第一章 沈黙する極彩色の教室
カッカッ、カッ。
乾いたチョークの音が、鼓膜を直接引っ掻くように響く。
そのリズムが途切れるたび、教室の空気はピアノ線の如く張り詰める。
僕、レンの視界には、吐き気を催すほどの「色」が揺らめいている。
前の席の背中からは、腐った沼のような深緑の瘴気。
(焦燥……いや、あれは嫉妬か)
隣の席の女子生徒は、指先から針のような青白い光を放電させている。
(恐怖。次が自分の番だと怯えている)
「おい、ペンを貸せよ」
教室の隅、押し殺したような囁き声。
直後、ガタンと椅子が床を擦った。
「ふざけんな、自分で買えよ!」
一瞬の爆発。
男子生徒の肩から、燃え盛る真紅の炎が噴き出した。激情の赤。
その瞬間だった。
バヂィッ!
何かが焼き切れるような異音が、教室の空気を裂いた。
「あ……が……ッ!?」
男子生徒が喉を掻きむしり、白目を剥いて床に倒れ込む。
見えない万力で脳を握り潰されたかのように、全身が痙攣している。
システムのアナウンスなどない。警告もない。
あるのは、即物的な「執行」のみ。
彼の口は魚のようにパクパクと開閉するが、音は一切出ない。
焼けた鉄を飲み込んだような激痛が喉を走り、その機能が物理的に遮断されたのだ。
さらに恐ろしいのはその後だ。
数秒のたうち回った彼が、ふいに糸が切れた人形のように動きを止め、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳からは、恐怖の色すら消え失せていた。
「怒り」という概念そのものを、脳の海馬からスプーンでえぐり取られたような、虚無の表情。
(……馬鹿な奴だ)
僕は胸元のガラス製ペンダント――「感情の天秤」の模造品に触れる。
冷たく、微動だにしない。
僕の心は、いつだって凪いでいる。
鏡に映る自分のオーラを見ようとしても、そこには何もない。
透き通るような、あるいは空っぽの「無色」。
自分には心がない。だから、痛みもない。
この狂った学園で生き残るには、欠落した自分でいるのが一番都合がいい。
ガララッ。
不意に教室の扉が開いた。
担任の後ろに、一人の少年が立っている。
「転校生だ。カイ、席につけ」
僕は息を呑んだ。
見えない。
彼からは、どんな色も、煙も、光も出ていない。
僕と同じ、「無色」の人間。
カイは教室を見渡し、僕と目が合うと、口角を僅かに上げた。
その瞬間、僕の胸元のガラスが、チリリと熱を帯びて震えた。
第二章 代償なき微笑み
「ねえ、君。レンって言うんだろ?」
放課後、中庭のベンチで本を読んでいると、視界に影が落ちた。
カイだ。
「……僕に話しかけるな。『興味』は高くつく」
僕は本から目を離さずに答える。
しかし、カイは躊躇なく隣に座り込んだ。
「変な学校だよな。みんな、窒息しそうな顔して生きてる」
「それがルールだ。感情は毒。抑制こそが美徳」
「ふうん。でもさ」
カイが僕の顔を覗き込む。
「君は、見えてるんだろ? 僕の『中身』が」
僕は思わず彼を見た。
相変わらず、彼からは何の色も出ていない。
だが、その瞳の奥には、僕には理解できない熱のようなものが渦巻いている。
「君は……何者だ? なぜ、色が何もない?」
「色?」
カイは面白そうに笑った。
クスクスではない。ハハハ、と腹の底から空気を震わせる哄笑だ。
(おい、やめろ!)
