第一章 無色の転校生
私の通う私立彩陵学園では、感情は隠すものではなく、美しく見せるものだった。ここでは、人の感情はオーラのような淡い「色」として、誰もが視認できる。喜びは陽だまりのような黄色に、安らぎは若葉のような緑に、そして恋心は桜貝のような淡いピンクに。生徒たちは皆、幼い頃から感情をコントロールする訓練を受け、その色彩を洗練されたパステルカラーに保つことを一種のステータスとしていた。濁った赤や淀んだ灰色は、品位に欠ける野蛮な色として忌み嫌われた。
そんな色彩豊かな世界で、私は息を潜めるように生きていた。水瀬 碧(みなせ あおい)。私の感情は、深く、そして鮮やかすぎる「碧色」だった。少し感動しただけで群青のインクをぶちまけたように色が濃くなり、少し悲しめば深海のように沈んだ藍色になる。他人の淡い色彩と交わると、私の色だけが悪目立ちしてしまう。だから私は、できるだけ感情を殺し、人との関わりを避け、自分の色を誰にも見られないように、灰色のパーカーのフードを深く被って過ごしていた。自分の名前ですら、この強すぎる色を象徴しているようで、呪いのように感じていた。
その日、教室は新学期特有の柔らかな期待の色で満たされていた。淡いオレンジやクリーム色がそこかしこで揺らめいている。そんな中、担任に連れられて入ってきた転校生を見た瞬間、私は息を呑んだ。
彼には、色がなかった。
文字通り、何の色も。まるで、そこにいるはずの人間のかたちに切り抜かれた、透明なガラスのようだった。彼の周囲だけ、世界の彩度がふっと落ち、音が消えるような錯覚に陥る。生徒たちの好奇の視線が放つ様々な色の粒子が、彼に届く前に霧散していく。ざわめきが放っていた薄い黄色のオーラが、彼の前でだけ白く褪せていく。
「月城 朔(つきしろ さく)君だ。みんな、仲良くしてあげてくれ」
月城朔と名乗った彼は、表情一つ変えずに頭を下げた。色素の薄い髪がさらりと揺れる。その無機質な様に、教室を満たしていた期待の色は、戸惑いのラベンダー色へと静かに移り変わっていった。彼は、この色彩の世界における、完全なエラーであり、異物だった。そして私は、その空っぽの存在に、どうしようもなく心を奪われてしまったのだ。
第二章 褪せる世界とカンバスの色
月城朔は、学園の誰とも交わろうとしなかった。いや、できなかったのかもしれない。誰もが彼を遠巻きにした。彼に近づくと、自分の感情の色が薄まっていくような、奇妙な喪失感に襲われるからだ。それはまるで、自分の存在が少しずつ希薄になっていくような、本能的な恐怖を伴う感覚だった。
それでも私は、彼から目が離せなかった。放課後、彼が古い美術準備室へ入っていくのを見かけた。好奇心に抗えず、そっと扉の隙間から中を覗き込む。西日が差し込む埃っぽい部屋の中、彼はイーゼルに向かい、一心不乱に筆を動かしていた。
そして、私は再び息を呑んだ。
彼が描くカンバスは、色彩の洪水だった。燃えるような赤、深く澄んだ青、生命力に満ちた緑。そこには、この学園の誰もが見せたことのない、生の感情が叩きつけられていた。色を持たないはずの彼が、誰よりも鮮烈な色を生み出している。その矛盾が、私の心を激しく揺さぶった。
「……誰?」
私の気配に気づいた彼が振り向く。その瞳は、やはり何も映さない、静かな湖面のようだった。
「ご、ごめんなさい。あまりに絵が綺麗だったから……」
フードで顔を隠しながら呟くと、彼は少しだけ目を伏せた。「綺麗かな。僕には、色が見えないんだ」
「え……?」
「物体の色はわかる。空は青いし、ポストは赤い。でも、君たちが話している『感情の色』っていうのが、僕には全く見えない。だから、想像で描いてるだけなんだ。みんなが『嬉しい時は黄色い』って言うから、僕なりに『黄色い嬉しい』を想像して。怒りは赤、悲しみは青。ただ、それだけ」
