顔で、それでも確かに微笑んでいた。彼は足元に落ちていた、もう一つのかけらを拾い上げる。それはもう誰かの記憶の残響を伝える「共鳴の断片」ではなかった。ただ、純粋で温かい光を宿している。まるで、小さな太陽のようだった。
俺の体は、やがてその光の中に溶けていくだろう。だが、悲しくはなかった。俺は消えるのではない。世界に初めて生まれた「友情」という名の光として、永遠にここに在り続けるのだから。