君の色が滲む前に

君の色が滲む前に

0 5033 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:

第一章 濁り始めた空色

僕、浅倉ミナトの世界は、他の人より少しだけ彩り豊かだ。物心ついた頃から、人の感情が淡い光のオーラ、つまり「色」として見えた。喜びは陽だまりのような黄金色、悲しみは静かな藍色、怒りは燃え盛る炎のような緋色。その色彩は、言葉よりもずっと雄弁に、人の心を僕に伝えてくれた。

中でも、僕が最も愛してやまない色があった。幼馴染である相葉ハルキが放つ、どこまでも澄み切った「空色」。それは、雲ひとつない春の空の色であり、深い海の底から見上げた光の色でもあった。快活で、誰にでも優しく、太陽のように笑うハルキ。彼の周りにはいつも、その人柄を映し出したかのような、清々しい空色が揺らめいていた。僕にとってその色は、安心そのものであり、僕の内向的な心を照らす唯一の灯りだった。僕たちは、互いが互いの半身であるかのように、常に隣にいた。僕が見る色の世界の話を、馬鹿にせずに面白がって聞いてくれるのも、世界でハルキだけだった。

だから、異変に気づいた時、僕の心臓は氷水に浸されたように冷たくなった。

高校二年の秋、夕暮れの教室でのことだった。窓から差し込む橙色の光が、机の木目を黄金に染め上げている。いつものように他愛もない話で笑い合う僕たちの周りには、もちろん、あの心地よい空色が広がっていた。しかし、その日の放課後、ふとした瞬間に僕の目はそれを捉えてしまったのだ。

ハルキの空色の中に、ぽつりと浮かぶ、小さな染み。

それは、まるで真新しい画用紙に落ちた、一滴の汚水のような色だった。鈍く、重く、光を吸い込むような「鉛色」。それは僕が今まで、誰の周りにも見たことのない、不吉で陰鬱な色だった。瞬きをすると、それは掻き消えたかのように見えた。気のせいだったのかもしれない。そう思おうとした。だが一度認識してしまった染みは、僕の網膜に焼き付いて離れなかった。

「どうした、ミナト? 腹でも痛いのか?」

僕の表情の変化に気づいたハルキが、心配そうに顔を覗き込む。彼の周りには、やはり美しい空色が広がっている。鉛色の染みは、今は見えない。

「ううん、何でもない。ちょっと考え事」

僕は曖昧に笑って誤魔化した。しかし、胸の内に灯った小さな不安の火は、決して消えることはなかった。

その日から、僕はハルキの色を、以前にも増して注意深く観察するようになった。そして、僕の不安が杞憂でなかったことを、すぐに思い知らされることになる。鉛色の染みは、気のせいなどではなかった。それは日を追うごとに、じわじわと、しかし確実にその面積を広げていった。美しい空色のオーラは、まるで病に侵されるように、その輝きを失い、くすみ、澱んでいく。ハルキ自身は、何も変わらないように見えた。相変わらずよく笑い、友達の中心にいた。だが、僕だけが見えるその色の変化は、彼が無言の悲鳴を上げているように思えてならなかった。

一体、ハルキに何が起きているんだ? 僕の知らないところで、誰が、何が、僕たちの大切な空色を濁らせているんだ? 焦燥感だけが、僕の心の中で渦を巻いていた。

第二章 犯人探しの迷路

鉛色の侵食は止まらなかった。一週間も経つ頃には、ハルキの空色は、薄汚れた雑巾で拭ったガラス窓のように、全体が灰色がかって見えた。彼の笑顔を見るたびに、その背景に広がる濁った色とのギャップが、僕の胸をナイフで抉るように痛めつけた。

僕は、ハルキを救わなければならないと固く決意した。この色の濁りの原因を突き止め、取り除く。それが、唯一の親友である僕の使命だと思った。

「ハルキ、最近何か悩みでもあるのか? 進路のこととか、家のこととか」

僕は、それとなく切り出してみた。昼休みの屋上、二人きりになった瞬間を狙って。

ハルキはきょとんとした顔で僕を見ると、やがていつものように屈託なく笑った。

「なんだよ急に。何もないって。いつも通りだよ」

その言葉とは裏腹に、彼の周りの鉛色は、一瞬、インクのように濃くなった。嘘をついている。僕にはそれが分かった。なぜ隠すんだ。僕にくらい、話してくれてもいいじゃないか。苛立ちと寂しさが募る。

