墨染めの紅葉

墨染めの紅葉

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第一章 褪せる紅色

絵師、桐谷伊織の銘は、江戸の色街から武家屋敷の奥方に至るまで、広く知れ渡っていた。彼が描く浮世絵、とりわけ美人画は、生身の女よりも艶めかしいと評判だった。その秘密は、匂い立つような色彩にあった。肌の柔らかな温もりを伝える薄曙色、濡れたような黒髪の光沢、そして何よりも、見る者の心を射抜く唇の紅色。伊織の使う紅は、ただの赤ではなかった。恋の熱情、束の間の逢瀬の儚さ、秘めたる意志の強さ、その全てを一枚の和紙の上に凝縮させたかのような、命を宿す赤だった。

その日も、伊織は版元から催促された美人画の仕上げに取りかかっていた。季節は秋。格子の向こうでは、冷たい雨がしきりに庭の苔を濡らしている。画室に満ちる墨と顔料の匂いの中、伊織は細面相の筆をとり、最後の仕上げである唇に紅を差そうとした。彼が特別に調合した、最上の紅花から採った濃縮された赤。それを筆に含ませ、そっと女の唇に触れさせた、その刹那。

伊織は息を呑んだ。

筆先の赤が、赤でなかった。それはまるで、血の気を失った病人の唇のような、生気のない鈍い灰色にしか見えなかった。

「……何だ?」

独り言が漏れる。手の震えを抑え、伊織はもう一度、顔料皿を覗き込んだ。皿の中の赤は、間違いなく燃えるような紅色をしている。しかし、それを筆ですくい上げ、白い和紙の上に置くと、たちまち色は生命力を吸い取られたようにくすみ、ただの染みに成り果ててしまう。

悪い冗談だ。伊織は何度も瞬きをし、眼をこすった。しかし、何度見ても結果は同じだった。彼の世界から、あの鮮烈な「赤」が抜け落ちていた。

この奇妙な現象は、伊織だけに起きたことではなかった。ここ数ヶ月、江戸の市中では不気味な噂が囁かれていた。「色喰い」と呼ばれる奇病。罹った者は、まず世界から特定の色を認識できなくなるという。ある者は空の青を失い、またある者は木々の緑を失う。そして病は、単に色彩感覚を奪うだけではなかった。青を失った者は希望を忘れ、緑を失った者は安らぎをなくす。色と共に、それに関連する感情や記憶までもが、薄皮を剥がすように失われていくのだという。

まさか、自分が。当代随一の色彩絵師と自負していた自分が、色を喰われる側に回るなど。伊織の背筋を、雨よりも冷たい汗が伝った。画中の女が、灰色の唇で彼を嘲笑っているように見えた。絵師としての生命、いや、桐谷伊織という人間の根幹そのものが、音を立てて崩れ始めていた。

第二章 彩なす少女

「色喰い」の治療法を求めて、伊織は憑かれたように江戸中を彷徨った。名医と名高い漢方医を訪ねても、得体の知れない病に首を振られるばかり。寺社に参籠し、神仏に祈っても、彼の眼に「赤」が戻ることはなかった。紅葉は色褪せた落ち葉に、夕焼けはただの薄暗い空にしか見えない。それに伴い、彼の内からも何かが失われていくのを感じていた。絵筆を握る情熱、新しい美を生み出す喜び、そういった燃え上がるような感情が、消し炭のように冷えていく。彼の描く絵から、かつての魂の輝きは急速に失われ、版元からの仕事も次第に途絶えていった。

絶望が伊織の心を墨のように染め上げていたある日、彼は不思議な噂を耳にする。柳橋のたもとに、あらゆる色をその身に宿したような少女がいる、と。その少女の周りだけは、世界が本来の色を取り戻しているかのように鮮やかに見えるのだという。藁にもすがる思いで、伊織は柳橋へと向かった。

柳の葉が風に揺れる川岸に、その少女はいた。年の頃は十か十一か。洗いざらしの簡素な着物を着ているにもかかわらず、その存在は異様なほどに周囲から浮き立っていた。まるで、彼女の周りだけが、極彩色の絵巻物の一場面であるかのようだった。少女が道端の石ころを拾い上げれば、それは瑠璃の輝きを放ち、彼女が空を見上げれば、伊織が失ったはずの突き抜けるような青が広がっているように錯覚した。

少女は小夜と名乗った。彼女の瞳は、吸い込まれそうなほどに深く、澄んでいた。そして、その瞳の中には、伊織が焦がれてやまない「赤」が、確かに宿っていた。熟した山査子のような、鮮やかな赤。

「お侍さん、何を探しているの?」

小夜は無垢な声で伊織に問いかけた。

「……色を、探している」

伊織はかすれた声で答えた。

「色なら、ここにあるよ」

小夜はそう言って、自分の胸を指さした。

伊織は、この少女に最後の希望を託した。彼は小夜の両親を説得し、彼女をモデルに一枚の絵を描かせてほしいと頼み込んだ。この少女を描ききることさえできれば、失われた色彩感覚を取り戻せるかもしれない。彼女の瞳に映る世界を、彼女が纏う鮮やかな空気を、和紙の上に写し取ることさえできれば――。

画室に小夜を招き入れ、伊織は再び筆を執った。不思議なことに、小夜がそこにいるだけで、彼の眼は一時的に色を取り戻すかのように感じられた。顔料皿の赤が、ほんのりと熱を帯びる。彼は夢中で描き始めた。小夜の澄んだ瞳、桜色の頬、そして、小さな唇に宿る、あの完璧な紅色を。絵筆が走るたび、伊織は失いかけていた高揚感を取り戻していった。これだ。この感覚だ。俺はまだ、描ける。

