彩なき絵師と白紙の乙女

彩なき絵師と白紙の乙女

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第一章 緋色の凶兆

狩野派の末席を汚す若き絵師、橘宗次郎の世界から色彩が消え失せたのは、蝉時雨が容赦なく降り注ぐ夏の日のことだった。きっかけは、些細なことだった。師からその才を妬まれ、完成間近だった大寺院の襖絵を目の前で汚された。激昂し、師を突き飛ばした。その瞬間、ぷつりと糸が切れるように、宗次郎の視界からあらゆる色が抜け落ちていったのだ。

金碧障壁画の絢爛たる金色も、庭に咲き誇る百日紅の燃えるような赤も、雨上がりの空を渡る虹の七色さえも、すべてが墨で描いた濃淡の世界に成り果てた。絵師にとって、色を失うことは死を意味する。絶望した宗次郎は画室に籠もり、愛用の筆をすべてへし折った。

だが、彼の眼に映る世界は、完全な水墨画になったわけではなかった。色の代わりに、奇妙なものが視えるようになったのだ。人の体、その中心から立ち上る、ゆらりとした陽炎のような「色」。それは人によって異なり、ある者は淡い水色、ある者は若葉のような萌黄色をしていた。

その「色」の意味を、宗次郎はまだ知らなかった。ただ、言いようのない不安と恐怖に駆られ、彼は江戸の喧騒から逃れるように、深川の裏寂れた長屋に身を潜めた。

ある日の夕暮れ、銭湯からの帰り道だった。橋のたもとで、二人の侍が斬り合いを演じていた。野次馬に混じり、宗次郎も足を止める。一方の侍の体からは、これまで見たこともないほど鮮烈な、燃え盛る炎のような緋色が立ち上っていた。その色が、まるで命の叫びのように明滅する。

次の瞬間、甲高い金属音と共に、緋色の侍の体から鮮血が噴き上がった。彼は崩れ落ち、その体から立ち上っていた緋色は、蝋燭の火が消えるように、ふっと掻き消えた。

宗次郎は全身の血が凍るのを感じた。理解してしまったのだ。あれは、人の命の残り火。その人間が持つ、残された時間の「色」なのだと。水色や萌黄色の者は、まだ多くの時を残している。そして、燃えるような緋色は、間近に迫った死の凶兆。

己の眼は、呪われている。宗次郎は長屋に逃げ帰り、布団にくるまって震えた。絵筆を折ってなお、自分は人の命と死という、決して描いてはならぬものを見せつけられる。この呪われた眼で、これ以上何を見ろというのか。世界は、彼にとってただの無機質な濃淡と、死へ向かう人々の悲しい道行きを示す、残酷な舞台装置でしかなかった。

第二章 無垢なる白

命の色に怯える日々が続いた。宗次郎は人と目を合わせることを避け、夜の闇に紛れてわずかな食料を買いに出るだけの、影のような暮らしを送っていた。誰もが持つ命の色は、彼にとって耐えがたい重荷だった。長寿を示す青白い光でさえ、いずれは消えゆく運命を突きつけてくるようで、目を背けずにはいられなかった。

そんなある月夜の晩、宗次郎は信じられない光景を目の当たりにする。

行きつけの古びた社の境内で、一人の娘が静かに佇んでいた。年の頃は十六、七だろうか。月明かりに照らされたその白い着物は、まるで闇に浮かぶ睡蓮のようだった。だが、宗次郎が息を呑んだのは、その美しさ故ではない。

彼女には、「色」がなかった。

命の残り火を示す、あの陽炎のような色が、彼女の体からは一切立ち上っていなかったのだ。それは、死んでいるということとも違う。死者の体からは、色はただ消え失せるだけだ。しかしこの娘は、まるで最初から色が与えられていないかのように、完全な「無」だった。

