第一章 光の糸と共有夢
結城湊(ゆうき みなと)の世界は、光の糸で満ちていた。人々が行き交うカフェの窓辺、彼の定位置から見える街の景色は、無数の光線が織りなす壮大なタペストリーだ。それは人々を結ぶ『絆』が可視化されたもので、湊には生まれつきそれが見えた。
濃い珈琲の香りが鼻腔をくすぐる。カウンターの向こうで、老夫婦が静かに微笑み合っていた。二人からは、穏やかで温かい金色の糸が伸び、互いの胸の中心で結ばれている。湊はそっと目を細め、指先で空中にその糸の幻影をなぞった。彼の微かな意志に応え、糸の輝きがほんの少しだけ増す。老夫婦の笑みが、一層深くなったように見えた。
これが湊の秘密。他者同士の絆の糸に触れ、その強度を操作できる力。彼はこの力を、街角の片隅で、誰にも知られず、綻びかけた絆を繕うために使っていた。
しかし、その瞳に決して映らないものが一つだけあった。彼自身の身体から伸びるはずの、光の糸。どんなに目を凝らしても、鏡を覗き込んでも、そこには何もない。まるで自分だけが、この光の織物から切り離された存在であるかのように。その孤独を埋めてくれるのは、夜ごと訪れる親友との『共有夢』だけだった。
その夜、湊は空を飛んでいた。眼下には宝石を散りばめたような夜景が広がり、隣には親友の早瀬楓(はやせ かえで)が笑っている。これは楓が見ている夢だ。最も強い絆で結ばれた者だけが共有できる、鮮明な夢の世界。
「すごい景色だね、湊!」
風に乗る楓の声が、耳元で心地よく響く。この夢の中だけが、湊が自分の絆を確かに感じられる唯一の場所だった。見えなくとも、楓と自分は固く結ばれている。その確信が、彼の心を温かな光で満たしていた。
第二章 静かなる亀裂
異変は、街のざわめきの中に、染みのように静かに広がり始めた。
「昨日の約束、覚えてないのか?」
「夢の話なんてされても、こっちは覚えてないんだよ!」
カフェの客たちの間で、そんな刺々しい会話が聞こえ始める。湊が窓の外に目をやると、いつもは色鮮やかだった光の糸が、あちこちで色褪せ、弱々しく揺らめいていた。まるで強い風に吹かれた蜘蛛の巣のように、今にも切れそうだ。
人々が、最も大切な相手との共有夢の記憶を失い始めていた。絆の証であるはずの夢が失われ、不信と苛立ちが街の空気を澱ませていく。
「どうして……」
湊は能力を使おうとした。喧嘩をしている恋人たちの間にかかる、細く頼りない銀色の糸。それに触れようと意識を集中させた、その瞬間。
パチン、と。
乾いた音が頭の中で弾けた。見えない壁に指先を弾かれたような、鋭い衝撃。糸は彼の干渉を拒絶し、輝きを取り戻すどころか、さらに弱々しく震えるだけだった。何度試しても結果は同じ。彼の力は、なぜか通じなくなっていた。
街を覆い始めた不協和音。それは湊の耳には、絆の糸が軋み、断ち切られていく悲鳴のように聞こえていた。自分の無力さに、奥歯を強く噛みしめる。胸の奥に、冷たい石がゆっくりと沈んでいくような感覚がした。
第三章 夢の断片
「湊、最近……あなたの夢が見られないんだ」
カフェの閉店後、訪ねてきた楓が、不安げにそう切り出した。その言葉は、湊が最も恐れていた宣告だった。楓の瞳が揺れている。彼女との間に確かに存在したはずの温かな繋がりが、指の間から零れ落ちていく感覚に、湊は息を詰まらせた。
「きっと、疲れてるだけだよ」
そう言って微笑むのが精一杯だった。自分たちの絆までが、この世界の異変に飲み込まれようとしている。その恐怖が、喉を締め付けた。
その頃から、街では奇妙な石が見つかるようになっていた。『夢の断片石』。失われた共有夢の記憶が、絆が途切れた瞬間に結晶化したものだという。それは淡い光を放つ乳白色の小石で、手に取ると、失われたはずの夢の光景が、一瞬だけ脳裏に蘇るのだ。
ある雨上がりの夜、湊は公園のベンチで、掌の中にある小さな断片石を握りしめていた。それは、先ほど見知らぬ老婆が「あんたに」と言って落としていったものだ。ひんやりとした石の感触。目を閉じると、鮮やかなイメージが流れ込んできた。
――知らない誰かと、満開の桜並木を歩いている。笑い声。舞い散る花びらの匂い。掌に感じる、温かい感触。
それは幸福な記憶の残滓だった。しかし、イメージはすぐに薄れ、石は輝きを失い、さらさらと指の間から崩れ落ちて砂になった。後に残ったのは、埋めようのない喪失感だけ。この儚い慰めでは、世界は救えない。湊は濡れたベンチの上で、ただ無力に拳を握りしめた。
