不協和音のレクイエム

不協和音のレクイエム

0 6131 文字 読了目安: 約12分
文字サイズ:

第一章 沈黙に沈むソナタ

世界から音が消え始めたのは、三年前の春だった。

それは、空襲警報のようなけたたましい音と共に訪れる破壊ではなかった。むしろ、その逆だ。ある朝、レオが目を覚ますと、窓の外でさえずっていたはずの小鳥の声が聞こえなくなっていた。次に、風が梢を揺らす音。雨がアスファルトを叩く音。ひとつ、またひとつと、世界の構成要素であった音が、まるでインクが水に滲んで消えるように、静かに失われていった。

人々はそれを「沈黙爆弾」と呼んだ。敵国、東方連合が開発したという新型兵器。物理的な破壊を伴わず、特定の周波数の音だけを選択的に消し去るのだという。最初に消えたのは高周波の自然音。やがてそれは中音域にまで及び、人間の声から抑揚を奪い、楽器の音色を骨抜きにした。

元ピアニストであるレオにとって、それは死刑宣告に等しかった。彼の指は今もショパンのノクターンを記憶している。だが、鍵盤を叩いても、そこに生まれるのは空気の振動を伴わない、くぐもった打鍵音だけ。かつてホールを満たした豊潤な倍音も、魂を震わせた美しい旋律も、もはや再現不可能だった。音楽は死んだのだ。人々は表情を失い、会話は用件を伝えるだけの無機質な記号の羅列と化した。街は、まるで巨大な真空の箱庭だった。

レオは来る日も来る日も、使われなくなったグランドピアノの前に座り、音のしない鍵盤に指を滑らせていた。頭の中で、かつて自分が奏でた音を反芻する。だが、その記憶さえも、日を追うごとに輪郭がぼやけ、色褪せていく。あの時、聴衆の拍手を浴びながら感じた高揚感。師に褒められた時の、誇らしさで胸が熱くなる感覚。そのすべてが、音の喪失と共に遠ざかっていく。彼は、自分という存在そのものが、この静寂に溶けて消えてしまうのではないかという恐怖に苛まれていた。

そんな絶望の日々が続いていたある夜のことだ。レオは埃をかぶった古い短波ラジオのダイヤルを、意味もなく回していた。聞こえるのは砂嵐のノイズだけ。それすら、かつての荒々しさを失い、弱々しく途切れている。諦めて電源を切ろうとした、その瞬間だった。

―――ピ、ポ、ポロロ……ン。

ノイズの狭間に、微弱な音が紛れ込んだ。それは、単なる信号音ではない。澄み切った、純粋な音階。消されたはずの周波数で構成された、短いメロディだった。それはまるで、厚い雲の切れ間から差し込んだ一筋の光のようだった。レオは息を呑み、ラジオに顔を寄せた。メロディは数秒で途切れ、再び砂嵐のノイズに掻き消された。しかし、彼の耳には、心には、確かにその音が焼き付いていた。

あれは、何だ? 敵の暗号か? それとも、誰かが音を取り戻したのか?

どちらにせよ、それは希望だった。音が存在する場所が、この世界のどこかにある。その事実だけで、レオの凍てついていた心臓は、忘れかけていた熱を取り戻し、激しく鼓動を始めた。彼はピアノの蓋を乱暴に閉めると、決意を固めた。あの音の正体を突き止める。そのためなら、どんな危険も厭わない。この沈黙の世界に、もう一度音楽を響かせるのだ。レオは、錆びついた世界の扉をこじ開けるため、自ら戦場へと足を踏み入れることを選んだのだった。

第二章 錆びついた音叉

軍への志願は、意外なほどあっさりと認められた。元ピアニストという経歴と、絶対音感に近い鋭敏な聴覚(それは彼自身が主張したもので、もはや証明する術はなかったが)が評価され、レオは通信部隊に配属された。任務は、敵性通信の傍受と、「沈黙兵器」のメカニズム解明の糸口を探ること。あの夜に聴いた謎のメロディについて報告すると、上官は眉をひそめながらも、それを最優先の調査対象とした。

前線は、レオの想像を絶する場所だった。しかし、その過酷さは轟音や絶叫によるものではない。むしろ、異常なほどの静寂が支配していた。砲弾が炸裂しても、鼓膜を破るような衝撃音は響かない。「ドスン」という鈍い地響きと、土煙が上がるのが見えるだけだ。兵士たちの怒号も、くぐもった呻きのようにしか聞こえない。彼らの顔からは表情が抜け落ち、瞳は感情の光を失っていた。声の抑揚が消えたことで、彼らは互いの感情を読み取ることができなくなり、コミュニケーションは命令と報告の応酬に終始していた。

レオはヘッドフォンを装着し、来る日も来る-日もダイヤルを回し続けた。彼の耳だけが、この静寂の世界で機能する最後の音叉だった。彼は、仲間たちが「ただのノイズだ」と切り捨てる微弱な電波の中から、意味のあるパターンを探し続けた。

