言の葉のプリズム

言の葉のプリズム

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第一章 灰色のフォント

僕、水瀬遥の世界は、常に余計な文字で溢れていた。それは、人々が発する言葉の周囲に、亡霊のようにまとわりつく本音の字幕だ。明朝体、ゴシック体、時には手書き風の震える文字で、彼らの本心が可視化される。この「能力」と呼ぶには呪いめいた現象がいつから始まったのか、もう思い出せない。

「水瀬、これ、委員会の仕事なんだけど、代わりにやってくれないかな? ちょっと急用が……」

クラスメイトの田中が申し訳なさそうな顔で差し出すプリントの束。彼の言葉の周りには、太いゴシック体で【面倒くさいから押し付けよう】という文字がくっきりと浮かんでいる。

僕は表情一つ変えずに答える。「悪いけど、今日は無理だ。自分でやれよ」

「そっか……ごめん」

田中の肩が落ちる。その背中を見送りながら、彼の言葉の周りに浮かんだ【ちぇっ、使えないやつ】という小さな文字を、僕は冷めた目で見つめていた。

おかげで、僕の高校生活は極めてシンプルだ。誰とも深く関わらない。期待しない。傷つかない。友情や信頼なんて言葉は、美しい装飾が施された空っぽの箱に過ぎないことを、僕は嫌というほど知っている。教室の喧騒は、無数の本音のフォントが飛び交うノイズの洪水だ。僕はヘッドフォンで耳を塞ぐように、心を閉ざしてその全てをやり過ごしていた。

そんな灰色の日常に、小さな亀裂が入ったのは、初夏の風が屋上のフェンスを揺らす昼下がりのことだった。昼食のパンを一人でかじるのが、僕の習慣だった。コンクリートの床に腰を下ろし、街並みをぼんやりと見下ろしていると、不意に背後からシャッター音が響いた。

振り返ると、一人の女子生徒が古いフィルムカメラを構えていた。レンズが向けられているのは、僕ではなく、どこまでも広がる青い空だ。彼女は同じクラスの月島奏。物静かで、誰のグループにも属さず、いつも一人で本を読んでいるか、こうして空を撮っているか。僕と同じ、「一人」を好む人種だと思っていた。

彼女はこちらに気づくと、小さく会釈した。気まずい沈黙が流れる。何か話すべきか迷っていると、彼女がぽつりと呟いた。

「今日の空、綺麗ですね」

その言葉は、何の変哲もない、ありふれた感想だった。だが、僕は息を呑んだ。

彼女の言葉の周りには、何もなかった。

いつも見えるはずの、皮肉や、社交辞令や、下心といったフォントが、どこにも見当たらない。ただ、彼女が発した「綺麗ですね」という透明な音だけが、まっすぐに僕の鼓膜に届いた。

初めての経験だった。僕の世界で、言葉が言葉としてだけ存在したのは。

「……ああ、そうだな」

僕はそれだけを返すのが精一杯だった。心臓が、錆びついた扉のようにぎこちなく音を立てている。月島奏。彼女の存在が、僕の灰色に塗り固められた世界に、ほんのわずかな光を差し込んだ瞬間だった。

第二章 透明な音色

それからというもの、屋上は僕にとって特別な場所になった。昼休みになると、僕は吸い寄せられるように階段を上り、月島奏は当たり前のようにそこにいた。僕たちは特に約束を交わすわけでもなく、ただ同じ空間で、それぞれの時間を過ごした。

彼女はいつも空を撮っていた。雲の流れ、光の筋、夕焼けのグラデーション。ファインダーを覗く彼女の横顔は真剣で、どこか神聖ですらあった。

「なんで、空ばっかり撮るんだ?」

ある日、僕はたまらず尋ねた。

彼女はカメラから顔を上げ、少し考えてから答えた。

「空は、嘘をつかないから」

その言葉にも、やはりフォントは浮かばなかった。僕は彼女の言葉を、濾過されていない天然水のように、ごくりと飲み込んだ。嘘をつかないもの。そんなものが、この世界にあるのだろうか。

彼女との会話はいつも途切れ途切れだったが、不思議と苦ではなかった。むしろ、その沈黙が心地よかった。彼女といる時だけ、僕は絶え間ない本音のフォントの洪水から逃れ、静かな岸辺にたどり着いたような安らぎを感じていた。