「楽しむ」ことは重罪だ。
このレベルの笑いなら、肋骨が軋むほどの激痛か、あるいは一週間分の記憶がごっそり消滅する。
僕は反射的に身構え、彼が激痛にのたうち回る様を予期した。
目を背けようとした。
……しかし。
カイは笑い止み、涼しい顔で涙を拭っている。
痙攣も、ブラックアウトも起きない。
「な……?」
僕は戦慄した。
目の前で起きていることが信じられなかった。
この学園の絶対法則が、彼にだけ適用されていない。
「不思議そうな顔をしてるね、レン」
「どうして……代償が来ない? お前、今、間違いなく感情を……」
「システムが『認識』できないからさ」
カイは声を潜め、中庭の中央にそびえ立つ巨大な塔――「感情の天秤」を顎でしゃくった。
「あのガラクタは、特定の波長しか測れない。僕の感情は、あの天秤の規格外なんだよ」
カイの言葉に、僕は自分のペンダントを握りしめた。
かつてないほど激しく脈打っている。熱い。
「レン。君も本当は気づいてるはずだ。君自身の『無色』が、空っぽなんかじゃないってことに」
ドクリ、と心臓が早鐘を打った。
空っぽではない?
なら、この胸の奥で渦巻く、名状しがたい混沌は何だ?
「僕と来いよ。あの天秤の本当の姿、見せてやる」
第三章 プリズムの覚醒
深夜の校舎は、巨大な棺桶のように静まり返っていた。
僕たちは監視カメラの死角を縫い、学園の中枢、「感情の天秤」が設置されたホールへと足を踏み入れた。
ヒュオォォ……。
巨大な空調音が、獣の寝息のように響いている。
一歩でも足音を立てれば、即座に警備ドローンが飛んでくるだろう。
心臓の音がうるさい。冷や汗が背中を伝う。
ホールの中心、巨大な天秤は青白い光を放ちながら鎮座していた。
「これを作った連中は、過去に人間が感情で滅びかけたことを恐れた」
カイが天秤の台座を見上げる。
「だから感情を数値化し、間引き、管理した。でも、それは『生きる』ことをやめたのと同じだ」
「でも、平和だ。誰も傷つかない」
僕は反論した。
けれど、その声は微かに震えていた。
傷つかない?
いや、僕は毎日傷ついている。
何も感じないふりをすることに。自分を殺し続けることに。
「本当に? 君は傷ついてないのか? 自分が何者かも分からず、ただ息をしているだけで」
カイの視線が突き刺さる。
僕は、握りしめた自分のペンダントを見た。
ガラスの中で、光が乱舞している。
(違う……これは無色じゃない)
幼い頃、理科の実験で見た光景がフラッシュバックする。
暗室に差し込んだ一本の太陽光。
それがプリズムを通った瞬間、鮮やかな虹色に分解された記憶。
「……そうか」
僕の唇から、言葉がこぼれ落ちた。
「色は、ないんじゃない。……混ざり合っていたんだ」
悲しみも、喜びも、怒りも、絶望も。
あまりに多くの感情が、あまりに激しく渦巻いて、互いの色を打ち消し合い、極限の「白」になっていただけだ。
僕は空っぽなんかじゃなかった。
誰よりも、感情が多すぎたんだ。
「やっと気づいたか、レン!」
カイが叫んだ瞬間、空間を切り裂くようなサイレンが鳴り響いた。
『侵入者検知。侵入者検知』
ホールの照明が一斉に点灯し、無機質な赤色灯が回転する。
四方の扉が開き、警棒を持った教師たちとドローンが雪崩れ込んできた。
「確保せよ! 特級感情違反者だ!」
逃げ場はない。
だが、カイは不敵に笑い、僕の背中をバシッと叩いた。
「レン、今だ! その『白』をぶつけろ! 分解してやるんだ!」
僕は天秤を見上げた。
今まで抑え込んでいたダムが決壊する。
恐怖。不安。
そして……カイへの信頼。
世界を知りたいという渇望。
自分を縛り付けてきた全てへの、煮えたぎるような怒り。
「う、おおおおおおっ!」
僕はペンダントを握りしめた拳を、天秤のクリスタル製制御板へと突き出した。
殴るのではない。
流し込むのだ。僕の、全てを。
第四章 崩壊のシンフォニー
キィィィィンッ!!
接触した瞬間、制御板が悲鳴を上げた。
物理的な打撃音ではない。
許容量を超えたエネルギーを注ぎ込まれたシステムが、共鳴によって起こした断末魔だ。
『エラー。測定不能。測定不能。感情値、無限大』
無機質な音声が狂ったようにループし、ピッチが異常な速度で上がっていく。
僕の掌から流し込まれた「純白」の感情は、天秤の回路内でプリズムのように乱反射した。
バシュッ! バシュッ!
