第一章 白紙の来訪者
静寂が支配する大図書館。その静けさは、死そのものだった。天井まで届く書架には、無数の「本」が整然と並べられている。革で装丁されたもの、布で覆われたもの、分厚いもの、薄いもの。それらはすべて、かつて地上に生きた人間の「記憶」そのものだ。人が生を終えると、その魂は一冊の本となり、この『終着の図書館』へと収められる。私はリヒト。この図書館の司書だ。
私の仕事は、新たに届いた本を検分し、分類し、然るべき場所へ収めること。他人の人生の終着点に、最後のラベルを貼る仕事だ。喜びも、悲しみも、後悔も、すべてはインクの染みとなり、紙の束に綴じられる。私は、そのインクの匂いに慣れきっていた。他人の濃密な人生の香りを嗅ぎながら、自らの感情は希薄になっていく。それでよかった。感情は、判断を鈍らせるだけだ。
その日も、私はいつものように搬入口で、新たに届いた数冊の本を受け取っていた。老衰で大往生を遂げた哲学者の重厚な本、病で夭折した詩人の、悲しくも美しい装丁の本。いつもと変わらない光景。そう、その一冊を目にするまでは。
カートの隅に、それはあった。他の本とは明らかに異質な存在。どの本にも刻まれているはずの氏名も、生没年も、そして人生を象徴するタイトルすらも、どこにもない。ただ、真っ白なのだ。表紙も、背表紙も、雪原のように潔いほどの白。ページをそっと開いてみても、そこにはインクの痕跡一つない、ただただ無垢な紙が続くだけだった。
「なんだ、これは……」
思わず声が漏れた。図書館の規則では、すべての本は持ち主の記憶で満たされていなければならない。空白の本など、前代未聞だった。記録漏れか、搬送中の事故か。しかし、この本は他の本と同様に、正規のルートで魂の転移を終えてここに在る。それは、この本が持つ微かな、しかし確かな「存在の重み」が証明していた。
私はその白紙の本を手に取り、作業台の柔らかな光の下にかざした。やはり、何もない。だが、指先に奇妙な感覚が伝わってきた。それは冷たい紙の感触とは違う、まるで人の肌のような、微かな温もりだった。この図書館にある本は、すべて過去の遺物。記憶の化石だ。温もりなど、あるはずがなかった。私の心に、何年も感じたことのない種類のさざ波が立った。それは好奇心というにはあまりに重く、不安と呼ぶにはどこか惹きつけられる、奇妙な感情の揺らぎだった。この白紙の本は、一体誰の、何を「語らない」物語なのだろうか。私の退屈な日常は、その日を境に、静かに、しかし決定的に覆された。
第二章 温もりの残滓
白紙の本との対峙が始まってから、数日が過ぎた。私はその本を司書室の自席に置き、時間が許す限り向き合った。規則では、分類不能な本は「未整理書庫」の奥深くへ封印されることになっている。だが、私にはそれができなかった。この本を、忘却の闇に葬り去ることは、何か取り返しのつかない過ちを犯すような気がしてならなかったのだ。
本に触れるたび、あの微かな温もりが指先から伝わってくる。そして、目を閉じ、意識を集中させると、温もりだけではない、さらに微細な感覚が流れ込んでくることに気づいた。それは映像でも言葉でもない。もっと根源的な、感覚の断片。春の風が頬を撫でる感触、雨上がりの土の匂い、午後の陽だまりの暖かさ、そして、遠くで聞こえるような、優しい誰かのハミング。
「生きているのか……?いや、まさか」
本は死者の記憶の結晶だ。生きていてはならない。だが、この本から伝わるものは、紛れもなく「生」の予感に満ちていた。それは完成された記憶の再生ではなく、これから起こるかもしれない出来事の、柔らかなスケッチのようだった。
私は図書館の古文書室に籠もり、過去の記録を漁り始めた。何世紀にもわたる膨大な司書たちの記録の中に、この不可解な現象への手がかりが眠っているかもしれない。埃っぽい羊皮紙の巻物を一つ一つ解き、インクの掠れた日誌を何冊も読み解いた。そしてついに、一つの名前にたどり着く。
