月影の鏡師

月影の鏡師

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第一章 曇り硝子の依頼人

江戸の片隅、神田の裏通りに、宗介の仕事場はあった。陽の光も湿りがちなその小さな家は、磨きかけの鏡が放つ鈍い光と、砥石と金属が擦れる微かな音、そして客の誰もが持ち込む「過去」の匂いで満ちていた。

宗介は鏡師。だが、ただの鏡師ではなかった。彼が父から受け継いだのは、鏡を磨く技術だけではない。ひとたび鏡面に手を触れ、精神を集中させると、その鏡がかつて映し出した持ち主の強い感情や、記憶の断片が、幻のように脳裏に流れ込んでくるのだ。それは呪いにも似た力だった。喜びや愛情ならばまだいい。しかし、人の心とは澱むもの。鏡が記憶する情念の多くは、嫉妬、憎悪、そして深い悲しみ。宗行は、客の顔を見ず、ただ鏡だけと向き合うことで、どうにか正気を保っていた。

その日、店に現れた男は、ひときわ濃い影を背負っていた。上質な縮緬問屋の主だと名乗ったが、その身なりに反して、顔には深い皺が刻まれ、目は虚ろに落ち窪んでいる。名は、伊三郎と名乗った。

「これを、磨いていただきたい」

伊三郎が恭しく風呂敷から取り出したのは、白蝶貝の螺鈿細工が見事な手鏡だった。しかし、その中央には無惨な亀裂が走り、鏡面は見る影もなく曇っている。まるで、持ち主の砕けた心を映しているかのようだ。

「……これは、ひどい状態ですな。元通りとは参りません」

宗介が事務的に告げると、伊三郎はかぶりを振った。

「構いませぬ。ただ、もう一度……もう一度だけでよいのです。この鏡に、あの者の笑顔を映してやりたい」

あの者、とは。宗介が問う前に、伊三郎は語り始めた。鏡の持ち主は、吉原で最も美しいと謳われた花魁、暁(あかつき)だという。伊三郎は長年、彼女に心を寄せ、足繁く通っていた。しかし暁は二年前に流行り病で儚くなった。これは彼女の忘れ形見なのだと。

宗介は黙って手鏡を受け取った。指先が冷たい鏡面に触れた瞬間、彼の全身を凄まじい悪寒が駆け抜けた。

――違う。これは、病死の静けさなどではない。

脳裏に叩きつけられたのは、圧倒的な恐怖の感情だった。息もできないほどの絶望。助けを求める声なき叫び。そして幻の最後に網膜に焼き付いたのは、闇に鈍く光る一本の簪(かんざし)。その先端は、べっとりと黒い何かに濡れていた。血だ。伊三郎が語る、穏やかな追憶とはあまりにかけ離れた、暴力的な情景だった。

宗介は顔を上げた。目の前の老商人の顔が、得体の知れないものに見える。この男は、何かを隠している。暁花魁の死には、語られていない秘密がある。この曇りきった鏡は、その真実を知っている。

第二章 幻影の欠片

仕事に取り掛かる前の晩、宗介は手鏡を前に、ひとり腕を組んでいた。あの強烈な残像が、瞼の裏にこびりついて離れない。恐怖に歪む女の顔。血塗られた簪。伊三郎の哀しげな横顔が交互に浮かび、宗介の心をかき乱す。

(俺の見る幻など、当てにはならぬ。ただの感情の澱だ)

そう自分に言い聞かせても、一度芽生えた疑念は消えなかった。彼はこれまで、この能力を疎み、ただ流れ込んでくる幻視に耐えるだけだった。だが、今回ばかりは違った。鏡の奥で叫んでいる魂が、彼に「真実を暴け」と訴えかけている気がした。

翌日、宗介は意を決して、かつて暁がいたという吉原の大見世(おおみせ)「明石屋」を訪ねた。鏡師が仕事の参考にと、持ち主の人となりを尋ねることは、そう不自然ではない。応対に出た遣り手婆は、暁の名を聞くと、一瞬だけ険しい顔つきになった。