「レオ、またお祈りの時間か」

背後から声をかけたのは、分隊長のセルジュだった。彼は数少ない、声に微かな感情の残滓を留めている男だった。レオはヘッドフォンをずらし、振り返った。

「祈りではありません。聴いているんです」

「聞こえもしない音をか? 悪趣味なもんだ」

セルジュはそう言ってレオの隣に腰を下ろした。彼の顔には深い疲労が刻まれている。

「昔は、故郷の歌を歌って士気を上げたもんだ。今じゃ、誰も歌い方を思い出せねえ。メロディを口ずさんでも、それが正しいのかどうか、誰にも分かりゃしねえんだ」

その言葉は、レオの胸に深く突き刺さった。失われたのは、音楽だけではない。故郷の記憶、仲間との絆、人間を人間たらしめていた感情の機微そのものが、この沈黙の中で風化しつつあった。自分は、ただ自分のピアノを取り戻したいという自己満足のために、ここに来たのではないか。その考えが、レオを罪悪感で苛んだ。

数週間が過ぎたある日、ついにその瞬間が訪れた。いつものように砂嵐のノイズに耳を澄ましていると、あのメロディが再び聞こえてきたのだ。前回よりも鮮明で、長い。それは、まるで赤ん坊をあやす子守唄のような、優しく、そしてどこか物悲しい旋律だった。レオはすぐさま方位探知機を起動させ、発信源のおおよその位置を特定した。

「敵陣の、さらに奥……セクター・ガンマだ」

報告を受けた上官の顔がこわばった。セクター・ガンマは、敵国の中枢施設があるとされる最重要警戒区域だった。これまでの偵察部隊は、誰一人として帰還していない。

「危険すぎる。だが、行くしかない」

作戦が決まった。レオを案内役とした少数精鋭の潜入部隊が編成される。目的は、発信源の破壊。レオの本当の目的は破壊ではなかったが、それを口に出すことはできなかった。彼はただ、あの音の源へたどり着きたかった。音の真実を知りたかった。

漆黒の闇の中、レオたちは敵陣深くへと潜行した。静寂が、かえって神経をすり減らす。仲間たちの荒い息遣いさえ聞こえない。自分の心臓の音だけが、頭蓋の内側で不気味に響いていた。やがて、巨大なドーム状の建造物が姿を現した。ここが発信源に違いない。レオは、固唾を飲んで、その異様な建造物を見上げた。

第三章 調和のプリズン

潜入は、驚くほど容易だった。厳重な警備網を想像していたレオの予測は外れ、ドームには最小限の警備兵しか配置されていなかった。彼らはまるで眠っているかのように虚ろな目で宙を見つめている。レオたちは音もなく彼らを無力化し、重い鋼鉄の扉を開けて内部へと侵入した。

息を呑むような光景が、そこに広がっていた。

そこは、兵器工場でも、司令部でもなかった。巨大なコンサートホールだった。幾重にも円を描く観客席、ステージ中央に鎮座する指揮台、そして天井から吊り下がる、無数のクリスタルのような集音装置。そのすべてが青白い光を放ち、荘厳で、神聖な雰囲気さえ醸し出していた。

「……なんだ、ここは」セルジュが呆然と呟いた。

その時だった。ホールの中心、指揮台に立つ一人の老人が、ゆっくりとこちらを振り向いた。痩身で、白髪を長く伸ばしたその男は、軍服ではなく、燕尾服をまとっていた。彼は、まるで待ち望んだ客人を迎えるかのように、穏やかな笑みを浮かべていた。

「ようこそ、音楽家。君が来るのを待っていた」

老人の声には、失われたはずの豊かな抑揚があった。レオは警戒しながらも、一歩前に進み出た。

「あなたは誰だ? ここは何なんだ? あなたたちが、世界から音を奪ったのか」

「奪ったのではない。収集しているのだよ」老人は静かに答えた。「私はマエストロ・アリア。そしてここは、『調和兵器』アルモニア。世界を救うための、巨大な楽器だ」

マエストロ・アリアと名乗る老人は、信じがたい事実を語り始めた。彼らが開発した兵器は、音を「消す」ものではなかった。世界中の「不協和音」を、このホールに集めていたのだ。争いの声、兵器の轟音、人々の嘆き、憎悪に満ちた言葉――それらすべてを争いのエネルギーと定義し、特殊な周波数変換によって吸収していた。世界が静かになったのは、その副作用に過ぎなかった。

「人類は、自らが発する不協和音によって自滅する。私はそれを止めたかった」アリアは指揮棒を手に取り、ゆっくりと語る。「このアルモニアは、収集した不協和音を浄化し、純粋な調和の取れたエネルギーに変換する。君がラジオで聴いたメロディは、その浄化の過程で生まれる、いわば調和の産声だ。やがて、この世界からすべての不協和音が消え、完全なる調和――究極の静寂による平和が訪れる」

レオは愕然とした。では、音楽はどうなるのか。彼が愛したピアノの音色は?

