第一章 無価値な僕と、至福の君
私立翠星学園では、感情が通貨だった。
喜び、悲しみ、怒り、驚き。あらゆる心の揺らぎは、首筋に埋め込まれたマイクロチップによって微小な結晶体『エモニウム』として抽出され、個人の口座に振り込まれる。高揚感や恍惚といった希少な感情は高値で取引され、退屈や平穏は最低ランクの価値しか持たない。ここでは、感情豊かな者が富み、僕のように感情の起伏に乏しい人間は、常に貧困に喘いでいた。
昼休み、僕は学食の隅で、昨日一日かけて貯めた『平穏』の結晶数グラムで手に入れた、味気ない合成パンをかじっていた。周囲のテーブルでは、生徒たちが『期待』で買ったランチセットや、『歓喜』を支払って手に入れたデザートを囲み、弾けるような笑い声を上げている。その笑い声すら、彼らにとっては新たな『愉快』のエモニウムを生み出す元手なのだ。僕には、そのサイクルがひどく息苦しく、そして遠い世界のことのように感じられた。
感情を節約するため、僕はできるだけ心を動かさないように生きてきた。本を読んでも感動せず、美しい景色を見ても心を閉ざす。その結果、僕の口座残高は常に底をつきかけていたが、同時に、誰にも奪われない静かな内面の世界を守ることができた。それでいい、とずっと思っていた。
「ねえ、君」
不意に、頭上から鈴を転がすような声が降ってきた。顔を上げると、そこに立っていたのは天音響(あまねひびき)だった。艶やかな黒髪、星屑を閉じ込めたような瞳。彼女は、学園で最も豊かとされる生徒だった。彼女が歩くだけで、周囲の生徒たちの『憧憬』や『嫉妬』の感情が渦巻き、それがまた彼女の資産になる。まさに、この世界の頂点に立つ存在。
「君が、水瀬湊くん? いつも一人で、静かにしている子だって聞いて」
響はそう言うと、テーブルの上に小さな宝石のようなものを置いた。それは、虹色に輝く最高純度の『好奇心』のエモニウムだった。これ一つで、僕が一ヶ月かけて貯める『平穏』の何百倍もの価値がある。
「これ、あげる。だから、少しだけ君の話を聞かせて」
「……なぜ?」
僕の声は、自分でも驚くほど乾いていた。富める者が、僕のような貧しい人間に施しをすることはある。だが、それは大抵、『優越感』や『憐憫』といった感情を得るための投資だ。しかし、彼女の瞳には、そんな濁った色は見えなかった。ただ純粋な光だけが、僕を射抜いていた。
響はくすりと笑い、僕の向かいの席に腰を下ろした。カフェテリアの喧騒が、嘘のように遠のいていく。
「君の持ってる『静寂』って、どんな味がするのかなって思って。私の周りは、いつもうるさい感情でいっぱいだから」
彼女の言葉は、僕の心の硬い殻に、初めて小さなひびを入れた。僕がずっと無価値だと切り捨ててきたものが、この世界の頂点にいる彼女にとって、価値あるものだというのか。その矛盾が、僕の胸の奥で、経験したことのない微かな『戸惑い』という感情の結晶を、チリリ、と生み出していた。
第二章 偽物の輝きと、静寂の取引
その日から、響は昼休みになると僕の元へやってくるようになった。彼女はいつも、僕には到底手の届かない高価なエモニウムで買ったランチを二つ持ってきて、僕に一つを差し出した。『感謝』の感情が生まれるのを拒む僕に、彼女は「これは取引だから」と悪戯っぽく笑った。
「君の『静寂』な時間のおすそ分け。その対価だよ」
僕たちは、とりとめのない話をした。彼女は、華やかな世界の裏側にある退屈さについて語り、僕は、誰も知らない古書の物語を語った。彼女といると、不思議と心が凪いだ。僕が僕のままでいることを、彼女は肯定してくれているような気がした。
響は、僕の感情に興味津々だった。
「湊くんは、怒ったりしないの?」
「……コストに見合わない」
「じゃあ、すごく嬉しい時は?」
「嬉しいと感じそうになったら、深呼吸する。感情の浪費は避けたい」