「暁かい……。あの子は、うちの宝だったよ。気位は高かったが、情の深い、良い子だった」

「病で亡くなられたとか」

「ああ、そうさ。あっという間だったねぇ。あれほどの美しさを誇った女が、コロリと逝っちまうんだから、人の命なんて分からないもんさ」

遣り手婆の言葉は淀みない。だが、宗介の目には、彼女の瞳の奥に、一瞬だけよぎった怯えの色が見えた。

手がかりはなかなかつかめない。宗介は仕事場に戻り、再び手鏡と向き合った。意を決して、砥石で鏡の表面を静かに研ぎ始める。シャリ、シャリ、という規則的な音が、彼の精神を深く集中させていく。

すると、新たな幻影が流れ込んできた。

断片的で、前後関係は分からない。

――豪華絢爛な座敷。扇子で顔を隠し、媚びるような笑みを浮かべる男たち。その中で、暁だけが冷たい無表情で三味線を弾いている。彼女の瞳には、諦めと侮蔑が浮かんでいた。

――文箱に隠された、一通の文。そこには「必ずお前をここから出してやる」という、力強い筆跡。

――伊三郎が、そっと暁に小さな紅を渡している。暁はそれを受け取るが、表情は硬いまま。

――そして、再び、あの恐怖の場面。しかし今度は少しだけ鮮明だった。狭い部屋。背後から伸びる、がっしりとした男の腕。暁の悲鳴。そして、手から滑り落ち、床に当たって砕け散る手鏡。

やはり、事故や病死ではない。彼女は誰かに襲われたのだ。犯人は、彼女を締め付ける男。しかし、その顔は見えない。伊三郎か? いや、腕の太さが違う。もっと屈強な、武士のような腕だ。

宗介は研磨を中断した。これ以上は危険だ。これ以上、鏡の記憶に深入りすれば、自分の精神が呑まれてしまう。だが、暁の無念を思うと、手を止めることができなかった。不完全な幻視しかできない己の力が、これほどもどかしく、腹立たしかったことはない。彼はただ、鏡に宿る魂の欠片を拾い集めることしかできなかった。

第三章 偽りの月、真実の涙

数日が過ぎた。宗介は夜もろくに眠れず、鏡の幻影にうなされていた。心身ともに疲弊しきった彼の元へ、伊三郎が再び姿を現した。

「……鏡は、どうでしょうか」

伊三郎の憔悴しきった顔を見て、宗介の中で疑念と怒りが沸点に達した。

「あんた、嘘をついているな。暁花魁は、病で死んだんじゃない。誰かに殺されたんだ。この鏡がそう言っている!」

声を荒らげる宗介に、伊三郎は驚いた顔を見せたが、やがて力なくその場に座り込んだ。彼の肩は、絶望に打ちひしがれたように小さく震えていた。

「……鏡師殿。あなたには、何かが見えるのですな」

伊三郎は、諦めたように話し始めた。その告白は、宗介の予想を根底から覆すものだった。

「暁は……わしの、娘なのでございます」

伊三郎は、かつて小さな呉服屋を営んでいた。しかし火事で店も妻も失い、たった一人残った娘を、遠縁を頼って吉原に預けるしかなかったのだという。彼はその後、死に物狂いで働き、今の店を築き上げた。いつか娘を身請けするため。ただ、その一心で。

「客としてしか会えぬ、惨めな父親でした。しかし、あの子が笑ってくれるなら、それでよかった……」

そして、伊三郎は、宗介が幻視した「恐怖」の真実を語った。

暁には、ある大身の旗本から身請けの話が持ち上がっていた。それは誰もが羨む縁談だったが、その旗本は残忍な性癖を持つ男として知られていた。暁は、その男の手に落ちることを、死ぬほど恐れていた。

「あの子は、逃げたのです。病死というのは、明石屋が体面を保つためについた嘘。本当は、身請け話が決まる直前に、忽然と姿を消したのです」

「では、あの血塗られた簪は……」

「わかりませぬ。ただ、あの子は、旗本に追われるくらいなら、自ら……と、考えるような気性の激しい娘でした。わしは、あの子がどこかで無残な死に方をしたのではないかと、そればかりが怖ろしいのです」

