灰燼の残り香

灰燼の残り香

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第一章 忘れ香の依頼

江戸、神田の裏通り。陽の光さえ届くのをためらうような細い路地に、弥一の店はあった。看板もなく、ただ軒先に小さな香炉がひとつ、か細い煙を吐いているだけ。客はほとんど来ない。それでよかった。弥一は人を避け、ただ香木と向き合う日々を望んでいた。

彼の嗅覚は、呪いと言えるほどに鋭敏だった。人の嘘は汗の匂いの変化で分かり、病は息遣いに混じる微かな腐臭で察した。ゆえに、世界は不快な匂いで満ち満ちていた。彼が安らぎを得られるのは、選び抜かれた香木が放つ、純粋で気高い香りの世界に没入している時だけだった。

ある雨の日の午後、店の土間に静かな人影が立った。弥一が顔を上げると、そこにいたのは深編笠で顔を隠した、武家の女中と思しき女だった。雨に濡れた土の匂いと、上等な白檀の香りがふわりと立ち上る。

「香師の弥一殿とお見受けいたします」

凛とした、しかしどこか切羽詰まった声だった。

「……いかにも。何の御用でしょうか」

弥一はぶっきらぼうに答えた。早く帰ってほしい、という思いが声に滲む。

女は懐から、古びた縮緬の香袋を取り出した。紫紺の地に、銀糸で桔梗が刺繍されている。だが、それは酷く色褪せていた。

「これを。この香りを、再現していただきたいのです」

差し出された香袋を受け取ると、弥一の眉が微かに動いた。ほとんど無臭に近い。長年、懐に入れられていたのだろう、布地には人の皮脂の匂いと、歳月の匂いだけが染み付いている。だが、弥一の鼻は、その奥に眠る、分子レベルの残滓を捉えた。

それは、彼がこれまで嗅いだことのない香りだった。

甘く、そして苦い。心が落ち着くような、それでいて胸が締め付けられるような。伽羅にも似た深みがあるが、もっと乾いていて、儚い。まるで、遠い記憶そのものが香になったような、不思議な芳香だった。

「……これは、難しい。ほとんど香りは飛んでいる」

「承知しております。ですが、あなた様ならば、と。亡き主が、生涯肌身離さず持っておられたもの。主が愛したこの『忘れ香』の正体を知りたいのです。報酬は、お望みのままに」

亡き主。忘れ香。弥一の心に、香師としての好奇心が疼いた。この捉えどころのない香りの正体を突き止めたい。そして、破格の報酬は、彼の困窮した暮らしには抗いがたい魅力だった。

「……お引き受けしましょう。ただし、時をいただきます」

「お待ちいたします。幾年でも」

女は深く頭を下げると、手付金としてずしりと重い巾着を置き、雨音に紛れるように去っていった。

残された弥一は、再び香袋に鼻を寄せた。微かな残り香が、彼の脳を直接揺さぶる。これは一体、何の香りだ? 彼の知らない香木か、それとも特殊な調合法か。この時、弥一はまだ知らなかった。この小さな香袋が、彼が蓋をしていた過去の扉をこじ開け、その運命を大きく揺り動かすことになるということを。

第二章 記憶の迷路

弥一の孤独な戦いが始まった。作業場には、薬研や乳鉢、そして彼の全財産である数十種の香木や香料が並ぶ。彼はまず、香りの構成要素を分解することから始めた。

基調となっているのは、間違いなく最上の白檀。インドのマイソール産であろう、甘くまろやかな香りが核をなしている。そこに、龍涎香の動物的な甘さと、沈香の苦みが複雑に絡み合っている。だが、それだけではない。何度試しても、あの「忘れ香」の持つ、乾いた切なさが再現できなかった。

弥一は寝食を忘れ、調香に没頭した。丁子、桂皮、甘松、安息香。考えうる全ての組み合わせを試した。香を焚いては消し、また別の配合を試す。部屋は芳香で満たされ、現実との境が曖昧になっていく。香りの煙は、彼の記憶の奥底にしまい込んだ景色を呼び覚ました。

