グラヴィタスの残響

グラヴィタスの残響

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第一章 色褪せた浮遊

カイの右腕に、また一つ紋様が疼いた。銀色に光るそれは、まるで皮膚の下に星屑を埋め込んだかのようだ。通りに面したカフェの窓際、彼は冷めかけたコーヒーカップを指でなぞりながら、眼下の広場を眺めていた。広場の中心にそびえ立つ塔から放たれる光が、人々の顔を青白く照らす。やがて、集団的な歓声と共に、彼らの身体がふわりと地面を離れた。数センチ、あるいは数十センチ。子供たちは歓声を上げ、恋人たちは空中で手を取り合う。

それは、この街では見慣れた光景だった。人々が真に感動した時、その感情の熱量が周囲の重力を歪め、身体を浮き上がらせる。しかし、今やそのほとんどは『感動増幅装置』によって人工的に引き起こされたものだ。カイの腕の紋様は、その偽りの感動には決して反応しない。ぴくりとも動かない。

カイが身に着けている唯一の装飾品、古びた懐中時計をそっと開く。銀細工の蓋の下、文字盤の中央に埋め込まれた小さな黒曜石が、沈黙を保っていた。この『浮遊石』は、真の感動の波長を捉えた時だけ、内側から微かに浮き上がる。だが、この街でそれが動くことは稀だった。

街は間もなく、一年で最も大きな浮遊イベント『昇天祭』を迎える。誰もが、より高く、より長く浮き上がることを夢見て、増幅装置への依存を深めていた。人々が熱狂するほど、カイの孤独は深くなる。彼の体に刻まれた紋様は、他者の人生最期の、純粋な感動の証。それは誰にも理解されない、甘美で残酷な痛みだった。腕の疼きは、かつて看取った名も知らぬ詩人の、夕陽に捧げた最後の詩の記憶。背中のそれは、愛する者の名を呼びながら息を引き取った兵士の祈り。紋様が増えるたび、彼は人の一生分の未練を背負い、その重みで大地に縫い付けられるようだった。

広場の浮遊が終わり、人々がゆっくりと地面に戻ってくる。その誰の顔にも、本当の感動の余韻は見えなかった。ただ、祭りが近づく高揚感だけが、空虚な熱気となって街に満ちていた。

第二章 最後の灯火

街の喧騒を離れ、カイは古いレンガ造りの建物が並ぶ裏通りを歩いていた。そこだけが、時代の流れから取り残されたように静かだった。微かに聞こえる優しい声に導かれ、彼は一つのアパートメントの開かれた窓辺に足を止めた。

部屋の中では、ベッドに横たわる老婆が、傍らに座る小さな孫娘に昔話を語り聞かせていた。老婆の名はエルマ。彼女は人工装置を嫌い、自分の記憶だけを頼りに、言葉を紡いでいた。

「…そうしてね、王子様は空飛ぶ船に乗って、星の海を渡ったのさ」

しわがれた声だったが、その響きには確かな熱がこもっていた。孫娘のリナは、目をきらきらと輝かせ、物語の世界に没頭している。彼女の小さな身体が、興奮でわずかに震えているのが見えた。

クライマックスが訪れる。王子が絶望の淵から愛の力で立ち上がり、竜を打ち倒す場面。エルマの声が力強さを増したその瞬間、リナの身体が、ふわりと椅子から浮き上がった。それは増幅装置による強制的な浮遊ではない。純粋な感動が引き起こした、柔らかく、温かい奇跡だった。彼女は驚きもせず、物語の結末に心を奪われたまま、宙に浮かんでいた。

その光景を見届けたエルマの顔に、深い満足と安らぎの笑みが広がった。それが、彼女の最後の表情だった。カイの左腕に、灼けつくような痛みが走る。見れば、皮膚の下から新たな紋様が、白銀の光を放ちながら浮かび上がっていた。それは、孫娘の未来を祝福する、燃え尽きる前の蝋燭の最後の輝きにも似た、壮絶に美しい紋様だった。