伊三郎の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「だから、あなたに頼んだ。この鏡に、もし、あの子の幸せな笑顔が一瞬でも映っていたなら……わしは、それで救われる。ですが、もし、あの子の最期が苦しみに満ちたものだったのなら……それを見届けるのが、父親としての最後の務めだと思ったのです」

宗介は絶句した。自分の浅はかな推理を恥じた。彼が見た恐怖は、旗本への恐怖。血の簪は、おそらく暁が護身用か、あるいは最悪の場合のために持っていたもの。伊三郎は、犯人などではなかった。ただ、娘の魂の行方を知りたいと願う、一人の父親だったのだ。

宗介は、自分の能力の意味を、初めて考えた。これは、呪いではないのかもしれない。過去を覗き見ることしかできない不完全な力。だが、その不完全な欠片を繋ぎ合わせ、残された者の心を慰めることなら、できるのではないか。

第四章 心を映す鏡

宗介は、伊三郎に深く頭を下げた。

「……必ずや、この鏡を磨き上げてご覧にいれまする」

その夜、宗介は再び仕事場に籠った。もはや恐怖はなかった。彼の心にあるのは、鏡の向こうにいる暁の魂と、娘を想う父親の心に寄り添いたいという、静かで強い祈りだけだった。

彼は、ただ記憶を追うのをやめた。鏡そのものに語りかけるように、一心不乱に磨き続けた。鏡よ、お前が本当に映したかったものは何だ。お前が記憶する、持ち主の最も強い「想い」は何だったのだ、と。

夜が白み始め、東の空が瑠璃色に染まる頃。ついに、鏡はひび割れを感じさせないほどの、一点の曇りもない輝きを取り戻した。宗介がそっと鏡面に息を吹きかけると、奇跡が起きた。

鏡に映ったのは、恐怖に歪む顔でも、血に濡れた簪でもなかった。

――月が皓々と照らす、小さな川舟の上。みすぼらしい身なりだが、暁はそこに座っていた。彼女は、懐から伊三郎が渡した小さな紅を取り出すと、そっと唇に引いた。そして、水面に映る自分の顔を見て、ふっと、本当に微かに、だが確かに微笑んだのだ。それは、誰に見せるためでもない、諦めでもない、束の間の自由に安堵し、遠い父親を想う、偽りのない穏やかな笑みだった。

幻が消えた後、宗介の頬を涙が伝っていた。彼女は、逃げ延びていたのだ。そして最期の瞬間まで、父親との繋がりを胸に抱いていた。鏡は、彼女の絶望ではなく、その一瞬の安らぎと、父親への愛情という最も強い想いを、大切に記憶していたのだ。

数日後、伊三郎が再び訪れた。宗介は無言で、磨き上げた手鏡を差し出した。伊三郎がおそるおそる受け取ると、その鏡面には、まるで幻のように、紅を差して微笑む娘・暁の姿が、一瞬だけ映って、そして消えた。

「……あ……あかつき……」

伊三郎は、その場に崩れ落ち、子供のように声を上げて泣いた。それは、後悔や悲しみの涙ではなかった。娘が、たった一人でも、最後に心からの笑みを浮かべていたことを知った、安堵と感謝の涙だった。

「ありがとう……ありがとう、鏡師殿……」

伊三郎が帰った後、宗介は朝日が差し込む仕事場で、静かに自分の掌を見つめていた。この力は、呪いではない。死者の声なき声を拾い上げ、残された者の心を繋ぐための、天命なのかもしれない。

彼の磨いた鏡は、もう単なる過去の幻影を映すだけではなかった。それは、時を超えて人の想いを伝え、未来を生きる者の心をそっと照らし出す、温かな光を宿していた。宗介は、これからもこの裏通りで、声なき魂たちの物語を、磨き続けていくのだろう。彼の顔には、いつしか穏やかな誇りが浮かんでいた。

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