宗次-郎の世界の理を根底から覆す存在。彼は恐怖よりも強い好奇心に引かれ、思わず声をかけていた。

「そなた…、名は何と申す」

娘はゆっくりと振り返った。大きな瞳は、夜の湖面のように静かで、何の感情も映していない。

「…名。わたしには、ありません」

か細く、抑揚のない声だった。記憶を失っているのか、あるいは……。

「では、仮に『白(はく)』と呼んでもよいか。その着物のように、真っ白だから」

娘はこくりと頷いた。

宗次郎は、行くあてがないという白を、長屋に連れ帰った。呪われた眼を持つ自分にとって、彼女の「無色」は唯一の安息だった。彼女の隣にいる時だけ、宗次郎は人の死を意識せずに済んだ。

白は奇妙な娘だった。喜ぶことも、悲しむこともしない。ただ、宗次郎のやることを、じっと目で追うだけ。だが、彼女のその静かな眼差しは、不思議と宗次郎の心を和ませた。彼は、折ったはずの絵筆の代わりに、柳の枝を削り、炭で彼女の似顔絵を描き始めた。

描いている間、宗次郎は忘れかけていた歓びが胸の奥から湧き上がってくるのを感じた。色が見えなくとも、この世には描くべき美しいものがまだ残っていた。白の滑らかな輪郭、長い睫毛の落とす影、風に揺れる黒髪。それらを紙に写し取っていく作業は、彼の乾ききった心に潤いを与えた。

しかし、穏やかな日々は長くは続かなかった。ある日、黒装束の男たちが長屋に押し入ってきたのだ。彼らは白を見るなり、こう言った。

「見つけたぞ、『無色の器』。おとなしく我らと共に来い」

宗次郎は咄嗟に白を庇う。男たちは構わず斬りかかってきた。その時、宗次郎は見た。男たちの体から立ち上る色が、どす黒く濁った紫色をしていることに。それは、強い殺意と邪念の色だった。

第三章 画家の業、人形の涙

絶体絶命だった。宗次郎は絵師であり、刀などろくに扱えない。男の一人が振り下ろした刃が、白に届こうとしたその刹那、信じられないことが起きた。

白の小さな体が、常人ではありえない俊敏さで動き、男の腕を掴んだ。そして、まるで細い枝でも折るかのように、軽々とその腕を捻り上げたのだ。男の苦悶の叫びが響き渡る。他の男たちが驚愕に動きを止めた隙に、宗次郎は白の手を引いて長屋を飛び出した。

夜の江戸を、二人はひたすら走った。追手の罵声が背後から聞こえる。なぜ、あの非力に見えた白に、あのような力が。彼女は一体何者なのだ。

夜明け近く、二人が廃寺に身を隠していると、追いついてきた男たちの一人が嘲るように言った。

「絵師風情が、あの『白紙』をどうするつもりだ。あれは人間ではない。高名な絵師、橘宗次郎が己の魂を削って描いた絵から生まれた、ただの人形よ」

宗次郎の頭を、雷が撃ち抜いたような衝撃が走った。

橘宗次郎。それは、色を失う前の、自分の名前。

白紙の人形。

そうだ、思い出した。色を失うあの日、自分は狂気的な集中力で一枚の絵を完成させていた。この世の誰よりも美しい、理想の乙女の絵を。「どうか、この絵に魂が宿らんことを。真実を見通す、この世の理を超えた存在とならんことを」。そう、強く、強く願った。そして、自分の血を絵具に混ぜ、最後の瞳を描き入れたのだ。

あの時、自分は絵に魂だけでなく、己の「色彩を認識する力」と「命そのもの」の一部を分け与えてしまったのだ。その代償として、自分は色を失い、代わりに人の「命の色」を見る呪われた眼を得た。そして、絵から抜け出したのが、白。彼女が「無色」なのは、彼女がまだ何も描かれていない「白紙」の画布だから。彼女が感情を持たないのは、まだ誰も彼女に感情という「色」を与えていないから。

「その人形は、持ち主の願いを写し取る『器』。我らが主は、その器に『不老不死』という願いを書き込み、この世を支配するおつもりだ。お前が込めた中途半端な願いが、それを邪魔している」