僕の答えに、彼女はいつも少し寂しそうな顔をした。そして、自分の腕を僕に見せた。彼女の腕には、エモニウムの過剰な取引履歴を示す、電子インクの細かな模様がびっしりと浮かび上がっていた。それは富の象徴であり、多くの生徒の憧れの的だった。
「私ね、最近『至福』の味が分からなくなってきたの。たくさん買ってるはずなのに、心が満たされない。まるで、偽物の輝きみたい」
彼女の言葉に、僕は何も言えなかった。富める者の贅沢な悩みだと、切り捨てることもできた。しかし、彼女の瞳の奥に揺れる微かな翳りは、僕の心の奥底にある何かと共鳴するようだった。
そんな中、学園では奇妙な噂が広まっていた。一部の生徒が、どんなに心を揺さぶられる出来事に遭遇しても、一切のエモニウムを生成できなくなる『感情枯渇症』という病。それは、感情を浪費しすぎた者の末路だと囁かれていた。まるで、心そのものが燃え尽きてしまうかのように。
ある放課後、僕たちは夕陽が差し込む図書室にいた。響は、僕が読んでいた古い詩集を手に取り、その一節を静かに読み上げた。
「『心は泉にあらず、井戸なり。汲めども尽きぬ泉にあらず、汲み続ければいつか涸れる井戸なり』……だって」
夕陽が彼女の横顔を黄金色に染めていた。その表情は、僕が今まで見た中で最も美しく、そして最も儚げに見えた。僕は、自分の胸の奥で、これまで感じたことのない種類の、温かくも切ない感情が生まれ始めていることに気づいていた。それは『愛しさ』というにはまだ早く、だが『無関心』では断じてない、名前のない感情だった。この感情をエモニウムとして抽出されたくない。僕は強くそう思った。
第三章 砕け散るプリズム
学園祭の準備で、校内が浮き足立った熱気に包まれていたある日のことだった。事件は、突然起こった。クラスの出し物を決めるホームルームの最中、眩いほどの『期待』と『興奮』のエモニウムが飛び交う教室で、響が糸の切れた人形のように崩れ落ちたのだ。
悲鳴と混乱の中、僕は彼女のそばに駆け寄った。彼女の顔は青白く、呼吸は浅い。彼女の首筋にあるチップのインジケーターが、危険信号を示すように赤く点滅していた。
「感情残高、クリティカル……!」
誰かが叫んだ。すぐに医務室のスタッフが駆けつけ、彼女は担架で運ばれていった。呆然と立ち尽くす僕の足元に、彼女のカバンからこぼれ落ちた小さなケースが転がっていた。中には、色とりどりの最高級エモニウムがぎっしりと詰まっていた。しかし、その輝きは、まるでガラス玉のように空虚に見えた。
数日後、僕は響の入院している系列病院の特別室を訪れた。許可してくれたのは、彼女の両親だった。彼らはやつれた顔で、僕にすべてを話してくれた。
響は、生まれつき感情の起伏が極端に乏しい体質だった。言わば、先天性の『感情枯渇症』。この学園で生きていくために、彼女は幼い頃から、両親の財力で他人から購入したエモニウムを体内に取り込むことで、感情を「演じ」続けてきたのだ。彼女の周りを彩っていた華やかな感情は、すべて偽物だった。彼女自身が生み出したものではなかったのだ。
「あの子は、ずっと本当の感情を求めていました。特に、あなたのような……静かで、純粋な心に触れたかったのでしょう」
響の父親が、絞り出すように言った。
僕が彼女に惹かれたのは、彼女の持つ華やかさではなかった。彼女が時折見せる、寂しそうな瞳の奥にある、本当の彼女の姿だったのかもしれない。彼女は、僕の『静寂』を欲した。僕もまた、彼女の偽りの輝きの奥にある『虚無』に、自分と同じ匂いを感じ取っていたのだ。
病室のベッドで眠る響は、まるで精巧な人形のようだった。生命維持装置に繋がれ、彼女の感情モニターは、ただ一本の水平線を描いているだけ。心が、死んでいた。