直接聞いても無駄だと悟った僕は、探偵のように、ハルキの周辺を探り始めた。彼の交友関係、部活の様子、最近の会話の内容。僕の持つ全ての感覚を研ぎ澄ませ、原因となりうる「犯人」を探し求めた。僕の行動は、次第に執拗さを増していった。ハルキのSNSを隅々までチェックし、彼の友人に探りを入れ、時には彼の後をつけた。友情を守るためだ、という大義名分が、僕の罪悪感を麻痺させていた。

そして、一つの可能性にたどり着く。

美術部の後輩、一年の女子生徒・アカリ。最近、ハルキは彼女とよく話しているようだった。物静かだが、芯の強そうな瞳をした少女。僕が彼女を見る時、その感情の色はいつも鮮やかだった。特にハルキと話している時の彼女は、情熱的で、少しだけ独占欲の混じった「深紅色」を放っていた。それは、僕にとって、ハルキの空色とは相容れない、異質な色に思えた。

きっと彼女だ。アカリがハルキを悩ませているに違いない。恋愛のもつれか、あるいは彼女が何か厄介事を持ち込んだのか。僕の中で、彼女が「犯人」だという確信が、急速に形作られていった。彼女の深紅色が、ハルキの空色を侵食しているのだ。そう考えると、全ての辻褄が合う気がした。

嫉妬、という感情が僕の中に芽生えていることには、気づかないふりをした。これはハルキのためなんだ。僕たちの友情を守るためなんだ。そう自分に言い聞かせ、僕は決定的な証拠を掴むために、二人を監視し続けた。そしてある放課後、美術準備室で二人きりで話している場面を目撃した時、僕の中で何かがぷつりと切れた。

第三章 鏡に映る鉛

「もうやめろよ、ハルキ!」

僕は、美術準備室のドアを乱暴に開け放ち、中にいた二人に向かって叫んだ。驚きに目を見開くハルキとアカリ。アカリの周りには、案の定、僕を警戒するような深紅のオーラが揺らめいていた。

「ミナト? どうしたんだ、いきなり」

ハルキが戸惑いの声を上げる。その周りには、今までで最も濃い、どす黒い鉛色が渦巻いていた。もう、かつての空色の面影はほとんどない。その光景が、僕の怒りと焦りに火を注いだ。

「どうしたじゃない! お前、こいつのせいで悩んでるんだろ! こんな色になっちまって……僕にくらい、相談してくれてもよかったじゃないか!」

僕はアカリを睨みつけながら言った。僕の言葉の意味が分からないアカリは、ただ怯えたように立ち尽くしている。

「色? 何を言ってるんだ、ミナト。アカリさんは関係ない!」

「関係なくない! お前がこいつと会うようになってから、お前の色はどんどん濁っていったんだ! 僕には全部お見通しなんだよ!」

僕の激情は止まらなかった。友情を守りたいという一心だった。しかし、僕が言葉を重ねるたびに、ハルキの表情から色が消え、彼の周りの鉛色がさらに濃く、深く、絶望的な色合いに変わっていく。

そして、ハルキは震える声で、僕の全てを打ち砕く一言を放った。

「……違う」

「何が違うんだよ!」

「違うんだ、ミナト。俺の色を濁らせてるのは……お前だよ」

時間が、止まった。耳鳴りがして、目の前の光景がぐにゃりと歪む。ハルキが何を言っているのか、理解できなかった。

ハルキは、苦しげに顔を歪め、続けた。

「俺にも……見えるんだ。お前ほどはっきりじゃないけど、人の感情の色が。そして、ミナト……お前が俺を見るたびに、お前の周りに浮かぶんだ。あの、粘つくような鉛色が」

鉛色。僕がハルキの中に見つけた、あの不吉な色。それが、僕自身から放たれていたというのか。

「お前が、俺が誰かと親しくするのを不安そうに見る時、俺の進路を心配しすぎる時、そして……今みたいに、アカリさんを敵意の目で見ている時。お前の鉛色はどんどん濃くなって、俺の心にまとわりついてくる。息が詰まりそうになるんだ」

