第一章 無重力の転校生
僕が通う私立言の葉学園では、言葉に物理的な重さがあった。
それは比喩ではない。朝の挨拶、「おはよう」という軽い言葉は、綿毛のように相手の肩に舞い降りて心を温める。一方、不用意な悪口や嘘は、鉛の塊となって自分の鞄やポケットに溜まり、一日中その重さに苦しめられることになる。生徒たちは皆、自分の発する一言一句がもたらす物理的な影響を、肌で感じながら生きていた。廊下を歩けば、昨日誰かを傷つけたであろう生徒が、見えない重荷に背を丸めて喘いでいる姿も珍しくない。
僕、水瀬蒼(みなせあおい)は、この世界が少し苦手だった。僕には、他人の言葉の重さを、グラム単位で正確に感じ取れてしまう、少し厄介な才能があったからだ。誰かが放った三百グラムの嫉妬、二キログラムの偽りの賞賛、そして時には数トンにも及ぶ憎悪。それらが空気の密度を変え、僕の鼓膜を鈍く圧迫する。だから僕は、極力言葉を口にしなかった。自分の言葉が誰かを、あるいは自分自身を縛る重りになるのが怖かったのだ。薄っぺらな関係を保つために、僕はいつも羽のように軽い、当たり障りのない言葉だけを選んで吐き出した。
そんな灰色の日常に、彼女は現れた。
月島栞(つきしましおり)。春の風がまだ肌寒い四月の教室にやってきた転校生。彼女が自己紹介のために教壇に立った瞬間、教室の空気が変わった。
「はじめまして、月島栞です。これからよろしくお願いします」
その声は鈴が鳴るように澄んでいて、誰もが魅了された。クラスメイトたちの「よろしくね」という言葉が、期待を乗せた柔らかな質量となって彼女に降り注ぐ。だが、僕だけが気づいていた。彼女自身の言葉――その完璧な発音と美しい響きを持つ言葉には、全く、一ミリグラムの重さもなかったのだ。それはまるで、真空から響いてくる音のようだった。意味という核を完全に失った、空虚な振動。
それは、この学園の物理法則を根底から覆す、ありえない現象だった。僕は、ガラス細工のように美しい彼女の横顔から、目が離せなくなった。
第二章 軽やかさの浸食
栞は、あっという間にクラスの中心になった。彼女の言葉は常に軽やかで、人を傷つけない。どんな辛辣な陰口も、彼女の前ではふわりと浮力を失い、意味をなさなかった。彼女の周りにはいつも笑い声が絶えず、誰もがその「無重力」の心地よさに惹きつけられていった。
僕は、そんな彼女を遠くから観察し続けた。彼女が友人と交わす会話、教師への受け答え、そのすべてが無重力だった。褒め言葉も、感謝の言葉も、まるでヘリウムガスを吸い込んだ風船のように、ただ宙を漂い、誰の心にも留まることなく消えていく。それは、美しいが故に不気味だった。
違和感は、やがて確信に変わっていった。栞と親しくなった者たちの言葉から、徐々に重さが失われていくことに気づいたからだ。クラスで一番のおしゃべりだった女子は、以前ならキロ単位の熱量で語っていた趣味の話を、今では数グラムの空虚な単語でしか表現できなくなった。活発だった運動部のエースも、栞と話した後は、どこか夢の中にいるような、ぼんやりとした表情を浮かべるようになった。
まるで、彼女が周囲の人々の言葉から「意味」という名の重力を吸い取っているかのようだった。
ある日の放課後、僕は勇気を出して、一人で図書室にいた彼女に話しかけた。
「月島さん、君の言葉には、どうして重さがないんだ?」
僕の問いは、長年溜め込んできた不安と恐怖で、ずしりと重かった。少なくとも五キログラムはあっただろう。
栞は読んでいた本から顔を上げ、僕を見て、完璧な微笑みを浮かべた。
「水瀬くんの言葉は、いつも重たいのね。まるで、たくさんの石を抱えているみたい」
彼女の返答は、やはり無重力だった。僕の問いの重さを真正面から受け止めることなく、するりとかわしていく。
「重い言葉は、人を疲れさせるだけじゃないかしら。軽やかな方が、きっと楽しいわ」
そう言って彼女は笑う。その笑顔は春の陽光のように眩しいのに、僕の心には冷たい影が落ちた。彼女は理解していない。言葉の重さとは、そこに込められた感情や真心の重さだということを。そして、その重さこそが、僕たち人間を繋ぎ止める、唯一の楔なのだということを。
このままではいけない。学園全体が、彼女の無重力に飲み込まれてしまう。そんな焦燥感が、鉛のように僕の胸に沈み込んでいった。
第三章 言霊を喰らう者
事件は、文化祭の準備が佳境に入った頃に起きた。
栞を女神のように崇拝していた演劇部の部長、高橋が倒れたのだ。彼はクラスの出し物である演劇の脚本を担当し、連日、栞から「素敵ね」「才能があるわ」という無重力の賞賛を浴び続けていた。