「水瀬くんは、どうしていつも一人なの?」

彼女の問いは、ナイフのように鋭く、それでいて絹のように柔らかかった。

「……人が、あまり好きじゃないから」

【本当は怖いだけだ】という僕自身の本音が、頭の中でぐにゃりと歪む。だが、彼女はそれを見通すように、静かに言った。

「そう。でも、水瀬くんの目は、優しい色をしていると思う」

その言葉は、僕の心の最も柔らかい部分に、じんわりと染み込んでいった。僕の目が、優しい色? 誰もそんなことを言ってくれたことはなかった。

秋になり、文化祭の季節がやってきた。月島は写真コンテストに出品するという。テーマは「学園の風景」。彼女は少し困ったように笑った。

「私、空しか撮ってこなかったから、人がいる風景って、どう撮ればいいか分からなくて」

「……手伝うよ」

気づけば、僕はそう口にしていた。自分でも驚くほど、自然な言葉だった。

放課後、僕たちは誰もいない教室、夕日に染まる廊下、木漏れ日が揺れる中庭を歩いた。彼女は時々立ち止まっては、シャッターを切る。僕は彼女の隣で、ただその光景を見ていた。彼女のレンズが切り取る世界は、僕が普段見ている無機質で退屈な学園とはまるで違って見えた。そこには、光と影が織りなす、静かで優しい時間が流れていた。

文化祭の準備期間、僕たちは多くの時間を共にした。彼女の撮った写真を並べ、展示の構成を考える。彼女の指先が、僕の指に偶然触れた時、僕は心臓が跳ねるのを感じた。この温もりだけは、信じてもいいのかもしれない。僕の世界は、ゆっくりと、しかし確実に色づき始めていた。

第三章 砕け散るプリズム

文化祭当日。月島奏の展示スペースは、多くの生徒で賑わっていた。壁に並べられた写真には、何気ない学園の日常が、息を呑むほど美しい瞬間として切り取られている。夕暮れの図書室で本を読む生徒のシルエット、雨上がりの校庭にできた水たまりに映る逆さの校舎、そして、屋上で空を見上げる僕の後ろ姿。

「すごいな、月島さんの写真」

「映画のワンシーンみたい」

賞賛の声が飛び交う。僕は自分のことのように誇らしい気持ちで、少し離れた場所からその光景を眺めていた。

その時だった。僕の耳に、聞き慣れた不協和音が届いたのは。

「なんか、月島さんの写真って、綺麗すぎて逆に怖いよね」

「わかる。あの人、いつも本音しか言わないからさ。何を考えてるか分からない人よりマシだけど、裏がないのが不気味っていうか……」

話しているのは、同じクラスの女子たちだった。彼女たちの言葉の周りには、【嫉妬】というどす黒いフォントと、【気味が悪い】という歪んだ文字が、毒々しく渦巻いていた。

カッと頭に血が上った。許せなかった。月島の純粋さを、こいつらの汚れた言葉で傷つけられてたまるか。僕は二人の前に立ちはだかった。

「くだらないこと言ってないで、消えろよ。お前らみたいな奴に、彼女の作品の価値が分かってたまるか」

僕の言葉は、自分でも驚くほど冷たく、鋭利だった。女子たちは怯えたように顔を見合わせ、足早に去っていく。僕は正義を成した気でいた。彼女を、守ったのだと。

「水瀬くん」

背後から、静かな声がした。月島だった。いつからそこにいたのだろう。

「どうして、あんな酷いことを言うの?」

彼女の表情は、悲しみに曇っていた。

「……君のためだ。あいつら、君のこと、本当は……」

僕は口ごもりながら、見えたフォントの内容を伝えようとした。だが、月島は静かに首を振った。

「違うよ、水瀬くん。君はまた、人の言葉を信じていない」

そして、彼女は僕の目をまっすぐに見つめて、僕の世界を根底から覆す言葉を紡いだ。

「君が見ているその『フォント』はね、相手の心じゃない。それは、君自身の心を映す鏡。君の猜疑心が生み出した、幻だよ」

幻? 鏡? 意味が分からなかった。僕が今まで見てきたものは、全部。

「君が人を疑っているから、疑いの言葉が見える。私が君を信じているから、君には私の心のフォントが見えなかっただけ。……世界を灰色に染めているのは、他の誰でもない。水瀬くん、君自身なんだよ」

