クロノスの天秤

クロノスの天秤

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第一章 感情の秤

僕らが通うこの丘の上の学園――私立クロノス学藝院には、一つの奇妙で、絶対的な校則がある。

『卒業生は、在学中に育んだ最も価値ある感情を一つ、母校に納付すること』

それは「感情納付制度」と呼ばれ、創立以来百年以上続く神聖な伝統だった。生徒たちは卒業式の日、壇上に置かれた純白の石――『魂の天秤』と呼ばれるそれに手を触れ、心に決めた感情を念じる。すると、その感情は形のない光の粒子となって石に吸い込まれ、納付は完了する。卒業生は、その感情に対する感覚を永久に失うのだ。

「喜び」を納めた先輩は、何を見ても心が躍らなくなったという。「愛」を納めた伝説の生徒会長は、その後誰のことも愛せなくなったと聞く。その代償として、彼らは社会で成功を収めると言われていた。感情という名の枷を一つ外すことで、より純粋な理性と実行力を手に入れるのだ、と。だから、より強く、よりポジティブな感情を納めることが、クロノスでは最高の美徳とされた。

卒業を半年後に控えた秋、僕、蒼井湊(あおい みなと)は、アトリエの大きな窓から、色褪せた校庭を眺めていた。キャンバスには、まだ何も描かれていない。僕の心のように、真っ白な空白が広がっているだけだ。

「湊はもう決めた? 納める感情」

背後から、陽だまりのような声がした。振り返ると、クラスメイトの風間陽菜(かざま ひな)が、僕のイーゼルの隣にそっと立っていた。彼女の周りだけ、空気がふわりと温かい。

「ああ。僕は『悲しみ』を納めるよ」

僕がこともなげに言うと、陽菜は少しだけ眉をひそめた。

「悲しみ、を? どうして?」

「一番、無価値だからさ」僕は肩をすくめた。「悲しみなんて、人を弱くするだけだ。足手まといになるだけのノイズだろ。そんなものを失っても、何も困らない」

これが僕の本心だった。僕は幼い頃から、感情の起伏が乏しい子供だった。他人の喜びにも、悲しみにも、うまく共感できない。ただ、絵を描いている時だけ、僕の中に渦巻く名付けようのない感情が、色彩となってキャンバスに定着していく。その感覚だけが、僕が生きているという唯一の証明だった。

「『恐怖』や『嫉妬』を納める子もいるけど、湊が『悲しみ』を選ぶなんて、なんだか意外」

「臆病者の選択、って言いたいんだろ」

学園では、ネガティブな感情を納める者は、困難から逃げる弱者と見なされる風潮があった。

「ううん、そうじゃない」陽菜は首を横に振った。「私は、どんな感情にも価値があると思うから。悲しみがあるから、優しさが生まれる。悲しい映画を観た後って、なぜか世界が少しだけきれいに見えたりしない?」

彼女の言葉は、いつもそうだ。僕が白か黒かで割り切ろうとする世界に、淡いグラデーションを持ち込んでくる。僕のモノクロームのキャンバスに、勝手に柔らかな色を落とそうとする。

「……どうだろうな」

僕は曖昧に答え、再び窓の外に視線をやった。色とりどりの葉が舞い散る校庭で、生徒たちがどの感情を天秤にかけるか、楽しそうに、あるいは真剣に語り合っている。その光景は、僕にはひどく滑稽な、残酷な戯曲のように見えていた。

第二章 禁じられた書庫の囁き

卒業制作のテーマは、早々に決まった。『無響』。あらゆる感情が消え去った世界。僕はその静寂を、美を、キャンバスに描き出そうとしていた。悲しみを捨て去るための、自分自身への宣言のようなものだった。アトリエに籠り、絵の具の油の匂いと、テレピン油の刺激臭の中で、僕はひたすら筆を動かした。

しかし、陽菜の言葉が、耳の奥で小さな棘のように引っかかり続けていた。

――悲しみがあるから、優しさが生まれる。

そんなことがあるものか。悲しみはただ、人を無力にし、思考を停止させるだけだ。僕はそう信じたかった。だが、描けば描くほど、僕のキャンバスは生命力を失っていくようだった。灰色と白だけで構成された世界は、静かで美しいはずなのに、なぜかひどく息苦しい。まるで、真空の箱に閉じ込められたような感覚だった。

「ねえ、湊。学園の地下に、納付された感情が保管されてる『感情貯蔵庫』があるって噂、知ってる?」

ある日の昼休み、陽菜がこっそりと僕に耳打ちした。

「ああ、聞いたことはある。創立者の亡霊が守ってる、とかいう馬鹿げた話だろ」

「私、見てみたいんだ。みんなが手放した感情って、どんな形をしているんだろうって」

彼女の瞳は、純粋な好奇心で輝いていた。危険だと一蹴すべきなのに、僕はなぜかその提案に逆らえなかった。僕の知らない「感情の価値」を、彼女は知っているのかもしれない。その答えの欠片が、そこにあるのかもしれない。そんな淡い期待があった。

