第一章 インクの銃弾と一枚の写真
硝煙の代わりにインクの匂いが立ち込める戦場で、俺、ユキオは兵士だった。国家物語創作局、第三編纂室。そこが俺の塹壕であり、万年筆が俺の銃だった。この国、東国と、宿敵である西国との長きにわたる戦争は、物理的な破壊を伴わない。「物語戦争」と呼ばれる、静かで、しかし残酷な知性の殺し合いだ。我々編纂官が紡ぐ物語こそが、国民の士気を鼓舞し、敵国の心を砕く唯一の武器だった。
俺の書く物語は、常に勝利を収めてきた。英雄的な兵士が敵の非道な罠を打ち破る物語。故郷で帰りを待つ恋人の純粋な祈りが、前線に奇跡を起こす物語。インクを銃弾に変え、言葉を砲弾として放つ。国民は涙し、奮い立ち、俺たちの物語を現実の勝利だと信じた。俺も、それを信じていた。自分のペンが国を守っているのだという、熱い誇りが胸にあった。
その日も、新たな創作指令が分厚い資料と共にデスクに置かれた。今回の指令は「西国の食糧難に喘ぐ子供を利用した非人道的なプロパガンダを暴き、我が国の豊かさと正義を示す物語」。いつも通りの、胸糞の悪い、だが書き甲斐のあるテーマだった。資料のページを無感情にめくっていく。西国の経済指標、盗撮された配給所の写真、国民の不満を煽るためのキーワードリスト。その、無機質な紙の束の中に、それは紛れ込んでいた。
一枚の、色褪せた家族写真。
官製の資料とは明らかに違う、温かみのあるセピア色の印画紙。そこには、見知らぬ三人の親子が写っていた。背景は、西国の田舎町だろうか、素朴な煉瓦造りの家並みが見える。父親は少しはにかみながら娘を肩車し、母親は幸せそうに二人を見上げている。レンズに向けられた子供の屈託のない笑顔が、やけに眩しかった。
指が止まる。これはなんだ? 誰かの私物か、それとも新たな指令の一環か。しかし、写真の裏には何も書かれていない。創作資料の中に、こんなにも「生」の匂いがするものが混入していることなど、今まで一度もなかった。それは、統計データや分析報告書が並ぶこの部屋で、あまりにも場違いな存在だった。
上官に報告すべきか。一瞬迷ったが、俺はその写真をそっと抜き取り、引き出しの奥深くへとしまった。なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。ただ、あの家族の幸福な一瞬を、無機質な「資料」として処理されたくなかった。その小さな反逆に、自分でも気づかないほどの微かな罪悪感と、奇妙な高揚感を覚えた。
その夜、俺は指令通りの物語を書き始めた。ペンの滑りはいつも通り滑らかだった。しかし、頭の片隅で、あの子供の笑顔がちらついていた。俺が今まさに生み出そうとしている、西国の「飢えた哀れな子供」の姿と、写真の中の幸福な少女の姿が、どうしても重ならなかった。インクの匂いが、初めて血の匂いのように感じられた。
第二章 喝采の裏側の残響
俺の書き上げた物語、『最後のパン』は、絶大な効果を上げた。国営放送で、名優の声によって朗読されると、国民の反響は凄まじかった。西国の非道な食糧管理によって、姉のために最後のパンを盗み、処刑される幼い弟。その悲劇は、国民の敵愾心を燃え上がらせ、同時に自国の豊かさへの感謝と愛国心を強固にした。俺は局長から直々に褒賞を受け、若き天才編纂官としての名声を不動のものにした。
同僚たちの羨望の眼差し、上官の満足げな頷き。すべてが俺の自尊心をくすぐった。俺の言葉が、国を動かしている。このペン先から生まれる虚構が、現実の世界を形作っている。その全能感にも似た感覚は、麻薬のように甘美だった。
だが、夜が訪れ、一人きりで自室のベッドに横たわると、あの写真が脳裏に蘇る。引き出しの奥に隠した、あの家族の笑顔。喝采が大きければ大きいほど、その裏側で響く静かな残響が、俺の耳を苛んだ。
『最後のパン』で俺が描いた弟は、本当に存在したのだろうか。もちろん、しない。彼は俺が創り出した虚構だ。だが、西国にも、パンを分け合う兄弟はいるだろう。姉を愛する弟はいるだろう。そして、写真の中の少女のように、ただ笑って生きている子供たちがいるはずだ。俺は、その名もなき無数の存在を、たった一つの物語で塗り潰してしまったのではないか。
その疑念は、日に日に俺の中で黒い染みのように広がっていった。俺は、禁じられている西国のプロパガンダ放送に、密かに耳を傾けるようになった。短波ラジオのノイズの向こうから聞こえてくるのは、俺たちの国の物語と構図が反転しただけの、悲痛な物語だった。東国の兵士に家族を奪われた少女の話。我々の空爆(もちろん、物語の中だけの架空の爆撃だ)で瓦礫の山となった街の話。彼らの言葉もまた、真実味を帯びて、聞く者の心を揺さぶった。
どちらが本当で、どちらが嘘だ?