かつて、彼は武家の嫡男だった。父は清廉な文官で、膨大な書物を集めた書庫を何よりの誇りとしていた。幼い弥一にとって、その書庫は世界の全てだった。古い紙の匂い、墨の匂い、父の焚く白檀の香り。それが、彼の幸福の記憶だった。しかし、その幸福は、政敵の罠によって一夜にして灰燼に帰した。父は無実の罪を着せられて切腹。家は取り潰され、弥一は全てを失った。

依頼から一月が過ぎた頃、弥一は調査のために、依頼主の「亡き主」について調べ始めた。女中の言葉遣いや、香袋の上質さから、かなりの高位の武士であることは想像がついた。そして、突き止めた名前に、弥一は凍りついた。

大目付、榊原左衛門督(さかきばらさえもんのかみ)。

十年前に亡くなったその男こそ、弥一の父を陥れた張本人だった。全身の血が逆流するような感覚に襲われる。憎い、憎い、あの男が愛した香りだと? なぜ、よりにもよって自分が、仇の愛した香りを再現せねばならないのか。

怒りと憎悪で、彼の嗅覚は鈍った。何を調合しても、ただ不快な匂いにしか感じられない。弥一は香袋を土間に叩きつけようとした。だが、その寸前、彼の指が香袋の布地に触れた瞬間、再びあの香りが微かに鼻を掠めた。

憎しみを超えて、香師としての魂が叫んでいた。この香りの正体を知りたい、と。

弥一は心を落ち着け、もう一度、神経の全てを鼻先に集中させた。そうだ、何かを見落としている。これは、植物や動物から採れる香料だけではない。もっと別の、何かだ。それは、懐かしさに似ていた。彼の幸福だった日々の記憶と、どこかで繋がっているような……。

彼は香袋を注意深く揉んだ。すると、布地の織り目の間から、ほとんど塵に近い、黒く微細な粒子がこぼれ落ちた。彼はそれを指先に取り、注意深く鼻に近づける。

その瞬間、弥一の脳裏に、鮮烈な光景が広がった。

炎。夜空を焦がす、紅蓮の炎。そして、その中で燃え盛る、数えきれないほどの書物。

第三章 灰燼の真実

それは、焦げた紙と、熱で変質した墨の匂いだった。

弥一は愕然とした。そうだ、これだ。この乾いた、物悲しい香りの正体は。榊原が愛した「忘れ香」とは、自然界に存在するものではなかった。それは、人の手によって生み出され、そして炎によって失われたもの――燃えた書物の香りだったのだ。

全ての辻褄が合った。榊原は、弥一の父を追い落とすために、その誇りであった書庫に火を放ち、それを父の罪とした。数万巻の書物が、一夜にして灰と化した。榊原はその罪によって大目付にまでのし上がった。だが、彼はその罪の証拠を、あるいは、彼自身が葬り去った知識の残骸を、この香袋に封じ込めていたのではないか。

彼は、自分が焼き払った書庫の焼け跡から、燃え残った紙片か、灰を持ち帰ったのだ。そしてそれを、極上の香木と共に懐に入れ、生涯持ち歩いていた。それは、罪悪感の表れだったのか。それとも、失われたものへの、歪んだ愛着だったのか。

弥一の胸に、憎しみとは異なる、複雑な感情が渦巻いた。あの冷酷無比な権力者が、自らの罪の香りを、密かに嗅ぎ続けていたというのか。それは、想像を絶する孤独であり、終わらない地獄ではなかったか。

弥一は、もはや榊原の依頼としてではなく、一人の香師として、この香りを完成させねばならないと感じていた。それは、失われた父のためでもあり、罪に苛まれ続けた男の魂のためでもあり、そして、過去に囚われた自分自身を解き放つための儀式でもあった。

彼は、上質な和紙を carefully選び、備長炭の熾火で、焦げる寸前まで丹念に焙った。香ばしくも物悲しい、独特の香りが立ち上る。次に、古墨を乳鉢で丁寧にすり潰し、微粉末にする。