僕たちは放課後、古い図書館の奥にある、今は使われていない「旧資料室」に忍び込んだ。そこが貯蔵庫への入り口だと、噂では言われていたからだ。埃っぽい空気、黴の匂い、積み上げられた本の背表紙をなぞる指先に、ひんやりとした感触が伝わる。

地下への扉は見つからなかった。だが、僕たちは偶然、鍵のかかっていない小さな引き出しを見つけた。中に入っていたのは、一冊の古びた日誌だった。表紙には『初代司書 補遺録』とだけ記されている。

「何だろう、これ……」

陽菜が隣で息を呑む。僕は震える指で、黄ばんで硬くなったページをそっとめくった。そこに書かれていたのは、僕たちの常識を、学園の歴史を、根底から覆すような、おぞましい真実の断片だった。

『……感情納付は、神聖な儀式にあらず。呪いであり、最も効率的な搾取のシステムなり。クロノスが求めるは『喜び』にあらず。『愛』にあらず。学園の結界を維持し、その生命を永らえさせる真の糧。それは、最も純粋にして高潔なるエネルギー源――『悲しみ』なれば……』

心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたようだった。日誌を読み進めるにつれて、全身の血が凍りついていくのを感じた。

第三章 反転する世界の色彩

日誌に綴られていたのは、狂気と呼ぶべき学園創設の秘密だった。

クロノス学藝院は、外界の混沌や悪意から生徒を守るための、強力な結界によって成り立っている。そして、その結界を維持するためのエネルギー源こそが、生徒から納付された感情だった。

しかし、学園が本当に必要としていたのは、「喜び」や「愛」といったポジティブな感情ではなかった。それらはあまりに不安定で、エネルギー効率が悪すぎたのだ。最も純粋で、凝縮された、持続可能なエネルギー。それこそが、人間の魂の最も深い場所から湧き出る『悲しみ』だった。

では、なぜ学園は美徳として「喜び」や「愛」の納付を推奨してきたのか。

答えは、悪魔的としか言いようがなかった。「喜び」を失った人間は、その代償行為として、より大きな快楽を求めるようになる。だが、心からの喜びを感じられないため、その渇望は決して満たされない。その結果生まれるのは、深い虚無と、静かな絶望だ。「愛」を失った者も同様だ。人を愛せず、誰からも愛されている実感を得られない人生は、底なしの孤独へと繋がる。

学園は、卒業生たちのその後の人生に巧妙な罠を仕掛けていたのだ。美徳とされる感情を差し出した卒業生たちは、社会で成功しながらも、その魂の奥底で、知らず知らずのうちに上質な「悲しみ」を生産し続ける。そして学園は、その見えざる絆を通して、彼らの人生から「悲しみのエッセンス」を永続的に搾取し続けていたのだ。

逆に、「悲しみ」や「恐怖」を直接納付した者は、その感情を失うだけ。一時的に鈍感にはなるが、魂の根幹である「喜び」や「愛」は残っているため、学園にとっては長期的なエネルギー源にはなり得ない。「臆病者の選択」とは、この搾取システムから逃れるための、唯一の道だったのだ。

「……そんな……」

陽菜の声が、震えていた。彼女の顔から血の気が失せ、美しい瞳が絶望に揺れている。

僕も同じだった。頭を鈍器で殴られたような衝撃。これまで信じてきた価値観が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。

僕が価値がないと断じ、捨て去ろうとしていた『悲しみ』。それこそが、この学園が最も欲し、僕らを守るために必要としていた、尊い犠牲だったのだ。そして、「喜び」や「愛」を捧げるという高潔な行為は、実は友人たちを未来永劫続く地獄へと突き落とす、最も残酷な裏切りに他ならなかった。

陽菜が言っていた言葉が、雷のように僕の脳を撃ち抜いた。

――悲しみがあるから、優しさが生まれる。

違う。そうじゃなかった。悲しみとは、優しさの源であるだけでなく、僕ら自身を守る最後の砦だったのだ。それを軽んじ、無価値だと断じた僕は、なんて傲慢で、愚かだったのだろう。

アトリエで描いていた、あの息苦しい『無響』の世界。あれは、僕がこれから手に入れようとしていた未来そのものだった。感情を失い、ただ合理的に生きるだけの、色のない空虚な未来。