医務室に運ばれた彼の口から発せられたのは、もはや言葉と呼べるものですらなかった。意味を失い、質量をなくした音の羅列。そして、彼の身体そのものも、まるで存在感が希薄になったかのように、ベッドのシーツに溶けてしまいそうに見えた。言葉の重さを失うことは、存在の重さを失うことと同義だったのだ。
僕は、もう黙ってはいられなかった。その日の夕暮れ、茜色に染まる屋上で、一人佇む栞を問い詰めた。
「高橋くんを、どうしたんだ。君がやったんだろう?」
僕の声は怒りと悲しみで震え、コンクリートの床にひびを入れるほどの重圧を伴っていた。
栞はゆっくりと振り返った。その表情からは、いつも浮かべていた完璧な微笑みが消え、底なしの空虚が広がっていた。
「……食べたの」
ぽつりと、彼女は言った。初めて、ほんの数ミリグラムの重さを持った言葉だった。
「食べた?何を……」
「言霊を。みんなの言葉に込められた、重たい感情を」
彼女は淡々と語り始めた。彼女は生まれたときから、自分の内側に「心」と呼べるものがなく、空っぽだったこと。自分の言葉を生み出すことができず、他人の言葉の重さ、つまり感情を吸収することでしか、自分の存在を繋ぎ止めることができなかったこと。
「美味しいのよ。喜びも、怒りも、悲しみも……全部、私の空っぽを満たしてくれる。でも、食べても食べても、私は満たされない。吸収した言葉は、すぐに消えてしまうから」
彼女は悪意を持ってそうしていたわけではなかった。それは、空腹の者が食べ物を求めるのと同じ、本能的な渇望だったのだ。彼女が振りまいていた軽やかな言葉は、獲物を誘うための甘い蜜に過ぎなかった。
衝撃的な告白に、僕は言葉を失った。僕は今まで、言葉の重さを恐れ、そこから逃げてきた。だが、彼女は、その重さを持たないが故に、永遠の渇きに苦しんでいた。
僕が忌み嫌っていた「重さ」こそが、人が人であることの証であり、生きる実感そのものだったのだ。その事実に打ちのめされ、僕の価値観はガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
空は、血を流すように燃えていた。僕たちは二人、言葉の重さという残酷な天秤の両端で、ただ立ち尽くしていた。
第四章 君に届ける、最初の言葉
目の前の少女は、美しい姿をした亡霊だ。他人の心を糧にしなければ、その輪郭すら保てない、悲しい存在。
僕はずっと、言葉の重さに怯えていた。人を傷つけること、自分を傷つけること。その責任から逃れるために、中身のない軽い言葉ばかりを選んできた。だが、それは彼女と同じではないか? 空っぽの言葉で、ただその場をやり過ごしてきただけだ。
違う。僕は違う。僕には、僕自身の心がある。
僕は、大きく息を吸い込んだ。肺が張り裂けそうになる。僕の全身全霊を、これから紡ぐ言葉に乗せるために。
「月島さん」
僕が呼びかけると、彼女の肩がびくりと震えた。
「僕は……君のことが、もっと知りたい」
不器用な言葉だった。飾り気もなく、洗練されてもいない。だが、それは僕の内側から絞り出した、紛れもない本心だった。ずしり、と空気が揺れる。数十キログラムはあろうかという、純粋な好奇心と関心。
栞の瞳が、初めて戸惑いの色に揺れた。
「僕の言葉を、君にあげる。僕がこれまで見てきたもの、感じてきたこと、考えてきたこと。その全部を、言葉にして君に伝えたい。君の空っぽを、僕の言葉で満たしてみたいんだ」
それはほとんど告白だった。僕が生まれて初めて、誰かに届けたいと心から願った言葉。その言霊は、もはや重さを測定できるような代物ではなかった。それは僕の存在そのものであり、僕の魂の質量だった。
僕の言葉は、見えない奔流となって栞に注がれた。彼女はよろめき、その場に膝をついた。
「……重い」
か細い声が漏れる。
「あなたの言葉……あたたかくて、重たい……」
彼女の頬を、一筋の雫が伝った。それは、彼女が初めて自らの内側から生み出した、確かな重さを持つ涙だった。その涙は、アスファルトの屋上に小さな染みを作り、僕の心にも、じんわりと温かい染みを広げた。
あの日を境に、学園が元通りになることはなかった。言葉の重さの価値観は、静かに、しかし確実に変容した。人々は、無闇に重い言葉をぶつけ合う愚かさと、軽すぎる言葉がもたらす空虚さを知った。
栞は、まだ時折、他人の言葉を吸収してしまうことがある。だが、そんなとき、僕は彼女の隣に座り、僕だけの言葉を、僕だけの物語を、彼女に与え続ける。
「今日は、空が青くて綺麗だと思ったよ」
羽毛のように軽い、けれど確かな芯のある言葉。
「君の流した涙を、僕は一生忘れない」
鉄のように重く、けれど決して彼女を傷つけない言葉。
僕たちは、互いの言葉の重さを確かめ合うように、ゆっくりと、丁寧に言葉を交わす。
言葉は、ときに人を縛る呪いとなり、ときに人を救う祝福となる。その危うくも美しい天秤の上で、僕たちはきっと、これからも生きていくのだろう。