そして、それらを絶妙な比率で、基調となる白檀、沈香、龍涎香に混ぜ合わせた。

最後に、全ての香料を蜜で練り合わせ、小さな丸薬状の「煉香(ねりこう)」を作り上げた。

それを香炉の灰に埋め、ゆっくりと熱する。

やがて、一筋の煙が立ち上った。

それは、まさしく「忘れ香」だった。

白檀の甘い香りが心を鎮め、沈香の苦みが人生の深さを語りかける。そして、その奥から、焦げた紙と墨の、乾いた切ない香りが立ち上り、嗅ぐ者の胸にある喪失の記憶を優しく撫でる。それは、ただの香りではなかった。人の罪と、愛と、悔恨の全てを内包した、魂の香りだった。

弥一は、その香りを嗅ぎながら、静かに涙を流した。父を失って以来、初めて流す涙だった。それは、憎しみの涙ではなく、赦しでもない、ただ、人の世のどうしようもない哀しみを理解した涙だった。

第四章 心に焚く香

数日後、弥一は完成した煉香を携え、指定された料亭へと向かった。通された一室には、あの女中が一人、静かに座っていた。彼女は編笠を外し、弥一に深く頭を下げた。年の頃は二十代半ば、気品のある顔立ちには、憂いの色が深く刻まれている。

「お待ちしておりました。私が、榊原琴音(ことね)にございます」

彼女は、榊原左衛門督の一人娘だった。

弥一は黙って煉香の入った小箱を差し出した。琴音はそれを受け取ると、持参した小さな香炉で、一粒を焚いた。

やがて、部屋にあの香りが満ちていく。

琴音は目を閉じ、その香りを深く吸い込んだ。彼女の白い頬を、一筋の涙が伝った。

「…ああ、父の香りです。書斎にこもっていた父の衣から、いつもこの香りがしておりました」

彼女の声は震えていた。

「私は、父を冷酷で、権力欲しかない人間だと思っておりました。他者を蹴落とし、顧みることもしない、と。…ですが、この香りは…あまりに、哀しい」

「榊原様は、生涯、何かを悼んでおられたのでしょう」

弥一は静かに言った。もはや彼の声に、憎しみの棘はなかった。

「これは、失われたものへの香り。そして、犯した罪の香りです。おそらく、私の父上の…書庫の」

その言葉に、琴音ははっと顔を上げた。彼女の目に驚きと苦悶の色が浮かぶ。

「あなた様は…もしや、秋月家の…」

弥一は静かに頷いた。二人の間に、重い沈黙が流れる。加害者の娘と、被害者の息子。だが、立ち上る香りは、その垣根を静かに溶かしていくようだった。

「父は、あなた様のお父上の学識を、深く尊敬しておりました」

琴音が絞り出すように言った。

「父の遺品を整理しておりましたら、一冊の日記が。そこには、秋月殿を陥れたことへの後悔と、彼の蔵書を灰にしたことへの、生涯消えぬ悔いが綴られておりました。…父は、自分が葬った知識の幻影に、生涯苛まれていたのです」

そうだったのか。榊原は、弥一の父の才能を恐れ、そして同時に、誰よりもその価値を理解していたのだ。だからこそ、その罪の香りを手放せなかった。

弥一は、長年胸につかえていた黒い塊が、すっと消えていくのを感じた。憎しみは、対象を単純な悪としてしか見せなくする。だが、真実はもっと複雑で、哀しい色合いを帯びていた。香りは、言葉では伝えられない真実を、彼の心に直接語りかけてくれた。

「この香りの代金は、いただきません」

弥一は立ち上がりながら言った。

「私にとっても、これは過去を葬るための香りでしたので」

琴音は深く、深く頭を下げた。

「この御恩は、生涯忘れません。…あなた様は、ただ香りを再現したのではありません。父の魂を…そして、私の心をも、救ってくださいました」

店に戻った弥一は、自分のために一粒の香を焚いた。それは、あの「忘れ香」ではない。彼が新たに調合した、未来のための香りだった。夜明け前の森のような、澄み切った静かな香り。

香りは記憶を呼び覚まし、人の心を繋ぎ、そして時には、魂を鎮める。彼はもはや、過去の亡霊に苛まれるだけの男ではなかった。香りを道しるべに、人の心の奥深くを探求する、真の香師となったのだ。

窓の外では、江戸の町が新しい朝を迎えようとしていた。立ち上る一筋の煙は、夜明けの光に溶け込み、静かに空へと消えていった。

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