純白のテセラ
第一章 色彩の約束
僕、アキの手のひらには、奇妙な癖がある。誰かとの友情が、僕の中で確かな熱を帯びる瞬間、相手の最も大切な「物理的な想い出」が、許可もなくこの掌上に形を成すのだ。それは数時間で霧散する、儚い奇跡だった。
そして、この世界では、友情は肌の色となって現れる。
僕とハルの肌は、その中でも特別だった。僕の右腕からハルの左腕へ、まるで一つのキャンバスであるかのように、夕焼けの橙と夜明け前の藍が溶け合うオーロラが描かれていた。出会ってから十年。共に笑い、泣き、語り明かした夜の数だけ、そのグラデーションは深みと輝きを増していった。それは僕らの揺るぎない絆の証であり、誰にも模倣できない、唯一無二の芸術だった。
「なあアキ、この色、永遠なのかな」
ある日の放課後、川辺の土手に寝転がりながら、ハルがぽつりと呟いた。空に刷いたような淡い雲を眺める彼の横顔は、どこか憂いを帯びている。
「当たり前だろ。僕とお前なんだから」
僕は自信たっぷりに答えた。ハルとの友情が色褪せるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない。ハルは僕の言葉に安心したように微笑んだが、その笑顔の奥に、ほんの僅かな影がよぎったのを、僕は見逃さなかった。そして、夕陽に照らされた彼の腕の色が、ほんの少しだけ、ほんの一瞬だけ、白く霞んだように見えた。気のせいだと、その時の僕は思った。風に揺れる草の匂いだけが、妙に鮮明に記憶に残っている。
第二章 褪せるグラデーション
異変は、水面に落ちたインクのように、静かに、しかし確実に広がっていった。
ハルの肌から、色が抜け落ちていた。僕と繋がるはずの、あの鮮烈なグラデーションが、日を追うごとに輪郭を失い、乳白色の侵食に屈していく。教室の誰もがその変化に気づき、囁き交わす視線がハルに突き刺さった。友情の喪失。この世界でそれは、存在の一部を失うことに等しい。
「ハル、何かあったのか?僕、何かしたか?」
僕は何度も問いかけた。だが、ハルはいつも困ったように笑うだけだった。
「ううん、何でもない。アキは何も悪くないよ。むしろ、僕たちの友情は、前よりずっと強くなっている」
彼の言葉に嘘は感じられなかった。彼の態度は変わらず優しく、僕を気遣う眼差しは以前よりも真摯にさえ思えた。なのに、彼の肌は白くなる一方だった。まるで、彼の言葉と肉体が、互いに矛盾を叫んでいるかのようだ。
そしてある日、事件は起きた。廊下で彼とすれ違った瞬間、カリン、と乾いた音が僕の足元で鳴った。見ると、指先ほどの大きさの、透明な欠片が落ちている。ハルが着ていた制服の袖口、白くなった肌の一部が、僅かに剥落していた。僕は咄嗟にそれを拾い上げた。それはまるで、薄いガラス細工のようだった。
ハルは、僕がそれを拾ったことに気づくと、一瞬、凍りついたような表情を見せた。
「何でもない、ただの……」
「嘘だ」
僕は彼の言葉を遮った。友情は確かにある。なのに、なぜ記憶の色は失われる?なぜ、彼の身体は壊れ始める?答えのない問いが、僕の頭の中で渦を巻いていた。
第三章 硝子の残響
自室に戻り、僕は拾った「記憶の破片」をそっと机のライトにかざした。すると、信じられない光景が目の前に広がった。
硝子の欠片の内部で、光が屈折し、像を結んだのだ。それは、小学生の僕とハルが、泥だらけになって笑い合っている姿だった。二人で初めて作った、粗末な木の上の秘密基地。雨漏りする屋根の下で、これが僕らの城だと誓い合った、あの夏の日。色褪せるはずのない、僕らの原風景だった。
なぜ、こんなにも大切な記憶が、彼から零れ落ちる?