第三章 墨染めの紅葉

絵は、日を追うごとに完成に近づいていった。小夜の肖像画は、伊織の最高傑作になる予感がした。失われたはずの色彩が、彼の筆先から次々と溢れ出し、和紙の上で踊る。特に、小夜の着物の柄に描いた紅葉の赤は、燃え立つような生命力に満ちていた。伊織は、自分の才能が完全に蘇ったのだと信じた。

しかし、絵が完成に近づくにつれ、伊織は奇妙な変化に気づき始める。日に日に、小夜がやつれていくのだ。最初は気のせいかと思った。だが、あれほど鮮やかだった彼女の存在感は影を潜め、頬からは血の気が引き、何より、あの吸い込まれるようだった瞳の輝きが、明らかに翳ってきていた。

そして、運命の日が訪れる。伊織が最後の一筆、小夜の唇に紅を差そうとした、その時だった。画室の外から、悲鳴に近い人々の声が聞こえてきた。

「緑が……庭の松の緑が見えなくなった!」

「空が、空が灰色だ!」

近隣の家々から、次々と恐慌の声が上がる。「色喰い」が、この一帯で急速に蔓延していたのだ。

愕然とする伊織の目の前で、小夜がふらりとよろめいた。彼女の瞳は、もはや何の光も宿さない、濁った水たまりのようだった。そして、伊織は見てしまった。完成間近の肖像画――その絵の中の小夜だけが、まるで生きているかのように瑞々しく、鮮やかな色彩を放っているのを。

その瞬間、雷に打たれたように、伊織は全ての真実を悟った。

小夜は「色を宿す少女」などではなかった。彼女こそが「色喰い」の根源だったのだ。彼女は、生きるために、無意識のうちに周囲の世界から「色」とその根源にある生命力や感情を吸収していた。人々が色を失えば失うほど、彼女の存在は鮮やかになる。伊織が彼女の絵を描くという行為は、彼女のその力を増幅させ、より広範囲から、より強力に色を奪うための触媒となっていたのだ。彼が取り戻したと感じていた色彩は、全て、周囲の人々から奪い取ったものだった。彼の傑作は、無数の人々の絶望の上に成り立っていた。

「ああ……」

伊織の喉から、声にならない呻きが漏れた。彼は、己の芸術のために、世界をモノクロームに変えようとしていたのだ。絵師としての再生という欲望が、彼を最も唾棄すべき存在に変えてしまっていた。

画室に、重い沈黙が落ちる。色を吸い尽くされ、ぐったりと壁に寄りかかる小夜。彼女を収奪の道具として描き上げた、極彩色の肖像画。そして、その二つの間で立ち尽くす伊織。

彼はどうすべきか。このまま絵を完成させ、絵師としての栄光を取り戻すか。だが、その先にあるのは、感情も彩りも失われた、死んだ世界だ。あるいは、この絵を破り捨てるか。だが、それで失われた色が人々に戻る保証はない。

伊織は、ゆっくりと新しい和紙を広げた。そして、筆を取った。彼が描こうとしたのは、小夜の肖像画の続きではなかった。

彼は、目を閉じた。脳裏に、かつて見た故郷の山の、燃えるような紅葉を思い浮かべる。父に連れられて見た、空を焦がすほどの赤。美しいものを見て心が震えるという、原初の感動。彼がまだ、純粋に絵を描くことを愛していた頃の記憶。

それは、彼の中に残された、最後の「赤」だった。

伊織は、その記憶の全てを、魂の全てを、筆先に込めた。顔料皿の赤ではない。彼の血を、情熱を、命そのものを絞り出し、和紙の上に叩きつけるように描いていく。一枚、また一枚と、狂ったように紅葉を描き続けた。

そして、最後の一枚を描き上げた瞬間。

ぷつり、と。伊織の中で何かが切れる音がした。目を開けると、彼の世界から「赤」という色が、今度こそ完全に消え失せていた。夕焼けも、血も、炎も、唇も、全てが等しく深浅の異なる灰色になった。そして、赤色に結びついていた情熱や激しい感情も、凪いだ海のように静まっていた。

彼は、絵師として最も重要な色を、自らの意志で永遠に手放したのだ。

呆然とする伊織の視界の隅で、小さなうめき声がした。見ると、壁際に座り込んでいた小夜が、伊織の描いた紅葉の絵をじっと見つめていた。そして、その虚ろだった瞳から、一筋、透明な雫がこぼれ落ちた。

その雫は、頬を伝い、顎の先で、ぽたりと小さな紅い宝石のようにきらめいた。

それは、他人から奪った色ではない。小夜が、美しいものを見て感動し、自らの内側から生み出した、初めての「赤」だった。

伊織は、全てを失った。だが、その喪失と引き換えに、彼は世界に一つの本物の彩りを灯すきっかけを作ったのかもしれない。

彼は静かに立ち上がると、墨をする。もう、彼の絵に鮮やかな色が戻ることはない。しかし、彼の心は不思議なほどに澄み渡っていた。色を失った世界で、墨の濃淡と線の強弱だけで、魂の真実を描く。それが、新しい桐谷伊織の道だった。

格子の向こうでは、いつの間にか雨が上がっていた。灰色の空の下、灰色の葉をつけた木々が、静かに風に揺れていた。それは寂しい光景のはずなのに、伊織の眼には、なぜか世界が今までで最も美しく、尊いものに映っていた。

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