虚ろな果実と忘れられた歌
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虚ろな果実と忘れられた歌

第一章 灰色の収穫

黄昏の街は、奇妙な豊かさに満ちていた。広場の噴水は色とりどりの光を放ち、人々は上質な衣服を身にまとっている。だが、その喧騒の中心に立つ僕、カイの目には、街全体が色褪せた灰色に見えていた。僕には、見えてしまうのだ。人々の間を行き交う、目に見えないエネルギーの流れが。それは『絆の余剰エネルギー』と呼ばれ、僕の命の糧だった。

希薄な挨拶、形だけの会話、すれ違うだけの関係。そうした偽りの絆が綻ぶたびに、そこからは濃密なエネルギーが霧のように立ち上る。僕はそれを、呼吸するように、ただ静かに吸収する。肺腑を満たす甘美な力は、僕の過ぎていくはずの時間を引き止め、若々しい肉体を維持してくれる。今日もまた、豊かな収穫だった。だが、満たされるほどに、心の奥底で何かが軋む音を立てる。

自宅に戻り、小さな庭に出る。中央には、一本の奇妙な木が植わっていた。僕の『心の苗木』だ。この世界では誰もが幼少期に苗木を植え、友情を育むことでそれを成長させる。僕の木は、長い年月をかけて幹こそ太くなったものの、枝は痩せこけ、葉もまばらだ。そして何より、一度も花を咲かせず、実をつけたことがない。

友情を築こうとすれば、僕の能力は矛盾をきたす。本物の絆からは、ほとんどエネルギーは生まれないからだ。それはあまりに純粋で、無駄がなく、完成されている。長寿と引き換えに、僕は真の友情を諦めた。この実を結ばぬ木は、僕が捨てたもの全ての墓標であり、拭えない渇望の象徴だった。

近頃、世界に溢れるエネルギーの量は異常だった。まるで、世界中の絆が一度に腐り始めているかのように。そのおかげで僕はかつてないほど生命力に満ちていたが、その理由を思うと、背筋に冷たいものが走るのだった。

第二章 苗木と少女

その日、僕は市場で一人の少女と出会った。名をリナという彼女は、露店に並ぶガラス細工の『絆の実』の模造品を、探るような目つきで眺めていた。

「本物は、もっと綺麗なのかしら」

独り言のような呟きが、僕の耳に届いた。

「本物は……輝き続けると聞く」

僕がそう答えると、彼女は驚いたように振り返った。栗色の瞳が、まっすぐに僕を射抜く。その瞳には、僕がとうに失くした強い光が宿っていた。

「あなたは、見たことがあるの?」

「いや。最近は、誰も交換したがらないからな」

それが、この世界の大きな謎だった。『絆の実』を交換し合うことは、永遠の友情の証となる最高の儀式のはずだった。だが、いつからか人々はその儀式を避け、まるで呪いでもあるかのように恐れるようになった。

ひょんなことから、リナは僕の家を訪れることになった。彼女は僕の庭にある実を結ばない苗木を見て、目を見開いた。

「すごい……こんなに太い幹、見たことない。なのに、どうして実がひとつも?」

「……育て方が、悪かったんだろう」

嘘だった。僕は友情を育み、そしてその関係が深まる前に、自らそれを手放してきた。その度に、この木の幹にはうっすらと年輪が刻まれたが、実を結ぶには至らなかった。

リナは、自分の祖母の話を始めた。数年前に唯一の友人と『絆の実』を交換した祖母は、それ以来、少しずつ感情を失い、今では人形のようにただ窓の外を眺めて過ごしているのだと。

「『絆の実』は永遠の友情の証なんでしょう? なのに、どうして……どうして祖母は、一番大切な友達の顔さえ忘れてしまったの?」

彼女の震える声が、僕の心の硬い殻に、小さなひびを入れた。

第三章 輝く牢獄

リナに強く請われ、僕は彼女の祖母がいるという療養施設へと足を運んだ。郊外の丘に建つその白亜の建物は、陽光を浴びて美しく輝いていたが、一歩足を踏み入れると、ひやりとした空気が肌を撫でた。

談話室には、十数人の老人たちが静かに座っていた。誰もが手の中に、内側から淡い光を放つ『絆の実』を大切そうに抱えている。その光景は幻想的でさえあったが、彼らの瞳は一様に虚ろだった。表情はなく、会話もない。ただ、時折、自分の実を慈しむように撫でるだけ。ここは、輝く牢獄だ。

リナの祖母は、窓際の椅子に座っていた。彼女もまた、手の中の実を見つめている。リナが「おばあちゃん」と呼びかけても、その視線は動かない。まるで、孫娘の声が耳に届いていないかのようだった。

その瞬間、僕は感じた。この場所から、今まで経験したことのないほど濃密で、そして悲痛な『絆の余剰エネルギー』が放出されているのを。それは甘美な糧などではなかった。それは、言葉にならない叫び、声なき慟哭だった。僕は思わず胸を押さえた。まるで他人の絶望を直接飲み込んだような、重苦しい感覚だった。

第四章 忘れられた歌

リナの祖母の部屋は、簡素だが清潔だった。リナが棚を整理していると、一冊の古びた日記帳が床に落ちた。拾い上げ、埃を払ってページをめくる。そこには、祖母が友人と『絆の実』を交換する日を、心待ちにしている様子が瑞々しい筆跡で綴られていた。

『これで、アリアとの友情は永遠になる。少しだけ怖い。この温かい気持ちが、形になってしまうのが』

最後の日付のページに、走り書きのような一節があった。

『形なき絆こそ、永遠の光。どうか、忘れないで』

それは、誰かが残した歌の歌詞のようだった。リナが、その言葉をかすれた声でそっと口ずさんだ。

その時だった。

祖母が抱えていた『絆の実』が、閃光のように一度だけ強く輝いた。そして、何年も感情を失っていたはずの祖母の瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちたのだ。