天秤の隙間から、レーザーのような光が迸る。
赤、青、黄、緑、紫、橙……。
視界を埋め尽くす、極彩色の奔流。
「な、なんだこれは!?」
教師たちが目を覆い、ドローンが制御を失って壁に激突する。
光の圧力。感情の質量。
僕のペンダントが熱を帯び、光の塊となって弾け飛んだ。
ガラスの破片がキラキラと舞う中で、天秤のコアに亀裂が走る。
パキッ。
パキキキキッ……!
「いけぇぇぇぇッ!」
僕の絶叫と共に、光が臨界点を超えた。
ドオォォォン……!
爆音と共に、巨大な天秤が内側から砕け散った。
飛び散った光の粒は、衝撃波となって学園中を駆け抜けていく。
壁を抜け、天井を抜け、眠っている生徒たちの胸へと降り注ぐ。
「……あ、あぁ……?」
取り押さえようとしていた教師たちが、その場に崩れ落ちた。
彼らの目から、ボロボロと涙が溢れ出している。
「悲しい……なぜだ……ずっと忘れていた……」
校舎の方からも、無数の叫び声が聞こえ始めた。
抑圧されていた何千人もの「心」が、一斉に蓋を開けられたのだ。
笑い声、怒号、慟哭。
それは、崩壊の音であり、再生の音だった。
「やったな、レン」
カイが、七色の光の雨の中で笑っていた。
彼からも今、鮮やかな黄金色のオーラが立ち上っているのが見える。
僕の手を見る。
僕の指先からは、刻一刻と色を変える、美しい虹色のオーラが溢れ出していた。
これが、僕だ。
これが、僕の心だ。
胸の奥が熱い。喉が詰まる。
視界が滲んで、色が混ざり合う。
僕は生まれて初めて、痛みのない涙を流した。
最終章 騒がしき夜明け
学園は、混沌の坩堝と化していた。
システムダウンした校舎。
感情の制御を失った生徒たちは、中庭に出て、殴り合い、抱き合い、泣き叫んでいる。
「好きだったんだ! ずっと!」
「許さない、絶対に許さない!」
「怖いよ、誰か助けて……」
理性のタガが外れた世界は、お世辞にも美しいとは言えなかった。
むしろ、地獄に近いかもしれない。
あまりにうるさく、あまりに無秩序だ。
瓦礫と化した天秤の前で、僕とカイはその喧騒を眺めていた。
砕け散ったクリスタルの破片が、朝焼けを浴びて宝石のように光っている。
「……ひどい有様だな」
僕が呟くと、カイは肩をすくめた。
「ああ。これが人間だ。面倒で、うるさくて、どうしようもない」
「僕たちは、パンドラの箱を開けたのかな」
「かもね。最後に『希望』が残ってるかどうかは、これから確かめるしかない」
僕は胸元に手をやった。
ペンダントはもうない。
でも、もう必要なかった。
隣にいるカイの感情が、手に取るように分かる。
そして、遠くで泣いている誰かの悲しみも、怒っている誰かの熱も、ダイレクトに肌に突き刺さる。
胸が痛い。
他人の感情が流れ込んでくるのは、こんなにも消耗するのか。
けれど、あの空虚な寒さに比べれば、この痛みはずっと愛おしい。
「さて、レン。これからどうする?」
カイが立ち上がり、朝日に向かって手を差し伸べてきた。
「分からない」
僕はその手を強く掴んだ。
温かかった。
血が通っている、人間の体温だ。
「分からないから、悩むんだ。迷うんだ。それが『生きる』ってことだろ?」
僕は涙の乾いた跡が残る頬を緩め、初めて心からの笑顔を作った。
「ああ。行こう、カイ。この騒がしい世界へ」
混沌とした叫び声が、新しい時代の産声のように響き渡る。
僕たちの物語は、ここからようやく色彩を帯びて始まるのだ。