第一章 色を失った親友
僕、相沢カイトには秘密がある。僕には、他人の記憶の「色」が見えるのだ。人々が過去を思い返すとき、その頭上に揺らめくオーラのようなもの。幸せな思い出は暖かい蜜柑色に、悲しい記憶は静かな深海のような藍色に、怒りは燻る炭のような赤黒色に輝く。この街は、絶えず明滅する記憶の色彩で溢れていた。
僕にとって、その能力は呪いにも似ていた。人の感情の奔流に晒され続けるのは疲れる。だから僕は、自然と人との関わりを避けるようになった。そんな僕のモノクロームの世界で、唯一、鮮やかな光を放つ存在がいた。親友の月島ハルキだ。
ハルキとの記憶だけは、他のどんな色とも違う、溶かした純金のような、眩いばかりの金色だった。公園のベンチでくだらない話をして笑い合った記憶。二人で徹夜してクリアしたゲームの達成感。僕が落ち込んでいるときに、黙って隣に座ってくれた夜の静けさ。それらすべてが、僕の心を照らす金色の光だった。ハルキは、僕の孤独を溶かしてくれる唯一の太陽だった。
その朝、悪夢のような違和感で目が覚めた。部屋の空気が、妙に重く、色褪せて感じる。僕はいつものように、昨日のハルキとの会話を思い出そうとした。近所のカフェで見つけた新作のケーキの話。他愛もない、金色の記憶のはずだった。
しかし、僕の頭に浮かんだのは、砂嵐のテレビ画面のような、ざらついた灰色のノイズだけだった。
「え…?」
声が掠れる。もう一度、ハルキとの思い出を辿ろうとする。彼の顔を、声を、笑顔を。だが、すべてが濃い霧に覆われたかのように曖昧で、色を失っていた。金色の光はどこにもない。そこにあるのは、意味をなさない、ただただ不快な灰色の濃淡だけ。
慌ててベッドから飛び起き、机に飾ってあった写真立てを掴んだ。そこには、肩を組んで笑う僕と…誰だ? 隣にいるはずのハルキの顔が、まるで古い写真が劣化したかのように、のっぺりと霞んでいる。僕の記憶から、ハルキという存在の「色」だけが、忽然と消え失せていた。世界が、僕のたった一つの太陽を拒絶している。そんな信じがたい現実が、静かに始まろうとしていた。
第二章 灰色の追憶
心臓が氷の塊になったようだった。僕は震える手でスマートフォンを掴み、履歴からハルキの名前を探す。しかし、「月島ハルキ」という名前は見つからない。トークアプリを開いても、毎日のようにやり取りしていたはずの彼との会話履歴が、そっくり消え失せている。まるで、最初から存在しなかったかのように。
「嘘だ…そんなはず、ない…」
僕はコートを羽織るのも忘れ、アパートを飛び出した。ハルキが住んでいるのは、ここから歩いて十分ほどの古いアパートだ。何度も通った道。角を曲がれば、彼の部屋の窓が見えるはずだった。
しかし、たどり着いたアパートの二階、彼が住んでいたはずの「203号室」の表札は、空白だった。ドアポストにはチラシが溢れ、人の住んでいる気配がない。僕は管理人室のドアを叩いた。眠そうな顔で出てきた初老の管理人に、僕は必死で尋ねた。
「203号室に住んでいた、月島ハルキさんは…?」
管理人は怪訝な顔で僕を見つめ、分厚い台帳をめくった。「月島? いいえ、そんな名前の方はいませんよ。203号室は、もう半年以上空き部屋です」
頭を鈍器で殴られたような衝撃。足元が崩れ落ちていく。僕の記憶がおかしいのか? それとも、世界の方が狂ってしまったのか?