直後、祖母の身体から、凄まじい嵐のような『絆の余剰エネルギー』が迸った。それは苦痛と後悔、そして愛惜の念が渦巻く奔流だった。僕は防御することもできず、その全てを浴びてしまった。

僕の脳裏に、祖母の失われた記憶の断片が流れ込んでくる。親友のアリアと笑い合った草原の匂い。初めて喧嘩した日の、胸の痛み。そして、『絆の実』を交換する瞬間の、期待と一抹の不安。――友情という、絶えず形を変え、成長していく生きた感情を、果実という不変の『形』に封じ込めてしまうことへの、本能的な恐怖。

悟ってしまった。

『絆の実』は、絆を永遠にするための奇跡ではなかった。それは、流動的な心を『永遠』という名の琥珀に閉じ込め、その代償として、感情も記憶も未来も奪い去る、優しすぎる呪いだったのだ。

世界に溢れるエネルギーの正体。それは、実を交換し、人形になった人々が、失われた過去に向けて流し続ける『未練』そのものだった。僕は、人々の魂の涙を啜って、生きてきたのだ。

第五章 決断の夜

自室に戻った僕は、鏡に映る自分の姿を見つめた。若々しく、生命力に満ちたこの肉体は、他者の喪失感で編み上げられた虚構に過ぎなかった。吐き気がこみ上げる。

僕はどれほどの長い間、この罪深い食事を続けてきたのだろう。真の絆を渇望しながら、その実態は、絆を失った者たちの悲しみを貪る寄生虫だった。

「カイさん」

いつの間にか、リナが僕の背後に立っていた。彼女の瞳は、全てを見透かすように僕を捉えている。

「あなた、一体何者なの?」

僕は全てを話した。僕の能力のこと。この世界にエネルギーが溢れる理由。そして、僕が彼女たちの祖母のような人々から、何を奪っていたのかを。

リナは静かに聞いていた。怒りも、軽蔑も見せなかった。ただ、深い悲しみを湛えた瞳で、僕の庭の苗木を見つめた。

「あなたも、苦しかったのね」

その言葉に、僕の心のダムが決壊した。僕は子供のように声を上げて泣いた。長い、長い孤独の夜が、ようやく明けようとしていた。

その夜、僕は決断した。この歪んだ連鎖を、僕自身の手で断ち切ることを。たとえ、僕に与えられた偽りの永遠が、それで終わりを告げるとしても。僕の視線の先で、実を結ばぬ苗木が、月光を浴びて静かに佇んでいた。形のないものこそが、本物なのだと、その木が教えてくれているようだった。

第六章 解放の光

翌朝、僕はリナと共に再び療養施設を訪れた。広場に立ち、目を閉じて意識を集中させる。僕の体内には、幾星霜をかけて蓄積した、膨大な『未練』のエネルギーが渦巻いていた。今まで僕は、それを外に漏らさぬよう、必死で蓋をしてきた。今、その蓋を、自らの意志で開ける。

「もう、誰かの悲しみを食らうのは終わりだ」

僕がそう呟き、能力の制御を解いた瞬間、凄まじい光が僕の身体から解き放たれた。それは、世界中に漂っていた無数の『絆の余剰エネルギー』――行き場を失った魂の欠片たちを呼び寄せる灯台の光となった。

灰色のエネルギーは、僕が放つ光に引かれるように集まり、やがて温かく、穏やかな黄金色の光の粒子へと変わっていく。光の雨が、世界に静かに降り注ぎ始めた。

光は、感情を失った人々が抱える『絆の実』に触れると、その硬い殻を優しく溶かしていくようだった。談話室から、誰かの嗚咽が聞こえた。次いで、別の誰かが、掠れた声で名前を呼んだ。

リナの祖母が、ゆっくりと顔を上げた。その虚ろだった瞳が、リナの姿を捉える。

「……リナ……?」

その声はか細く、記憶はまだ混濁しているようだった。だが、確かに、彼女は自分の孫娘を認識したのだ。リナの瞳から、大粒の涙が溢れた。

急速に力が失われていくのを感じる。若々しかった身体に、本来の歳月が雪崩のように押し寄せてくる。僕は膝から崩れ落ち、リナが慌ててその身体を支えた。

第七章 実を結ばぬ木の下で

数日後、僕はすっかり年老いた姿で、自宅の庭の椅子に座っていた。世界から『絆の余剰エネルギー』は消え、街にはどこか不確かで、危うい、しかし人間らしい活気が戻りつつあった。

そこに、リナがやってきた。彼女の手には、小さな押し花の栞が握られている。

「おばあちゃんが、昔作ったものだって。思い出してくれたの」

彼女は僕の隣に座り、微笑んだ。その笑顔は、以前よりもずっと自然で、柔らかかった。

「ありがとう、カイさん。あなたは、世界に心を取り戻してくれた」

僕は穏やかに首を振った。僕がしたことは、ただ、盗んだものを返しただけだ。

視線を、僕の『心の苗木』へと移す。結局、この木が実を結ぶことはなかった。だが、その太い幹には、リナと出会ってから刻まれた、新しく、そして確かな一本の年輪がはっきりと見て取れた。

僕は、永遠の命と引き換えに、生まれて初めて、形のない本物の絆を手に入れたのだ。それで、十分だった。

空から降り注ぐ陽光は、驚くほど温かい。リナが隣で、祖母から教わったという、あの忘れられた歌を静かに口ずさんでいる。その優しい歌声に包まれながら、僕はゆっくりと目を閉じた。

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