「……どうしよう、湊」

陽菜が、僕の腕をか細い力で掴んだ。彼女の指先は、氷のように冷たかった。

「卒業式は、もうすぐなのに……みんな、何も知らずに……」

僕は、言葉を返すことができなかった。ただ、窓の外に広がる夕焼け空が、燃えるような悲しい色をしているのを、呆然と見つめていた。僕の世界は、一瞬にしてその色彩を反転させたのだ。

第四章 クロノスの天秤の上で

卒業式の朝。空は泣き出しそうなほど低い、鉛色の雲に覆われていた。講堂には厳かなパイプオルガンの音色が響き渡り、卒業生たちの緊張と期待が入り混じった熱気が満ちている。僕は、真っ白な卒業制作のキャンバスを抱え、その列に並んでいた。あの日以来、僕は一枚も絵を描けなかった。いや、描かなかった。

式は粛々と進み、ついに「感情納付の儀」が始まった。卒業生が一人、また一人と壇上に上がり、純白の『魂の天秤』に手を触れていく。

「私は、『希望』を納めます!」

生徒会長が誇らしげに宣言すると、天秤は眩い黄金色の光を放った。会場から、感嘆と拍手が沸き起こる。彼は知らない。その希望を失った先にある、終わらない渇望の道を。

「僕は、『恋する心』を捧げます」

サッカー部のエースが、そう言って石に触れる。淡い桃色の光が、儚く石に吸い込まれていく。

僕は目を閉じた。友人たちの輝かしい未来が、実は最も暗い闇へと続いている。この真実を知りながら、僕は黙ってそれを見ていることしかできないのか。

やがて、陽菜の番が来た。彼女はゆっくりと壇上に上がり、天秤を前にして、一度だけ客席にいる僕の方を見た。その瞳は、もう迷ってはいなかった。

「私は……」彼女は一度息を吸い、凛とした声で言った。「私は、『迷い』を納めます」

会場が、少しだけざわめく。誰もが予想しなかった、あまりに地味で、抽象的な感情だったからだ。彼女が天秤に触れると、透明に近い、ほとんど色のない光がふわりと立ち上り、静かに消えた。彼女は僕にだけ分かるように、小さく、しかしはっきりと頷いた。

そして、僕の番が来た。

僕は抱えていた真っ白なキャンバスを、イーゼルに立てかけた。ざわめきが大きくなる。未完成の卒業制作など、前代未聞だったからだ。

僕はマイクの前に立ち、深く息を吸った。

「僕が納める感情は、まだ決まっていません」

講堂の空気が、凍りついた。

「代わりに、皆さんに見てほしいものがあります」

僕は、イーゼルの前に立った。そして、ポケットから取り出した一本の木炭で、白いキャンバスに線を走らせ始めた。迷いなく、一心不乱に。

僕は描いた。喜びを失い、虚ろな目で成功を祝う人々を。愛を失い、孤独に震える老人を。そして、彼らの魂から流れ出る見えない悲しみを啜り、静かに佇むこの学園の姿を。それは、僕が真実を知ってからずっと、頭の中で焼き付いて離れなかった光景だった。

最後に、僕はその悲劇的な絵の中心に、小さな点を描いた。それは、涙の粒にも、遠い星の光にも見えた。

「悲しみは、無価値ではありません」

僕は、描き終えた絵の横で、静かに語り始めた。

「悲しみは、僕たちが僕たちらしくあるために、喜びや愛と同じくらい、必要不可欠なものです。それを失うことは、魂の一部を殺すことと同じだ。この学園が教えてくれた美徳は、偽りです。僕たちを待っているのは栄光じゃない。もっと静かで、もっと残酷な、終わらない黄昏です」

教師たちが制止しようと壇上に駆け寄ってくる。だが、僕は続けた。

「だから、僕は何も納めない。この空っぽのキャンバスのように、僕は僕のままで、ここを卒業する。僕はこの『悲しみ』を抱えたまま、生きていく。そして、いつかこのキャンバスを、本当の喜びや、本当の愛や、そして本当の悲しみの色で、埋め尽くしてみせる」

僕の言葉が、どれだけの生徒に届いたかは分からない。学園のシステムが、この日を境に変わることもないだろう。僕はきっと、異端者としてここを去ることになる。

だが、僕が壇上から降りた時、陽菜がそこに立っていた。彼女は僕の描いた絵をじっと見つめ、そして僕に微笑みかけた。その笑顔には、もう迷いの影はなかった。

「行こう、湊」

彼女が差し出した手を、僕は強く握り返した。

卒業後、僕は画家になった。僕の描く絵は、いつもどこか物悲しいと言われる。だが、その悲しみの奥にある、かすかな光を見つけてくれる人もいた。僕たちは、失われた感情の価値を、この世界に問い続けるだろう。クロノスの天秤が、いつか本当の意味で、魂の重さを正しく計れる日が来ることを信じて。僕たちの革命は、まだ始まったばかりだ。

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