ハルキの告白は、僕の世界を根底から覆した。僕は、ハルキを心配していたんじゃない。彼を独占したかったんだ。僕だけの親友でいてほしかった。僕以外の誰かが彼の世界に入ることを、無意識に恐れていた。その醜い独占欲と依存、そしてアカリへの嫉負が、「鉛色」として僕の感情を彩り、親友であるはずのハルキを苦しめていた。

犯人は、アカリじゃない。他の誰でもない。

僕だったのだ。

ハルキの空色を濁らせていたのは、僕自身の醜い感情だった。鏡に映っていたのは、僕自身の姿だった。その衝撃的な事実に、僕は立っていることさえできず、その場に崩れ落ちた。僕が守ろうとしていた友情は、僕自身の手によって、壊されようとしていたのだ。

第四章 夜明けのパレット

あの日以来、僕はハルキを避けるようになった。自分の顔を見るのも嫌だった。鏡に映る自分は、醜い鉛色をまとった怪物のように思えた。ハルキに合わせる顔がなかった。僕の存在そのものが、彼を傷つける毒なのだ。そう思うと、もう彼の隣にいる資格などないように感じられた。

世界から、色が消えた。正確には、色を見る気力を失った。人の感情の色が視界に入らないよう、僕は常に俯いて歩いた。灰色のアスファルトと自分の靴先だけが、僕の世界の全てになった。空を見上げることも、誰かと目を合わせることもなくなった。

そんな日々が二週間ほど続いた、ある日の放課後だった。一人で帰路につく僕の前に、ハルキが立っていた。僕は咄嗟に踵を返そうとしたが、彼に腕を掴まれて、それは叶わなかった。

「話がしたい、ミナト」

彼の声は、穏やかだったが、有無を言わせぬ強さがあった。僕たちは近くの公園のベンチに、気まずい沈黙のまま腰掛けた。僕は最後まで、彼の顔を見ることができなかった。

「ごめん」

先に沈黙を破ったのは、僕だった。

「僕が、お前を苦しめてた。友情だなんて、偉そうなことを言って……本当は、自分のことしか考えてなかった。最低だ」

声が震える。視界が滲む。

しばらくの間、ハルキは何も言わなかった。やがて、ぽつりと言った。

「俺の色が濁ったのは、お前のせいだけじゃないよ」

僕は、驚いて顔を上げた。夕日に照らされたハルキの横顔は、真剣そのものだった。

「お前のその強い感情から、逃げようとした俺の弱さのせいでもあるんだ。お前が不安そうな色をしているのに、俺は『何でもない』って嘘をついた。向き合うのが怖かったんだ。俺たちは、互いの色に正直にならなきゃいけなかったんだよ」

ハルキはそこで言葉を切ると、真っ直ぐに僕の目を見た。僕は恐る恐る、彼の感情の色を見た。そこには、まだ鉛色の名残があった。しかし、それだけではなかった。僕を許そうとする優しい若草色、そして、もう一度向き合おうとする強い意志を示す、朝焼けのような茜色。それらが混じり合い、複雑な模様を描いていた。

僕たちは、その日、初めて全てを語り合った。僕がハルキに抱いていた依存と独占欲。ハルキが僕の期待に応えようとして感じていたプレッシャー。完璧な「空色」の関係を、無意識のうちに互いに強要していたこと。綺麗事だけではない、友情が内包する厄介で、醜い部分。その全てを、言葉にして、互いにぶつけ合った。

涙が流れた。それは後悔の涙でもあり、安堵の涙でもあった。

再び向き合った僕たちの周りには、もう、あの澄み切った空色だけが広がっているわけではなかった。僕の感情から生まれた微かな鉛色。ハルキの戸惑いを示す薄紫色。そして、互いを理解しようとする温かい橙色。たくさんの色が混じり合い、溶け合って、一つのオーラを形作っていた。それは、完璧な単色ではない。不格好で、不均一で、それでもなお、信じられないほどに美しく、深みのある色彩だった。

それはまるで、雨上がりの空にかかる虹のようでもあり、夜明け前の光と闇が混じり合う空のようにも見えた。僕たちは、完璧な友情の幻想を失った。その代わりに、不完全で、だからこそ愛おしい、本物の絆を手に入れたのだ。僕たちは顔を見合わせ、どちらからともなく、小さく笑った。その瞬間、僕たちのパレットに、また新しい色が一つ、加わった気がした。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る