その瞬間、僕の世界がガラガラと音を立てて崩れ落ちた。

足元が消え、奈落の底へ落ちていくような感覚。今まで僕を支え、僕を定義してきたこの「能力」が、ただの僕の弱さの産物だったというのか。

僕は恐る恐る、目の前の月島を見た。彼女の悲しげな瞳。そして、その言葉の周りに、初めて、文字が見えた。

【お願い、信じて】

それは、震えるような明朝体だった。だが、もう僕には分かっていた。それは月島の心ではない。彼女の言葉を聞いて、「彼女はこう思っているに違いない」と僕の心が勝手に作り出した、僕自身の願望のフォントなのだ。

僕は、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。

第四章 君のいる風景

自分の部屋に閉じこもり、三日が過ぎた。学校には行けなかった。僕が今まで信じてきた世界は、僕自身の歪んだ心が作り出した虚像だった。人々が発する言葉も、その裏に見える本音も、全ては僕の猜疑心のプリズムが乱反射させた光に過ぎなかったのだ。僕は誰よりも人を信じず、誰よりも人を恐れ、その恐怖から逃れるために、世界そのものを捻じ曲げていた。その事実が、鉛のように重くのしかかった。

ベッドの上で、ぼんやりと壁に立てかけてあった一枚の写真に目をやる。文化祭の後、月島がくれたものだ。屋上で空を見上げる僕の後ろ姿を撮った一枚。僕はその写真の中に、自分が今まで見ようともしなかったものを見出した。僕の背中を照らす夕日の暖かさ。吹き抜ける風の心地よさ。写真の中の僕は、孤独ではあったが、決して不幸そうではなかった。月島は、僕が気づかなかった僕自身の世界の美しさを、切り取ってくれていたのだ。

彼女は、世界をありのままに見ていた。そして、僕のことも。

僕はベッドから起き上がると、何かに憑かれたように家を飛び出した。向かう先は、学校の屋上。そこに彼女がいるという確信があった。

錆びた扉を開けると、思った通り、月島はフェンスの向こうの空にカメラを向けていた。僕の足音に気づいて、ゆっくりと振り返る。

彼女の顔をまともに見ることができなかった。それでも、僕は言葉を紡がなければならなかった。僕自身の、フィルターのかかっていない、ありのままの言葉を。

「月島さん」

声が震えた。

「俺は……ずっと、怖かったんだ。人に裏切られるのが、嫌われるのが。だから、最初から誰も信じないって決めて、壁を作ってた。君の言う通りだ。俺が、世界を歪めて見てた。ごめん」

言葉を吐き出すたびに、胸のつかえが少しずつ溶けていくような気がした。僕の周りに渦巻いていたであろう【恐怖】や【後悔】といった自己防衛のフォントが、ふっと霧散していく。もちろん、それらは元から見えていたわけではない。ただ、僕の心が軽くなっていくのが、はっきりと分かった。

月島は、何も言わずに僕の話を聞いていた。やがて、彼女はふわりと微笑んだ。それは、夕日よりもずっと暖かい、優しい微笑みだった。

「気づいてくれて、よかった」

その言葉には、やはりフォントはなかった。だが、今度の「ない」は、以前とは全く意味が違っていた。僕が彼女を信じているから「ない」のではない。僕が、もうフォントを探すのをやめたからだ。言葉の裏側ではなく、言葉そのものを、月島奏という人間そのものを、見つめようと決めたからだ。

僕と彼女の間には、もう余計な文字は存在しない。ただ、少し不器用な沈黙と、街を茜色に染める夕日と、その光を静かに吸い込むフィルムカメラのレンズがあるだけだった。

これから先、また人を疑ってしまう日も来るかもしれない。僕の心のプリズムが、世界を歪めて見せてしまうこともあるだろう。でも、もう僕は一人ではない。彼女の隣でなら、このありのままの世界を、愛せるかもしれない。

僕は初めて、自分の瞳で、夕日に染まる彼女の横顔を、そしてその向こうに広がるどこまでも美しい世界を、まっすぐに見つめた。

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