激痛に耐えながら、カイは懐の時計を取り出す。蓋を開けると、黒い浮遊石が、これまで見たこともないほど高く、力強く浮き上がり、静かな光を放っていた。それはまるで、エルマの魂の灯火に呼応しているかのようだった。

第三章 忘れられた旋律

数日後、カイはエルマの部屋を整理するリナの家族に招かれた。カイがエルマの最期を静かに見守っていたことを、彼らはどこかで感じ取っていたのかもしれない。リナから手渡されたのは、一冊の古びた日記帳。エルマの遺品だという。

「おばあちゃん、カイさんみたいな人に読んでほしがってたと思うから」

革の表紙をめくると、色褪せたインクで綴られた文字が目に飛び込んできた。そこには、カイが知らなかった世界が広がっていた。増幅装置など存在せず、人々が自らの心の震えだけで空に舞い上がっていた時代の記録。恋の告白で、生まれたばかりの我が子を抱いた喜びで、美しい音楽に涙した瞬間に、人々は重力から解き放たれていた。

『昇天祭は、もともと収穫祭のようなものだった』と、日記には記されていた。『一年で最も大きな感動を、皆で分かち合い、それを天に還す感謝の儀式。空に浮かぶことは目的ではなく、結果に過ぎなかった』

読み進めるうち、カイは懐中時計に関する記述を見つけた。

『父から譲り受けたこの時計は、「原初の感動」の波長を記憶しているという。世界で初めて人が感動で浮き上がった、その瞬間の。だからこそ、どんな偽りの感情にも惑わされず、真実の感動だけに共鳴するのだ。針が止まった時、それは究極の感動を記憶した証…』

カイは息をのんだ。自分の懐中時計の針は、とうの昔に止まっている。この時計は、そして自分自身の体に刻まれた紋様は、一体何なのだ?日記の最後のページには、走り書きのような文字があった。

『昇天祭が、感動を吸い上げるための装置に変わってしまった。人々は源を忘れ、ただ浮くことだけを求める。このままでは、世界から本当の感動が枯渇してしまう…』

エルマの危惧は、カイがずっと感じていた不安そのものだった。昇天祭の真実を確かめなければならない。彼は固く決意し、日記を閉じた。

第四章 昇天祭の前夜

昇天祭の夜、街は異常な熱気に包まれていた。中央広場の塔、その正体である巨大な感動増幅装置が最大限に稼働し、空気を震わせるほどの低周波を放っている。人々はトランス状態のように空を見上げ、その顔は一様に陶酔と期待に染まっていた。

光の奔流が塔から放たれると、地響きと共に、広場にいる数千の人々が一斉に浮き上がった。悲鳴に近い歓声が夜空に響き渡る。だが、カイの体は大地に根を張ったように動かない。腕の紋様も、胸の時計も、この巨大な偽りの感動に何の反応も示さなかった。

彼は群衆を抜け、街で最も高い時計台の螺旋階段を駆け上がった。頂上にたどり着くと、眼下には非現実的な光景が広がっていた。無数の人々が、まるで操り人形のように宙を舞っている。カイは懐中時計を取り出し、その銀の蓋を、増幅装置から放たれる光にかざした。

その瞬間、時計が灼けつくように熱くなった。止まっていたはずの針が、カタカタと震えながら、猛烈な勢いで逆回転を始める。そして、文字盤の浮遊石が激しく明滅し、カイの脳内に直接、映像と感情が流れ込んできた。

それは、世界の始まりの記憶だった。

かつてこの世界には、たった一つの『究極の感動』が存在した。それは愛か、絶望か、あるいは創造の喜びか。そのあまりに強大な感情の爆発が、世界の法則そのものを捻じ曲げたのだ。人々が感動で浮き上がるのは、その『究​​極の感動』の残響、世界の歪みが引き起こす現象に過ぎなかった。

