第一章 忘れられた約束の写真
僕、湊川ミナトの世界は、いつも薄いガラス一枚を隔てているようだった。教室のざわめきも、廊下を駆け抜ける笑い声も、どこか遠い国の出来事のように聞こえる。そんな僕に、何の隔たりもなく、太陽のように真っ直ぐに声をかけてくる存在がいた。
「ミナト、見つけた!」
振り返ると、そこにカイがいた。色素の薄い髪が風に揺れ、人懐っこい犬みたいに目を細めている。僕は彼を知らない。知らないはずなのに、心臓がトクンと跳ねて、口元が緩むのを止められない。まるで、ずっと待ち焦がれていた誰かに再会したかのような、奇妙な安堵感。
「カイ……」
名前を呼ぶと、彼はもっと嬉しそうに笑った。「今日は何をしようか? あの丘の上まで競争する? それとも、川で水切り?」
カイといる時間は、魔法のようだった。僕の灰色の世界が、彼の声ひとつ、笑顔ひとつで、鮮やかな色彩を取り戻していく。僕が口下手なのをわかっていて、彼はいつも二倍喋り、三倍笑った。僕が言えないでいる言葉を、先回りして言い当ててくれることもあった。日が高いうちは夢中で遊び、夕暮れの茜色に空が染まる頃、僕たちは決まって丘の上に座り、街の灯りが一つ、また一つと灯るのを眺めた。
「また明日な、ミナト」
別れ際にカイがそう言うと、僕はいつも胸が締め付けられるような切なさを覚えた。明日も会える。その約束が、どうしようもなく儚いものに感じられて。
その夜、自室の机の引き出しを整理していて、僕は一枚の写真を見つけた。僕と、知らない少年が肩を組んで笑っている。背景は、今日カイと眺めた夕焼けの丘だ。少年の顔は、間違いなくカイだった。写真の裏には、拙い文字で『カイとミナト 最高の友達!』と書かれ、昨日の日付が記されていた。
心臓が嫌な音を立てて脈打つ。なぜ、記憶にない? 引き出しの奥を探ると、同じような写真が何枚も出てきた。日付はすべて異なり、一週間前、一ヶ月前、半年前のものまである。どの写真の僕も、今の僕には想像もつかないほど、幸せそうに笑っていた。
僕はカイを知らない。けれど、どうやら「昨日までの僕」は、毎日彼と出会い、親友になっていたらしい。そして、夜が明けるたびに、僕は彼に関する一切を、きれいさっぱり忘れてしまうのだ。
壁に貼られたカレンダーの日付を指でなぞる。明日、僕はまたカイを忘れ、カイは僕に「初めまして」のように声をかけてくるのだろうか。この終わらない一日の友情は、祝福なのか、それとも呪いなのだろうか。答えの出ない問いだけが、静まり返った部屋に重く響いていた。
第二章 ガラス瓶に綴る永遠
翌日から、僕の奇妙な探求が始まった。カイを忘れないために、彼との一日を記録することにしたのだ。朝、カイに声をかけられ、初対面のはずの彼に強烈に惹かれる心の動き。二人で交わした何気ない会話。夕暮れの丘で感じた、あの胸を締め付けるような切なさ。そのすべてを、小さなノートに書き留めた。
翌朝、目覚めると、やはりカイの記憶は跡形もなく消えていた。頭の片隅で誰かを待っているような喪失感だけが残る。僕は震える手で机の上のノートを開いた。そこには、昨日の僕が書き残した、鮮やかな感情の記録があった。
『カイは、僕が好きなサイダーの味を知っていた。僕が黙ると、面白い話をしてくれる。彼といると、息がしやすい』
ページをめくるたびに、知らないはずの親友の姿が、ありありと浮かび上がってくる。僕は記録を通して、「昨日の僕」の友情を追体験した。それは、温かく、少しだけ苦しい体験だった。
「ミナト、何読んでるんだ?」
いつの間にか現れたカイが、僕の手元を覗き込む。僕は慌ててノートを隠した。
「な、なんでもない」
「ふーん? ま、いいや。それより行こうぜ! 今日は秘密の場所を教えてやる」
カイは僕の手を引いて走り出す。彼の体温が、驚くほど自然に僕に伝わった。僕はこの温もりを、明日には忘れてしまう。その事実が、ナイフのように胸を刺した。
その日、カイが連れて行ってくれたのは、廃線になった線路の脇にひっそりと咲く、エフェメラル・デイジーの群生地だった。エフェメラル、つまり「一日花」。朝に咲き、夜には萎んでしまう儚い花だ。
「僕たちみたいだろ?」
カイは花を一つ摘んで、僕の耳にそっと飾った。「一日だけでも、こんなに綺麗に咲けるんだ」
その言葉に、僕はどうしようもない衝動に駆られた。
「カイ……君は、なぜ僕のことを覚えているんだ? 僕は毎朝、君を忘れてしまうのに」
問い詰める僕に、カイは一瞬だけ悲しそうな顔を見せ、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「そんなの、どうでもいいじゃないか。僕たちが今、ここにいる。友達だ。それだけで十分だろ?」
「十分じゃない!」
僕は叫んでいた。「僕は君を忘れたくない! ずっと友達でいたいんだ! 君との時間を、思い出を、ガラス瓶に詰めて永遠に取っておきたいみたいに、ずっと!」
カイは何も言わず、ただ黙って僕を見つめていた。その瞳の奥に、僕の知らない深い哀しみが揺らめいているように見えた。夕日が線路を黄金色に染めていく。別れの時間が、またやってくる。僕は決意した。この奇妙なループを、今夜、僕自身の手で終わらせるのだと。