エリアス。百年前に司書長を務めていた人物だ。彼の残した手記は、ほとんどが図書館の運営に関する実務的な記録だったが、最後の数ページだけ、インクの色も筆跡も違う、個人的な研究記録が走り書きで記されていた。
『――本は、必ずしも完成された記憶の終着点ではないのかもしれない。もし、魂がその生を全うする「前」に旅立ったとしたら?語られるべき物語を持たぬまま、ここにたどり着いたとしたら?それは「空白の本」となるのではないか。いや、あるいは、「未完の本」と呼ぶべきか』
エリアスの文字は、興奮と切迫感に震えていた。彼は「未完の本」の存在を仮定し、その可能性を探っていたのだ。手記には、彼が研究のために使っていたという、図書館の地下にある隠された書斎の場所が、謎めいた言葉で記されていた。
『最も古い記憶の影、最も沈黙した言葉の下に、真実は眠る』
私はその言葉を頼りに、図書館の最も古い区画である「創設者の書庫」へと向かった。そこは、今はもう誰も訪れない、静寂と埃に満ちた場所だ。巨大な初代司書長の肖像画が、壁に掛かっている。エリアスの言葉を反芻する。「最も沈黙した言葉の下に」。私は肖像画の前に立ち、その厳格な眼差しを見つめ返した。そして、ふと、肖像画の下にある銘板に目を留めた。そこには初代司書長の言葉が刻まれていたが、その一部が不自然に磨耗している。指でそっと押してみると、石が軋む微かな音と共に、壁の一部が静かに内側へと開いた。
隠された階段が、地下の闇へと続いていた。白紙の本の温もりを懐に感じながら、私は覚悟を決め、その螺旋階段をゆっくりと下りていった。
第三章 未完のレクイエム
階段の先にあったのは、小さな円形の部屋だった。埃の匂いと、古い紙、そして乾燥した薬草のような独特の香りが混じり合っている。中央には大きな円卓があり、その上には天球儀や古びた観測器具、そして一冊の分厚い革張りの日誌が置かれていた。エリアスの研究室に違いなかった。
私は震える手で日誌を開いた。そこには、彼の「未完の本」に関する、より詳細な、そして狂気じみた研究の記録が綴られていた。彼は、いくつかの「未完の本」を発見し、それらが持つ微かなエネルギーと交感することを試みていたのだ。
『これらの本は、死者の記憶ではない。断じて。これらは、可能性だ。生まれる前に失われた命が、持ち得たはずの未来の、儚い残響なのだ。彼らは物語を持たない。だから白紙なのだ。だが、彼らは夢を持っている。見ることのなかった空の色、聞くことのなかった歌、感じることのなかった温もり。その夢の残滓が、我々が「温もり」として感じるものの正体なのだ』
ページをめくる指が止まった。生まれる前に、失われた命。その言葉が、心の奥深くに突き立てられた楔のように、鈍い痛みを伴って響いた。日誌の最後のページに、一枚の古びた写真が挟まっていた。エリアスが、若き日の妻と思われる女性と、優しく微笑んでいる写真だ。そして、その裏には、小さな文字でこう書かれていた。
『我が愛する息子へ。お前が見るはずだった世界は、美しかっただろうか』
全身の血が凍るような感覚。いや、凍りついたはずの何かが、無理やり融かされていくような、激しい痛み。忘れていた。いや、忘れたふりをしていた。心の最も深い場所に鍵をかけ、何重にも封印していた記憶の扉が、軋みながらこじ開けられる。
十年前。私にも、未来を誓った女性がいた。エマ。彼女の笑顔は陽だまりのようだった。私たちは、新しい命を授かった。男の子だとわかった時、二人で泣きながら喜んだ。名前も考えていた。光を意味する、「ルカ」と。だが、運命は残酷だった。予定日を間近に控えた雨の夜、一台の車が、私たちの乗る馬車に突っ込んだ。私が次に目を覚ました時、隣にはもう、エマも、そして私たちの光であるはずだったルカも、いなかった。
絶望が私を呑み込んだ。私は自分の記憶の一部を、感情と共に切り捨てた。悲しむことをやめ、感じることをやめ、ただ機械のように他人の記憶を整理することで、自分自身から逃げてきたのだ。