彼の言葉は、私の胸にずしりと重く響いた。彼は、私たちが当たり前に享受している色彩の世界から、たった一人だけ隔絶されていたのだ。彼の孤独を思った。そして、彼が描く鮮やかな絵は、彼がどれほど色を渇望しているかの証明のように思えた。
その日を境に、私たちは少しずつ言葉を交わすようになった。美術準備室は、二人だけの秘密の場所になった。私は彼に、様々な感情の色について話した。夕焼けの空を見た時の、オレンジと紫が混じり合う切ない色。子猫に触れた時の、綿毛のように柔らかいクリーム色。彼は私の話を、まるで初めて聴く音楽に耳を澄ませるように、静かに聞いていた。
彼と一緒にいると、不思議と私の心は凪いだ。いつもは暴れ出す私の「碧色」が、彼の隣では穏やかな浅瀬の色になる。自分の色が薄まる恐怖よりも、彼に受け入れられているような安らぎが勝っていた。私はいつしか、フードを脱いで彼と話すようになっていた。
第三章 白の氾濫
学園祭の準備が佳境に入った日、事件は起きた。体育館で、ステージの巨大な背景画が落下し、下敷きになりかけた生徒を庇って、数名が怪我を負ったのだ。幸い軽傷だったが、その瞬間、体育館はパニックに陥った。
恐怖と驚愕の濁った赤。非難と怒りのどす黒い紫。不安の滲んだ灰色。制御を失った感情の色が爆発的に広がり、互いに混じり合い、汚泥のようなおぞましい色彩となって空間を埋め尽くした。強すぎる負の感情の奔流に当てられ、生徒たちは次々と気分を悪くし、その場にうずくまっていく。私も、他人の感情の津波に飲み込まれ、立っているのがやっとだった。私の碧色も、濁流に揉まれて黒く淀んでいく。
そのカオスの中心で、月城朔だけが、平然と立っていた。
いや、平然とはしていなかった。彼は苦しげに胸を押さえ、額には汗が滲んでいた。しかし、彼の周りだけは、相変わらず無色透明のままだった。そして、私は信じられない光景を目にする。
彼が、倒れそうになった生徒の腕を掴んだ。その瞬間、生徒から立ち昇っていた濁った赤色が、すぅっと彼の手の中に吸い込まれていく。そして、跡形もなく消えた。生徒の表情から苦悶が消え、代わりに虚ろな色が浮かぶ。朔は、まるで濁った水を浄化するように、次々と生徒たちの負の感情を吸い上げていった。触れた場所から、色が「白く」漂白されていく。
そこで私は、真実に気づいてしまった。
彼は「色を持たない」のではなかった。「全ての色を吸収し、無に還す」存在だったのだ。彼が私の隣で穏やかでいられたのは、彼が無意識に私の強すぎる色を吸い取り、中和してくれていたからだ。この学園の感情のバランスが奇跡的に保たれていたのも、彼という「浄化装置」がいたからだった。
だが、今日のパニックは、彼の許容量を遥かに超えていた。
「う……ぁ……」
朔の口から、呻き声が漏れた。彼の身体が、内側から発光するように淡く白んでいく。吸収しきれなくなった感情の色が、彼の内部で飽和し、暴走を始めていた。彼が吸収した、怒り、悲しみ、憎しみ、その全てが奔流となって、彼の精神を破壊しようとしていた。彼が描いていたあの鮮烈な絵は、彼が内に溜め込んだ、誰かの感情の叫びだったのだ。
「月城くん……!」
私の声に反応して、彼が顔を上げた。その瞳は、もはや静かな湖面ではなかった。吸収した無数の感情が渦を巻き、底なしの嵐が吹き荒れていた。彼の足元から、純白の亀裂が走り、触れた床の色を次々と消していく。白の氾濫。それは、全ての感情の死を意味していた。
第四章 君と僕の、はじまりの色