僕は、わらにもすがる思いで、僕とハルキの共通の友人であるミカに電話をかけた。彼女の頭上には、いつも楽しげな黄色の記憶が揺れている。電話に出た彼女の明るい声に、少しだけ安堵した。
「カイト? 珍しいね、どうしたの?」
「ミカ、頼む、正直に答えてくれ。ハルキを、月島ハルキを覚えているか?」
一瞬の沈黙。その沈黙が、僕の胸を締め付けた。
「ハルキ…? 誰、それ。ごめん、知らない名前だな」
絶望が、冷たい水のように全身を浸していく。僕の頭の中で、灰色のノイズがさらに激しく渦巻いた。ハルキは、僕だけの妄想だったのか? あの金色の記憶は、僕が孤独のあまりに作り出した幻だったというのか?
自室に戻り、僕は部屋の中をかき回した。ハルキが存在した証拠を探して。そして、本棚の奥から、一冊の古いノートを見つけ出した。二人でつけていた交換日記だ。表紙には、確かに僕と、そしてもう一人分の、見慣れたはずの筆跡があった。
ページをめくる。そこには、僕の文章の隣に、彼からの返事が書かれている。しかし、インクの文字を目で追っても、そこに込められていたはずの感情が、色が、何も伝わってこない。ただの黒い記号の羅列だ。日記に触れても、僕の頭に浮かぶのは、やはり冷たい灰色のノイズだけだった。
それでも、僕は諦めきれなかった。ハルキが僕にくれた、少し傷のついた銀色の万年筆。二人でよく聴いたインディーズバンドのCD。部屋の隅に置かれた、二人で組み立てたプラモデル。それらは確かに「モノ」として存在するのに、そこに宿っていたはずの金色の記憶は、跡形もなく消え去っていた。
僕は、灰色の追憶の海で、溺れかけていた。孤独という名の、深く、冷たい海の中で。
第三章 金色の真実
数日間、僕は抜け殻のようになって過ごした。街行く人々の頭上に揺れる色とりどりの記憶が、今はただ虚しく目に映るだけだった。僕の金色は、もうどこにもない。
そんな時、ふと、万年筆の隣に置かれた小さなインク壺が目に入った。それはハルキがくれたものではなかった。彼がいつか、「僕に何かあったら、これを開けてみて。僕からのお守りだから」と、悪戯っぽく笑って僕に押し付けたものだ。僕は今まで、その言葉を冗談だと思っていた。
震える指で、固く閉ざされたインク壺の蓋を開ける。中は空っぽだった。インクなど入っていない。その代わり、底に小さなUSBメモリが一つ、ころんと転がっていた。
心臓が跳ねる。僕は埃を被ったノートパソコンを起動し、そのメモリを差し込んだ。デスクトップに現れたのは、一つの動画ファイル。ファイル名は、「カイトへ」。
クリックすると、画面に映し出されたのは、見慣れたはずの、しかし今は霞んで思い出せない、ハルキの姿だった。彼は、僕がよく知る笑顔で、少し寂しそうに微笑んでいた。
『やあ、カイト。この動画を見ているってことは、僕との記憶が、もう灰色になっちゃった頃かな』
ハルキの声。懐かしいはずなのに、どこか遠くに聞こえる。
『驚かせたらごめん。でも、大事なことを伝えなきゃいけない。カイト、よく聞いて。僕はね、君が思っているような人間じゃないんだ』
彼は一瞬、言葉を詰まらせ、そして続けた。
『僕は、君の記憶そのものなんだ』
意味が分からなかった。何を言っているんだ、こいつは。
『君は覚えていないかもしれないけど、小さい頃、大きな事故に遭ったんだ。そのせいで、君は心を閉ざして、深い孤独の中に沈んでしまった。君の記憶の色は、ほとんどが冷たい青色か、何も感じない無色のものばかりになった。…君の心が壊れてしまうのを、君自身が一番怖がっていた』
画面の中のハルキが、真っ直ぐに僕を見つめる。