第三章 夜明けに消える君
その夜、僕はカイを無理やり自分の家に連れて帰った。「今日は泊まっていけよ」という僕の言葉に、カイは困ったように笑いながらも、抵抗はしなかった。
部屋に入り、僕はこれまでに撮り溜めた写真と、書き綴ったノートを彼の前に広げた。
「これが、僕たちが過ごしてきた時間の証だ。君はこれを毎日見ていたのか? 僕が君を忘れてしまうことを、どう思っていたんだ?」
カイは写真の一枚一枚を、愛おしそうに指でなぞった。彼の指が、ある一枚の写真の上で止まる。それは、僕たちがまだ小学生くらいの頃の写真だった。もちろん、僕にその記憶はない。
「ミナトは、昔からずっと一人だった」
カイが静かに語り始めた。
「周りのみんなと、うまく話せなくて。いつも本ばかり読んでいた。僕は、そんな君が心配で、ずっと見ていたんだ」
「見ていた……?」
「そう。僕はね、ミナト。君が作り出した友達なんだ」
時間が、止まった。カイの言葉の意味が、脳に届くのを拒否しているようだった。
「君の『誰かと友達になりたい』っていう強い願い。寂しさや、孤独感。そういう感情が集まって、僕という形になった。君が幼い頃にたった一度だけ、公園で一緒に遊んだ名も知らない男の子の記憶を核にしてね」
僕は息を呑んだ。幻? 目の前にいるカイが? この温もりも、声も、笑顔も、すべて僕の心が作り出した幻だというのか。
「だから、ミナトが眠りについて、意識がリセットされると、僕の存在もリセットされる。君が毎朝僕を忘れるのは、そういう仕組みだからなんだ。そして僕は、毎日君に新しく出会い直す。それが僕の役目だから」
「じゃあ、君は……全部、覚えていたのか? 毎日、僕が君を忘れることを、知っていて……」
カイは、こくりと頷いた。その表情は、今まで僕が見たことのない、痛々しいほど優しい笑顔だった。
「最初は辛かったよ。昨日までの親友に『君は誰?』って言われるのはね。でも、すぐに慣れた。だって、ミナトは必ず僕を見つけてくれる。どんな僕でも、必ず『カイだ』ってわかってくれるから。記録なんていらなかった。君の心が、僕を覚えていてくれるから」
時計の針が、真夜中を指そうとしていた。カイの身体が、足元から徐々に透き通り始める。蛍の光のように、淡い粒子となって霧散していく。
「ダメだ、カイ! 消えないでくれ!」
僕は半透明になった彼を抱きしめようとするが、腕は虚しく空を切る。
「ごめん、ミナト。僕たちは一緒に朝を迎えられない。君が本当に一人で立てるようになった時、僕は完全に消える。君の心から卒業するんだ。それが、僕の存在理由だから」
カイの姿が、ほとんど見えなくなる。最後に、彼の声だけが、僕の心に直接響いた。
『ありがとう、ミナト。僕を見つけてくれて』
その言葉を最後に、部屋からカイの気配が完全に消え失せた。後に残されたのは、圧倒的な静寂と、床に散らばった思い出の欠片だけだった。
第四章 心に棲む友人
翌朝、僕は目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、やけに眩しい。ベッドから起き上がり、僕は無意識に部屋の中を見回した。カイの姿を探していた。
そして、気づく。
昨夜の出来事を、カイとの会話を、彼の正体を、僕は全て覚えていた。
記憶は、リセットされていなかった。
初めて、カイを忘れない朝を迎えた。しかし、彼の姿はどこにもない。机の上には、僕が書き綴ったノートと、たくさんの写真が置かれたままだった。その一枚を手に取る。満面の笑みを浮かべる僕と、その隣で少しだけ寂しそうに笑うカイ。
涙が、後から後から溢れてきた。
彼は幻なんかじゃなかった。僕の孤独が生み出した存在だったかもしれない。でも、彼と過ごした時間も、交わした言葉も、分かち合った感情も、すべて本物だった。僕の弱さが彼を生み、そして彼の優しさが、僕を強くしてくれた。
彼は僕の心の一部だった。僕が彼を忘れるということは、自分の一部を否定するのと同じことだったのだ。だから、僕の心が彼を受け入れ、彼との別れを覚悟した時、ループは終わりを告げた。カイは消えたのではない。僕の心の中に、永遠の友人として、その場所を移したのだ。
その日、僕は初めて、自分の足で学校へ向かった。教室の扉を開けると、いつもの喧騒が僕を包む。それはもう、ガラスの向こう側の音ではなかった。
「あ……湊川、おはよう」
クラスメイトの一人が、戸惑ったように僕に声をかけた。僕は、心臓が大きく脈打つのを感じながら、息を吸い込んだ。心の中で、カイが背中を押してくれている気がした。
「おはよう」
僕がそう返すと、クラスメイトは驚いたように目を丸くし、それから、少しだけ嬉しそうに笑った。
僕の世界を隔てていた透明なガラスは、もうない。
空はどこまでも青く、エフェメラル・デイジーが咲いていたあの丘を、優しい風が吹き抜けていく。僕はもう一人じゃない。僕の心には、昨日までのすべてを記憶した、世界で一番の親友が棲んでいるのだから。