生徒たちの悲鳴が遠のいていく。誰もが、あの純白の侵食から逃れようと必死だった。全ての色が消え、感情が消え、心が空っぽになる恐怖。その中で、私は一歩も動けなかった。
怖い。彼に触れれば、私の色も、私の心も、全て吸い尽くされて白紙になってしまうかもしれない。それでも。
私は、彼が一人で苦しんでいる姿を見ていられなかった。彼が、誰かの感情のゴミ箱のように、一人で全てを背負っているのが許せなかった。彼が渇望した「色」が、今、彼自身を破壊している。
私は走った。白く染まっていく世界を逆走するように、嵐の中心にいる彼に向かって。
「水瀬さん、来るな!」
彼の悲痛な叫びが聞こえる。だが、私は止まらない。恐怖で足が竦む。自分の碧色が恐怖に染まり、黒ずんでいくのが分かる。でも、その奥で、確かな想いが燃えていた。
彼を、助けたい。
彼の目の前で立ち止まり、震える両手を伸ばして、彼の頬に触れた。瞬間、凄まじい勢いで私の感情が吸い取られていくのが分かった。頭が真っ白になり、意識が遠のきそうになる。
違う。これじゃない。吸収されるだけじゃダメだ。
私は目を閉じ、心の奥深くに意識を集中させた。いつもは忌み嫌っていた、自分の感情の源泉へ。深く、深く潜っていく。そこには、静かに揺蕩う、広大な「碧」の世界が広がっていた。それは、私のコンプレックスの源であり、同時に、私そのものだった。
――この色を、彼にあげよう。
私は目を見開いた。そして、ただ吸い取られるのではなく、自らの意思で、私の全てである「碧色」を彼の中に注ぎ込んだ。朔への戸惑いも、憐れみも、友情も、そして、その奥で密かに芽生えていた淡い恋心も。私のありったけの感情を乗せた奔流が、彼の白い世界へと流れ込んでいく。
「――っ!」
朔の身体が大きく跳ねた。彼の内側で荒れ狂っていた濁流が、私の碧色とぶつかり、混じり合い、そして、次第に鎮まっていく。まるで、濁った水に一滴の浄化剤を落としたように。
やがて、体育館を覆っていた白の氾濫が、潮が引くように収まっていった。生徒たちのオーラも、元の淡い色彩を取り戻し、皆、何が起きたか分からずに呆然としている。
私の目の前で、朔がゆっくりと膝から崩れ落ちた。私は慌ててその身体を支える。彼の頬に触れると、もう感情を吸い取られる感覚はなかった。
そっと顔を覗き込むと、彼の瞳に、今まで見たことのない色が灯っていた。それは、私の色と同じ、静かで、どこまでも澄んだ「碧色」だった。
数日後、私と朔は、二人きりで屋上にいた。あの日以来、学園は落ち着きを取り戻したが、朔の体質は変わらない。しかし、彼はもう、無意識に他人の色を吸収することはなくなった。自分の意思で、その力を制御できるようになったのだ。
「まだ、みんなの色は見えないんだ」
朔が、フェンスの向こうの空を見つめながら言った。
「でも、分かるんだ。君が隣にいると、僕の中に、この温かい色が灯るのが」
そう言って、彼は自分の胸にそっと手を当てた。彼にはまだ、世界の色彩は見えない。けれど、彼の内側には、生まれて初めての「自分の色」が宿っていた。私が与えた、碧色が。
「一つあれば、十分だよ」と私は微笑んだ。「これから、二人で増やしていけばいい。世界の色って、きっと、一人のものじゃないんだ。誰かと出会って、心を交わして、初めて生まれるものなんだよ」
私の言葉に、朔が小さく頷いた。彼の瞳に宿る碧色が、夕陽を受けてきらりと輝く。
私の大嫌いだったこの色は、彼と出会って、初めて「はじまりの色」になった。私たちは、まだ彩りのない世界にいるのかもしれない。でも、たった一つの確かな色を分かち合った今、ここから、私たちの物語が、世界が、色づいていくのだと、確信していた。