『だから、君は無意識に、自分を守るための存在を作り出した。それが僕、月島ハルキだよ。君がこれまで経験してきた、楽しかった記憶、嬉しかった記憶、その温かい色の欠片を全部かき集めて、一つの人格として形作ったんだ。僕との思い出が金色に見えたのは、当たり前さ。だって僕は、君の幸せな記憶の集合体なんだから』
頭が真っ白になる。じゃあ、ミカが彼を知らなかったのも、管理人が否定したのも、全部…。
『僕という存在は、君の孤独が色を失わないための、君自身が作ったセーフティネットだった。でもね、カイト。君はもう大丈夫だ。僕がいなくても、もう世界と向き合える。君は、僕と過ごす中で、ちゃんと強くなったんだよ。だから、僕は消える時が来た』
ハルキの目から、一筋の涙がこぼれた。
『僕との記憶が灰色になったのは、君が過去のセーフティネット…つまり僕から卒業して、未来へ踏み出す準備ができた証拠なんだ。君が新しい友情を、新しい色を見つけるために、僕は場所を空けなきゃいけない。…これは、僕が君にできる、最後の、そして最大の友情の示し方なんだよ』
画面が暗転する。僕は、声を上げて泣いていた。それは悲しみだけではない、悔しさや、愛しさや、感謝や、言葉にできない感情がごちゃ混ぜになった、慟哭だった。ハルキは幻なんかじゃなかった。彼は、僕を守るために生まれ、僕を成長させるために消えていった、僕だけの、最高の親友だった。
第四章 世界が色づく時
ハルキが遺した真実は、あまりにも衝撃的で、そしてあまりにも優しかった。僕は数日間、彼のビデオメッセージを何度も見返した。灰色の記憶は、色のないままだった。しかし、そのノイズの奥に、確かな温もりを感じられるようになっていた。それは、僕を守ってくれた彼の愛情の残響だった。
ある晴れた日の午後、僕はアパートを出て、あてもなく街を歩いた。以前は煩わしいだけだった、人々の頭上に揺れる記憶の色が、今は違って見えた。蜜柑色の記憶には家族との温かい食卓が、菫色の記憶には恋人への優しい想いが、そして、時折見える藍色の記憶には、乗り越えようとしている悲しみの物語が、それぞれ込められている。誰もが、自分だけの色を抱えて生きている。世界は、僕が思っていたよりもずっと、豊かで、美しい色彩に満ちていた。
僕は、ハルキとよく訪れた公園のベンチに腰掛けた。隣には誰もいない。けれど、孤独ではなかった。僕の心の中には、灰色になったけれど、決して消えることのない、金色の残響が確かに存在している。
その時、一人の女性が、僕の隣にそっと座った。手に持ったスケッチブックに、公園の風景を描き始めたようだ。僕は、彼女の頭上に、淡く、しかし優しいラベンダー色の記憶が揺らめいているのを見た。それは、何かを慈しむような、穏やかな色だった。
以前の僕なら、きっと目を伏せて、その場を立ち去っていただろう。でも、今は違った。
「綺麗な絵ですね」
自分でも驚くほど、自然に声が出た。彼女は少し驚いたように顔を上げたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。この公園、光が綺麗だから、好きなんです」
その笑顔を見た瞬間、僕の世界に、新しい色が一つ、ぽっと灯った気がした。それはまだ、ハルキといた頃の金色には遠い、小さな小さな光かもしれない。けれど、これは紛れもなく、僕自身が一歩を踏み出して見つけた、僕自身の新しい色だった。
空を見上げる。雲一つない青空が広がっていた。ありがとう、ハルキ。君が消えて、僕の世界は色を失ったんじゃない。君がいたから、僕は、こんなにもたくさんの色に満ちた世界に、ようやく気づくことができたんだ。
灰色に沈んだ金色の記憶を胸に抱き、僕は、色づき始めた世界へと、再び歩き出す。