答えは分かっている。どちらも嘘だ。どちらも、国民を操るために創られた虚構だ。だが、物語が描く悲しみや怒りは、本物のように人々の心に突き刺さる。俺たちは、存在しない悲劇を量産し、架空の憎しみを育て、互いの国民に毒を飲ませ合っているのだ。俺は、自分が世界で最も卑劣な毒の作り手なのではないかと感じ始めた。引き出しの奥の写真は、まるで俺の罪を見つめる証人のように思えた。
第三章 虚構の犠牲者
俺は、もう限界だった。あの写真の正体を突き止めなければ、前に進めない。俺は編纂官の特権を利用し、深夜、局の最深部にある統合情報データベースにアクセスした。本来、個別の創作指令以外の情報に触れることは、国家への反逆と見なされる重罪だ。指先が冷たく震えるのを感じながら、俺は写真の背景に写っていた教会の尖塔の形状、煉瓦の色、通りの名前と思しき看板の文字を検索クエリに入力した。
数分間の、心臓が凍るような沈黙の後、データベースは一つのファイルを吐き出した。
プロジェクト名『リアリティ・インフュージョン(現実注入)計画』。
それは、数年前にごく一部の幹部だけで極秘に進められた実験の記録だった。内容は、俺の想像を絶するほどに冷酷で、非人道的だった。
『敵国一般市民の個人情報を抽出し、それを基に物語の骨子を構築。対象の生活、人間関係、性格などを物語に反映させることで、プロパガンダのリアリティと感情的影響力を飛躍的に向上させることを目的とする』
俺は息を呑んだ。ファイルを開くと、数組の家族の個人情報がリストアップされていた。そして、その中に、見覚えのある家族のデータがあった。父親の名はレオン、母親はソフィア、そして娘の名は、リナ。あの写真の家族だ。
震える手でスクロールを続けると、俺の全身から血の気が引いていくのが分かった。この家族をモデルにした物語が、過去に創られていた。そして、その物語の担当編纂官は――俺自身の名前だった。
三年前、俺がまだ新米だった頃に書いた出世作、『裏切りの種』。西国の善良なパン職人が、実は東国に情報を売るスパイで、幼い娘を隠れ蓑に使っていたが、最後には英雄的な我が国の諜報員によって正体が暴かれ、隣人たちから石を投げつけられて追放される、という物語だ。
記録は、その物語が発表された後の、レオン一家の「経過観察報告」へと続いていた。
物語が西国にリークされると(それも計画の一環だった)、パン職人だったレオンは、周囲からスパイだと疑われるようになった。隣人たちは彼を避け、店には客が来なくなった。壁には「売国奴」と落書きされ、娘のリナは学校でいじめに遭った。彼らは何度も無実を訴えたが、物語の力は現実を凌駕した。人々は、俺が創った虚構を真実だと信じ込んだのだ。
そして、報告書の最後の一文が、俺の心を完全に破壊した。
『対象家族は、民衆のリンチにより居住区を追われ、その後の消息は不明。社会的抹殺は成功と判断。本計画の有効性を確認』
吐き気が込み上げてきた。俺の、ペンが。俺の、言葉が。ただ幸せに笑っていただけの、実在の家族を、地獄に突き落とした。彼らは物語の登場人物ではなかった。生身の人間だったのだ。あの写真は、彼らを「素材」として選んだ時に撮影されたものだった。そして、それを俺の資料に紛れ込ませたのは、おそらく、この非道な計画を主導し、俺の才能を高く評価していた、あの上官に違いなかった。俺の才能を試すために? それとも、俺を共犯者にするために?