そして、カイの体に刻まれた紋様。それらは、砕け散った『究極の感動』の破片そのものだった。彼は、世界の法則を歪めた大本の力を、その身に宿していたのだ。昇天祭の本当の目的は、人々の感動エネルギーを吸収し、この歪んだ世界を無理やり維持するための儀式。だが、真の感動が枯渇した今、装置は暴走寸前だった。

第五章 地に足をつける選択

時計が示した真実に、カイは愕然とした。その時、眼下の増幅装置が、断末魔のような甲高い音を立てた。偽りの感動は制御不能なレベルまで増幅され、人々の浮遊はもはや歓喜の舞ではなかった。ある者は苦痛に顔を歪め、ある者は意識を失い、ただ無重力に漂っている。このままでは、街は、いや世界は偽りのエネルギーに飲み込まれ、崩壊する。

それを止められるのは、自分しかいない。

カイは理解した。この体に宿る紋様――『究極の感動』の破片を解放すれば、世界の歪みは正され、装置の暴走は止まる。世界は本来の、重力に縛られた姿に戻るだろう。

だが、それは同時に、人々から『浮き上がる感動』を永遠に奪うことを意味した。

腕の紋様が疼き、これまで看取ってきた人々の最後の願いが、声となって脳内に響いた。

『この感動を消さないで』

『どうか、この奇跡を世界に残して』

偽りだとしても、人々はこの浮遊する世界を愛していた。それを自分の手で終わらせてしまっていいのか。カイは唇を噛みしめた。偽りの空で永遠に彷徨うか、それとも痛みを知る本物の大地に降り立つか。

彼は眼下の混沌を見つめた。苦しむ人々、泣き叫ぶ子供。そして、人混みの中に、地上で固く目をつぶるリナの姿を見つけた。彼女は浮き上がっていなかった。エルマが遺した真の感動が、彼女を偽りの浮遊から守っているのだ。

カイの心は決まった。彼は偽りの奇跡よりも、リナがこれから踏みしめて生きていく、確かな大地を選びたかった。

第六章 グラヴィタスの残響

カイは時計台の縁に立った。そして、懐中時計を固く握りしめ、夜空に向かって身を投げ出した。

落下する彼の体から、全ての紋様が解放された。銀色の光が奔流となってほとばしり、一つの巨大な光の球となって増幅装置に激突する。轟音と閃光。装置は砕け散り、街を覆っていた青白い光が、まるで夜明けの霧のように晴れていく。

世界を支配していた微かな浮遊感が、完全に消え失せた。

空中にいた全ての人々が、一斉に大地へと引き寄せられる。悲鳴が上がったが、落下は驚くほど穏やかだった。まるで世界が、優しく人々を抱きとめるように。人々は呆然と立ち尽くし、自分の足が地面にしっかりとついている感覚を、生まれて初めて味わっていた。

カイもまた、広場の石畳に静かに着地した。彼の体から、あれほど彼を苛んだ紋様は跡形もなく消え去っていた。彼はもう、誰の感動も背負うことのない、ただの青年だった。

混乱する群衆の中に、彼はリナの姿を見つけた。彼女はカイに気づくと、小さく駆け寄ってきた。彼女はもう、物語を聞いても空に浮かぶことはないだろう。だが、カイと目が合うと、はにかむように微笑んだ。その純粋な笑顔を見た瞬間、カイの胸の奥に、温かく、そして確かな何かが灯った。それは体を浮かせることのない、静かで、しかし何よりも強い『感動』だった。

空を見上げる。そこにはもう、奇跡の光はない。ただ、星々が瞬く、ありふれた夜空が広がっているだけだ。人々はもう二度と、感動で空を舞うことはないだろう。だが彼らは、愛する人と手を取り合い、大地を踏みしめることの喜びに、新たな感動を見出していくはずだ。

カイの身体からは紋様が消えた。しかし彼の心には、かつて世界を歪め、そして今、世界を救った『究極の感動』の静かな残響が、いつまでも、いつまでも鳴り響いていた。

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