医師は言った。「外部からエモニウムを供給し続けても、彼女自身の心が生成を始めない限り、いずれ限界が来ます。彼女に必要なのは、他人の感情の結晶ではありません。誰かが、心そのものを分かち与えること……しかし、そんなことは、このシステムの根幹を揺るがす、ありえない奇跡です」
僕の価値観が、音を立てて崩れていく。感情は売買するもの。それが、この世界の絶対的なルールだった。だが、目の前の響を見ていると、そのすべてが狂っているとしか思えなかった。感情は、誰かの心を温めるためにあるはずだ。取引の道具なんかじゃない。
僕の胸の奥で、熱い塊が込み上げてきた。それは『怒り』であり、『悲しみ』であり、そして響を救いたいと願う、燃えるような『決意』だった。これらの激しい感情が、僕の体内で凄まじい勢いでエモニウムへと結晶化していくのが分かった。しかし、僕はそれを拒んだ。チップが焼き切れるほどの抵抗で、結晶化のプロセスを押しとどめる。
これは、売らない。これは、渡すんだ。君に。
第四章 心を渡すということ
僕は、眠る響の手を握った。冷たく、力のない手だった。僕は目を閉じ、全ての意識を、握った手に集中させた。
エモニウムとして抽出される前の、生々しい、純粋な感情の奔流。僕がずっと蓋をしてきた心の井戸の底から、今、溢れ出してくるもの。響と過ごした日々の記憶。彼女の笑顔、寂しそうな瞳、僕に向けられた優しい声。それらが呼び水となり、僕の中に温かい光が灯る。
それは、『感謝』だった。
それは、『心配』だった。
それは、『愛しさ』だった。
結晶になんてしてなるものか。この熱いまま、温かいまま、君の心に直接届けたい。システムへの反逆?世界のルールを壊す?どうでもよかった。僕の世界は、今、このベッドの上にあるのだから。
「響……聞こえるか」
僕は囁いた。僕の首筋のチップが、異常な負荷に悲鳴を上げる。焼けるような痛み。だが、僕は止めなかった。
「僕の感情は、無価値なんかじゃなかった。君が教えてくれたんだ。だから今度は、僕が君にあげる。僕の全部を」
握った手を通して、僕の心の形が、温もりが、響へと流れ込んでいくようだった。それは取引じゃない。贈与でもない。ただ、分かち合うという、この世界では忘れ去られた原始的な行為だった。
その時、奇跡が起こった。
響の感情モニターに、微かな波形が生まれたのだ。それは、小さく、か細い線だったが、確かに生きている心の証だった。彼女の指が、僕の手を弱々しく握り返した。閉ざされた瞼が、微かに震える。
僕は、涙が溢れてくるのを止められなかった。この涙から生まれる『悲哀』や『感動』のエモニウムが、どれほどの価値を持つかなんて、もうどうでもよかった。ただ、この温かい雫が、僕が生きている証なのだと思えた。
数週間後、響はゆっくりと回復していった。彼女が自ら生み出す感情は、まだ赤ん坊のように拙く、微かなものだったが、それは間違いなく彼女自身のものだった。僕たちは、エモニウムを介さずに笑い合い、語り合った。僕の口座残高は相変わらず空っぽだったが、心は、生まれて初めて満たされていた。
卒業の日、僕と響は、学園の門の前に並んで立っていた。僕たちの首筋には、もうチップはない。システムに反逆した僕たちは、この学園、そしてこの社会の枠組みからは外れた存在だ。未来には、何の保証もない。
響が、僕の手をそっと握った。
「ねえ、湊。私たちの心って、何色かな」
空を見上げると、エモニウムの輝きに汚されていない、澄み切った青が広がっていた。
「さあな。でも、君と一緒にいると、虹が見える気がするよ」
僕たちは、一歩を踏み出した。感情を売ることも買うこともできない、貧しく不便な世界へ。だが、僕たちの心は、誰よりも豊かだった。感情の本当の価値は、その値段ではなく、誰かと分かCHI合える温もりの中にこそあるのだから。僕たちの前には、まだ名前のない、無限の未来が広がっていた。