どちらにせよ、もうどうでもよかった。俺が信じていた正義も、誇りも、すべてが崩れ落ちた。俺は殺人者だ。インクで人を殺す、卑劣な殺人者だ。引き出しの奥の写真を取り出すと、リナの笑顔が、俺を責めているように見えた。
第四章 どちらの空も同じ青
俺は、最後の物語を書くことに決めた。
それは、英雄も悪党も出てこない物語。国威発揚も、敵国への憎悪もない物語。ただ、西国のとある町でパンを焼く男と、その妻と、歌うのが好きな娘の、ささやかな日常の物語だった。
俺はレオンが毎朝パンをこねる音を、ソフィアが窓辺で花に水をやる姿を、リナが覚えたての歌を口ずさみながらスキップする様子を、祈るように書いた。彼らの朝食のテーブルに昇る陽の光を、焼きたてのパンの香りを、家族の笑い声を、俺の持てるすべての言葉を尽くして描いた。俺が奪ってしまった彼らの日常を、せめて物語の中でだけでも取り戻したかった。それは贖罪であり、反逆だった。
物語の最後を、俺はこう締めくくった。
「彼らは、特別な人間ではなかった。英雄でもなければ、売国奴でもない。ただ、あなたと同じように、愛する家族がいて、ささやかな幸せを願い、同じ空の下で生きていた。彼らが見上げる空の色は、私たちの国の空と、何も変わらない青だった」
原稿を書き終えた俺は、局の地下にある緊急放送システムに侵入した。このシステムは、物語戦争で万が一、我が国が敗北寸前になった時、最後の抵抗として、敵国のあらゆる電波をジャックするために作られたものだ。皮肉なことに、俺はそれを、自国への「最後の抵抗」のために使う。
警報が鳴り響き、廊下を駆けてくる複数の足音が聞こえる。ドアが激しく叩かれ、上官の怒声が響く。「ユキオ!何をしている!やめろ!」
俺は、彼らを無視して、放送開始のボタンを押した。
マイクに向かい、震える声で、俺は自分の物語を読み始めた。俺の声は、東国と西国、両国のすべてのラジオとテレビから、同時に流れ始めた。
人々は混乱しただろう。いつもの勇ましい物語でも、悲痛な物語でもない、あまりにも静かで、平凡な家族の物語。しかし、その物語には、憎しみも恐怖も、嘘もなかった。
俺が物語を読み終えるのと、屈強な男たちがドアを破って部屋に飛び込んでくるのは、ほぼ同時だった。俺は、何の抵抗もせず、彼らに腕を掴まれた。連行される途中、俺は窓の外を見た。空は、どこまでも澄んだ青色だった。
その後、俺がどうなったのか、誰も知らない。
しかし、あの放送を境に、何かが少しだけ変わった。両国のプロパガンダ放送は、以前のような扇情的な力を失い、人々は物語を少しだけ疑うようになった。憎しみの言葉の応酬の中に、ほんのわずかな沈黙が生まれた。
そして時折、誰かの家のラジオから、ノイズ混じりで、あの物語の断片が流れるという。
「そこには、ただ、父がいて、母がいて、子が笑っていた。空の色は、どちらの国でも同じ青だった」
その声が、虚構の戦争が終わる日の、始まりの合図だったのかもしれない。