第四章 善意という名の枷
なぜ力は通じないのか。なぜ夢は途切れるのか。
湊は自室に籠り、記憶を遡った。自分の能力の原点まで。彼はこれまで、数えきれないほどの絆を繕い、強化してきた。街角ですれ違う人々、カフェの常連、友人たち。良かれと思って、彼は惜しみなく力を使ってきた。彼が強化した糸は、本来の輝きを超えて、眩いばかりの光を放っていたはずだ。
その記憶に没頭していた時、ふと、ある違和感に気づいた。彼が過去に触れた、特に強く強化した糸たち。それらが今、どうなっているのか。
湊は窓を開け、夜の街に意識を集中させた。すると、見えた。街中に張り巡らされた光の糸の中に、異常なほど強く張り詰め、硬直しているものが無数に存在していた。それは湊が過去に強化した糸だった。それらは極度の緊張状態にあり、まるで張り詰めすぎたギターの弦のように、不協和音を立てて震えている。
そして、その硬直した糸同士が互いに反発し、斥力のようなものを生み出していた。それこそが、湊の力を弾いていた「見えない壁」の正体だったのだ。
愕然とした。良かれと思って行った自分の行いが、絆のネットワーク全体に過剰な負荷をかけていた。人々を強く結びつけようとした善意が、結果として絆そのものを歪ませ、破壊する原因となっていた。世界を混乱に陥れたのは、他の誰でもない、自分自身だった。
足元から世界が崩れ落ちていくような絶望が、湊を襲った。
第五章 贖罪の調律
絶望の淵で、湊は一つの決意を固めた。
自分がやったことなら、自分で終わらせるしかない。
彼はコートを羽織り、夜の街へと駆け出した。目的は一つ。自分が過去に強化しすぎた全ての糸を見つけ出し、その力を弱め、本来の自然な強度に戻すこと。それは、築き上げてきたものを自らの手で解いていく、痛みを伴う作業だった。
雨上がりのアスファルトを蹴り、湊は走る。公園のベンチで寄り添うカップルの、硬直した光の糸にそっと触れる。指先に抵抗を感じるが、構わず意識を注ぎ込む。「弱まれ、元の姿に」と。糸の過剰な輝きが和らぎ、しなやかな揺らめきを取り戻す。カップルの間に流れていた緊張した空気が、ふっと緩んだのが分かった。
それは贖罪の旅だった。駅の雑踏、静かな路地裏、高層ビルの窓の灯り。一つ、また一つと、彼は自分が残した善意の枷を解いていく。それは、人々の絆を一時的に弱める行為に他ならなかった。罪悪感が胸を焼く。だが、彼は足を止めなかった。これが、世界が再び夢を見るための、唯一の方法だと信じて。
夜が明け始め、東の空が白み始める頃、湊は街を見下ろす丘の上に立っていた。残るは、あと一つ。街全体を覆うように張り詰められた、最も強靭な光の糸。それを調律すれば、全てが終わる。
第六章 世界と繋がる糸
最後の糸に、湊は震える指で触れた。全身全霊をかけて、過剰な力を抜き去っていく。
その瞬間、世界が息を吹き返した。
街中に張り巡らされた無数の光の糸が、一斉に本来の穏やかで温かい輝きを取り戻した。硬直は解け、光は再び柔らかく脈動し始める。世界の不協和音が止み、調和のとれた美しいシンフォニーが静かに奏でられ始めた。
そして、湊はその光景に息を呑んだ。
初めて、見えたのだ。自分自身の身体から伸びる、光の糸が。
しかし、それは楓や特定の誰かに向かう一本の線ではなかった。彼の胸の中心から放たれた光は、無数の糸となって広がり、今しがた彼が調律したばかりの、街中の、世界中の人々の光の糸と複雑に絡み合い、結びついていた。それは、彼自身が『世界全体』と繋がった、巨大で荘厳な光の網そのものだった。
自分は孤独ではなかった。切り離されてなどいなかった。自分が触れた全ての絆が、巡り巡って自分自身を形作っていたのだ。その事実に、熱いものが頬を伝った。
翌朝、携帯が震えた。楓からのメッセージだった。
『昨日の夜、久しぶりに湊の夢を見たよ。君が、たくさんの光の中で、とても静かに微笑んでる夢だった』
湊は窓の外に広がる、朝日に輝く街を見つめた。人々が再び、穏やかな夢の中で繋がり始めている。彼はそっと自分の手のひらを見つめる。そこにはもう、孤独の影はなかった。見えなくとも、確かに存在する無数の絆の温もりが、彼の全身を優しく包み込んでいた。