男は刀を構え、にじり寄ってくる。

「お前の命を絶ち、人形との繋がりを断てば、あれは完全な『白紙』に戻る。さあ、大人しく死ね」

すべてが繋がった。自分の絵師としての業が、白という存在を生み、そしてこの事態を招いた。宗次郎は、震える白の手を強く握った。彼女の瞳が、初めて不安げに揺れているように見えた。それは、宗次郎の恐怖が彼女に伝わったからだろうか。

「白は…白は、人形などではない。俺が…俺が生んだ、大切な…」

言葉が続かなかった。だが、決意は固まった。この娘を、道具になどさせてなるものか。俺が描いたのだ。ならば、俺が完成させなければならない。

第四章 君に贈る色

宗次郎は、追手から逃れ、かつて自分が使っていた人里離れたアトリエに辿り着いた。そこには、一枚の大きな画布が残されていた。中央に、まだ輪郭だけの乙女が描かれている。白が抜け出した後の、あの絵だ。

「白、ここに座ってくれ」

宗次郎は、懐から小さな小刀と、たった一本だけ残しておいた面相筆を取り出した。彼は迷わず自分の指先を切り、滲み出た血を硯で墨と混ぜ合わせる。

「宗次郎…?」

白が、初めて彼の名を呼んだ。その声には、僅かながら戸惑いの色が混じっていた。

「今から、君の絵を完成させる。君に、君だけの色を与える」

宗次郎は筆を手に取ると、白に向かって微笑んだ。彼の体からは、淡く、しかし確かな光を放つ青白い命の色が立ち上っていた。しかし彼は知っていた。これから自分が為そうとすることは、その命の光をすべて絵筆に注ぎ込むことに他ならない。

彼は描き始めた。

白の髪に、濡れたような艶やかな黒を。

白の唇に、血の通った柔らかな朱を。

白の頬に、恥じらうような薄紅を。

筆を動かすたびに、宗次郎の体から立ち上る命の色が、すうっと画布に吸い込まれていく。視界が霞み、呼吸が苦しくなる。だが、彼の筆は止まらない。彼は、自分の記憶の中にある、失われたすべての色彩を呼び覚まし、白に与えていった。桜並木の淡い桃色。初夏の木漏れ日の緑。澄み渡る秋空の青。雪解け水がきらめく光。

そして、最後に瞳を描き入れる。彼は、そこに自分の魂のすべてを込めた。

「君には、自由に笑ってほしい。泣きたい時には、泣いてほしい。君だけの人生という名の絵を、君自身の色で描いていってほしい」

最後のひと筆を置き、宗次郎は崩れるように床に倒れた。

その瞬間、彼の世界に、奇跡が起きた。

色だ。

色が見える。

煤けたアトリエの壁も、古びた畳の目も、窓から差し込む月光も、すべてが本来の豊かな色彩を取り戻していた。呪われた「命の色」はもう見えない。ただ、ありのままの世界が、そこにはあった。

彼の目に最後に映ったのは、画布からゆっくりと歩み出てくる、白の姿だった。

いや、もう彼女は白ではない。生き生きとした色彩をその身に宿し、豊かな表情を浮かべた一人の娘だった。彼女の大きな瞳から、ぽろり、と一粒の涙がこぼれ落ちた。それは、悲しみの色をしていた。

「宗次郎…さま…」

娘は、彼の冷たくなっていく手を握りしめ、嗚咽した。初めて己の意志で流す、温かい涙だった。

宗次郎は、その涙の色を、そして愛しい者の顔を、色彩に満ちた世界を目に焼き付けながら、静かに息を引き取った。彼の顔には、満足げな、穏やかな笑みが浮かんでいた。

絵師は死んだ。しかし、彼が命を懸けて描いた最高傑作は、今、生を受けた。

娘は、彼が与えてくれた「命」と「色」を胸に、夜が明けた世界へと、独り、歩き出す。彼女の未来という画布は、まだ真っ白だ。これからどんな色がそこに描かれていくのか、それは彼女自身にしか分からない。

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