翌日、僕はハルを問い詰めた。硝子の破片を見せつけ、これが何なのかと迫った。ハルは青ざめた顔で視線を彷徨わせ、唇を固く結んでいる。
「……わからない」
「わかるまで聞く!」
僕が彼の腕を掴んだ瞬間、ハルは小さく呻き、その場に崩れ落ちた。彼のシャツの袖がめくれ、僕は見てしまった。彼の白い肌に、まるでひび割れた陶器のように、無数の細い亀裂が走っているのを。それは、彼の存在そのものが、内側から崩壊を始めている証だった。
「もう、やめてくれ……アキ」
懇願するような彼の声は、乾いた落ち葉のようにか細く、僕の胸を締め付けた。彼の身体から漂う、微かな、埃っぽいような匂いが、彼の疲弊を物語っていた。
第四章 完璧という名の牢獄
ハルの崩壊は、もう誰の目にも明らかだった。彼は学校を休みがちになり、僕が何度見舞いに行っても、会うことを拒んだ。彼の肌は完全に色を失い、まるで精巧な白磁の人形のようになってしまったと、彼の母親が涙ながらに教えてくれた。罅は、今や全身に広がっているという。
僕はいてもたってもいられず、ハルの母親が目を離した隙に、彼の部屋に忍び込んだ。静まり返った部屋。カーテンが引かれ、薄暗い空間に、ハルの気配だけが満ちている。ベッドサイドの机に、一冊のノートが開かれたままになっているのが目に入った。それは、彼の日記だった。罪悪感に苛まれながらも、僕はそのページをめくった。
そこには、彼の苦悩と、歪んだ願いが綴られていた。
『アキとの友情は、僕の全てだ。この友情に、一点の曇りもあってはならない』
『僕の中にある、過去の醜い記憶。初めてアキに嫉妬した日のこと。些細な嘘でアキを傷つけた罪悪感。そんなノイズが、僕らの完璧なグラデーションを汚している気がしてならない』
『見つけた。古文書にあった秘術。自身の記憶を肉体から分離させる方法。負の記憶、不純な感情、後悔……それら全てを捨て去れば、僕はアキに対して、純度百パーセントの友情だけを捧げられる』
『今日、術は成功した。僕の心は晴れやかだ。もうアキを疑うことも、妬むこともない。ただ、時々、身体が軋むような音がする……』
僕は愕然とした。ハルが友情の記憶を失っていたのではなかった。彼は、僕との友情を「完璧」なものにするため、自らの不完全な部分を、記憶ごと肉体から切り離していたのだ。純粋な友情だけを残すために。だが、人の心は、そして肉体は、光だけで出来ているわけじゃない。影を切り捨てた代償が、彼の存在そのものを蝕んでいた。
第五章 手のひらの夜明け
僕はベッドに横たわるハルの元へ駆け寄った。彼の身体は冷たく、硬質で、もはや生きている人間の温かみを感じられなかった。だが、薄く開かれた瞳は、確かに僕を捉えていた。
「……アキ」
かろうじて動く唇が、僕の名前を紡ぐ。
僕は、彼の冷たい手を、両手で強く握りしめた。今、この瞬間、ハルが最も大切にしている想い出は何だ?純粋であろうとした、僕との友情か?それとも……。
僕は全ての意識を手のひらに集中させた。僕らの友情が、僕らの絆が、まだここにあるのなら、応えてくれ。
じわりと、手のひらが熱を帯びる。光が集まり、ゆっくりと形を成していく。
それは、僕が想像していたような、輝かしい友情の証ではなかった。
僕の手のひらに現れたのは、一つのかすかに欠けた、古びたビー玉だった。緑色のガラスの中に、気泡が一つ、閉じ込められている。
ハルの目が、わずかに見開かれた。
それは、彼が捨て去ったはずの記憶。僕と彼が初めて出会った日。互いに意地を張り、取っ組み合いの喧嘩をして、泥だらけになった。散々憎まれ口を叩き合った後、夕暮れの公園の砂場で、二人で一緒に見つけた、ただのビー玉。
「これが、僕らの宝物一番号な」
ぶっきらぼうにそう言ったハルの、照れたような顔。僕らの不格好で、完璧からはほど遠い、始まりの記憶。ハルが「ノイズ」として切り捨てたはずの、かけがえのない記憶のかけらだった。
第六章 まだら模様の未来
「見たかよ、ハル」
僕は涙声で叫びながら、ビー玉を彼の目の前に突きつけた。
「これが、お前が一番大切にしてるもんだ!完璧なんかじゃない、こんな傷だらけで、不格好な記憶が、お前の、僕らの宝物なんだ!」
嫉妬もした。喧嘩もした。くだらない嘘もついた。でも、その全てがあったから、僕らの友情の色は、あんなにも深く、複雑で、美しいグラデーションを描いていたんじゃないか。
「完璧な友情なんていらない!僕は、不完全なお前がいいんだ!後悔も、弱さも、全部抱きしめたお前と、友達でいたいんだよ!」
僕の叫びが、部屋の空気を震わせた。手のひらのビー玉が、強い光を放ち始める。その光は、まるで吸い込まれるように、ハルの身体に走る無数の罅の中へと流れ込んでいった。
ピシ、ピシ、と罅が塞がっていく音がする。そして、彼の真っ白な肌に、ほんの少しずつ、だが確かに、淡い色が灯り始めた。それは、かつてのような鮮やかなグラデーションではなかった。白地に、ぽつり、ぽつりと滲んだような、まだら模様の色彩だった。
彼の身体から、失われていたはずの温もりが戻ってくる。やがて、ハルの指が、僕の手を弱々しく握り返した。
「……あき」
彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、彼が捨て去ったはずの、後悔と安堵の色をしていた。
僕らの肌に、かつてのオーロラが戻ることはないのかもしれない。でも、この不格好なまだら模様こそが、不完全さを受け入れ、再び共に歩き出すことを決めた、僕らの新しい友情の証になるのだろう。完璧ではない、だからこそ愛おしい、僕らだけの色を、これからは二人で描いていくのだ。