私は懐から、あの白紙の本を取り出した。その温もりは、今やただの温かさではなかった。それは、私が感じることのなかった、我が子の胎動だった。流れ込んでくる感覚の断片は、私たちがルカに語り聞かせた、まだ見ぬ世界の物語だったのだ。春の風、雨の匂い、陽だまりの暖かさ、そして、エマが大きなお腹に口を寄せて歌っていた、優しいハミング。
この本は、誰かのものではなかった。これは、私の、私たちの、生まれてくることができなかった息子の、白紙の人生そのものだったのだ。「転」というには、あまりにも残酷で、そしてあまりにも愛おしい真実が、私の前に横たわっていた。涙が、何年ぶりかに頬を伝った。それは、凍てついた心を溶かす、熱い雫だった。
第四章 光で綴る物語
私は、エリアスの研究室の床に座り込み、ただ泣いた。声を殺し、肩を震わせ、十年分の涙を流した。白紙の本を胸に抱きしめると、その温もりは私の心臓の鼓動と共鳴し、一つの命として確かにそこにあることを告げていた。悲しみと後悔が嵐のように吹き荒れた後、私の心には、不思議なほどの静けさが訪れた。
私は立ち上がり、円卓に向かった。そして、白紙の本をそっと開いた。そこは相変わらず、何も書かれていない無垢な世界。だが、もう私には、それがただの空白には見えなかった。そこは、無限の可能性が広がる地平線だった。
「ルカ」
私は、初めてその名前を声に出して呼んだ。
「お前に、見せてあげたかった世界があるんだ」
私は目を閉じ、記憶の扉を、今度は自らの意志で開いた。エマと初めて出会った春の丘。桜の花びらが舞い散る中で、はにかんで笑った彼女の顔。二人で訪れた夏の海。打ち寄せる波の音と、肌を焼く太陽の光。秋の森で集めた、燃えるような色の落ち葉。そして、冬の夜、暖炉の前で寄り添い、お前の誕生を待ちわびた、あの静かで満ち足りた時間。
私の心からの想いが、指先を通じて本へと流れ込んでいく。それはインクではない。言葉でもない。愛と、記憶と、そして叶わなかった未来への祈りそのものだ。すると、奇跡が起きた。
真っ白だったページの上に、淡い光の粒子が集まり始め、線を描き、形を作っていく。それはまるで、オーロラのような、儚くも美しい光のインクだった。桜の花びらが舞い、波が寄せ、落ち葉が色づき、暖炉の炎が揺らめく。完璧な絵ではない。精密な文章でもない。だが、そこには紛れもなく、私たちがルカと分かち合いたかった世界の、愛に満ちたスケッチが浮かび上がっていた。
私は語り続けた。お前が好きだったであろう物語を、お前と歌いたかった歌を、お前と歩きたかった道を。ページがめくられるたびに、光の物語は綴られていく。それは、失われた過去への鎮魂歌(レクイエム)であり、同時に、存在し得た未来への祝詞でもあった。
どれくらいの時間が経っただろう。最後のページに、エマと私が、光に包まれた赤子を抱きしめている姿が浮かび上がった時、私の涙は枯れていた。本は、以前よりもずっと穏やかな、満ち足りた温もりを放っていた。
私はその本を「未完の本」として、エリアスの日誌の隣に、そっと置いた。それは白紙の本ではない。光で綴られた、世界でたった一つの物語だ。
図書館に戻った私は、再び司書の仕事に戻った。だが、私の世界はもう以前と同じではなかった。書架に並ぶ一つ一つの本が、ただの記憶の化石ではなく、誰かが懸命に生きた証であり、愛おしい物語なのだと感じられた。私は、届けられる本を、以前よりもずっと優しい手つきで受け止め、その人生に敬意を払い、然るべき場所へと収める。
時折、私は地下の研究室を訪れる。そして、光で綴られた息子の本を手に取り、新しい物語を語り聞かせるのだ。私の人生という物語に、新たなページが加わるたびに。
終着の図書館に、今日も静かに光が差し込む。それは無数の記憶を、そして、生まれ得なかった無数の可能性をも、等しく優しく照らし出していた。私の物語も、いつかこの図書館の一冊の本になるだろう。その時、私の本の隣には、きっと、光り輝く小さな一冊が、寄り添うように置かれているに違いない。