「音楽もまた、感情を煽り、時に人を争いへと駆り立てる。喜び、悲しみ、怒り……それらはすべて不協和音の種子だ。真の平和のためには、それらもまた、浄化されるべきなのだよ」

アリアの瞳は、狂信者のそれだった。彼は平和という大義のために、人間の感情そのものを世界から消し去ろうとしていたのだ。レオが取り戻そうとしていた音は、彼にとっては排除すべき不協和音でしかなかった。絶望がレオの全身を貫いた。自分たちは、平和を希求する狂気の理想と戦っていたのだ。

「そんなものは、平和じゃない!」レオは叫んだ。「それは、ただの無だ! 心の死だ!」

「若き音楽家よ」アリアは悲しげに首を振った。「君にはまだ、不協和音の恐ろしさが分かっていない」

その瞬間、アリアが指揮棒を振った。天井のクリスタルが一斉に輝き、ホール全体に、レオがラジオで聴いたあの澄み切ったメロディが、大音量で響き渡った。それは美しかった。あまりにも完璧で、純粋で、一点の曇りもない調和の音。だが、その音を聴いていると、次第に思考が白く塗りつぶされていくような感覚に襲われた。感情が麻痺し、闘争心も、恐怖も、喜びさえもが消えていく。仲間たちが、次々とその場に膝をつき、虚ろな表情になっていくのが見えた。これが、アリアの目指す平和の正体だった。

第四章 世界に捧ぐアンコール

意識が遠のいていく。レオもまた、その完璧な調和の音の前に、なすすべもなく心を侵食されかけていた。もうどうでもいい。争いも、音楽も、すべてが無に帰せば、楽になれるのかもしれない。そんな諦念が、彼の心を支配しようとした、その時。

彼の脳裏に、ふと、ある光景が蘇った。それは、彼が初めてピアノのコンクールで入賞した日、舞台袖で師匠に言われた言葉だった。

『いいかね、レオ君。完璧な演奏なんてものは存在しない。ほんの少しのズレ、予定調和を裏切る瞬間のきらめき、そこにこそ魂は宿るのだ。不協和音を恐れてはいけない。それを受け入れ、乗り越えた先にこそ、真の音楽がある』

そうだ。不協和音。それこそが、命の証なのだ。

レオは最後の力を振り絞り、ステージの隅に置かれていた一台の古いピアノへと、よろめきながら向かった。それは、このホールで唯一、集音装置に繋がれていない、ただの楽器だった。彼は椅子に倒れ込むように座り、鍵盤に指を置いた。

何を弾く? 頭の中は、アリアの調和の音で満たされている。記憶の旋律は、ほとんど消えかかっている。だが、彼は指を動かした。記憶の底の底から、感情の澱をかき集めるように。

弾き始めたのは、ショパンでもベートーベンでもない。彼が子供の頃、母親が歌ってくれた、調子っぱずれの子守唄だった。不格好で、単純で、お世辞にも美しいとは言えないメロディ。だが、そこには彼の原体験が、温かい記憶が、愛という不合理な感情が込められていた。

ド、レ、ミ……ファ#……。

その不協和音が鳴り響いた瞬間、ホールを支配していたアリアの調和のメロディが、僅かに揺らいだ。アリアの穏やかだった表情が、初めて驚愕に歪む。

「やめろ! その汚れた音を出すな!」

レオは構わず弾き続けた。次に弾いたのは、初めての恋に破れて、泣きながら作った拙い曲。友人たちと馬鹿騒ぎをしながら、デタラメに奏でたジャズ。喜び、悲しみ、怒り、後悔。彼の人生そのものが、不協和音の連続だった。その一つ一つを、鍵盤に叩きつける。

レオの不完全な音楽は、アルモニアの完璧なシステムにとって、予測不能なバグだった。純粋な調和で満たされた空間に投じられた、強烈な異物。天井のクリスタルが明滅を始め、甲高いノイズを発する。アリアが制止しようと叫ぶが、もう遅い。レオの音楽に共鳴するように、アルモニアが収集していた世界中の不協和音が、堰を切ったように解放され始めたのだ。

ゴオオオオオッ!

最初に聞こえたのは、風の音だった。そして、遠雷の響き、波の打ち寄せる音。続いて、兵士たちの怒声、爆発音、赤ん坊の泣き声、人々の笑い声、市場の喧騒、けたたましいクラクション。ありとあらゆる混沌とした音が、洪水となってホールになだれ込み、世界へと還っていく。

レオは鍵盤から指を離し、その音の奔流に身を委ねた。それは決して心地よいものではない。耳を覆いたくなるような、醜い音も混じっている。だが、それは間違いなく、「生きている」世界の音だった。虚ろだった仲間たちの瞳に、困惑と、そして生命の光が戻ってくるのが見えた。

マエストロ・アリアは、指揮台に立ち尽くし、その混沌を呆然と聴いていた。彼の理想は、崩れ去った。しかし、その顔には不思議と、安堵のような表情が浮かんでいた。

戦争は、まだ終わらないだろう。世界には再び憎しみの声が満ち、人々は傷つけ合うかもしれない。だが、同時に、愛を囁く声も、子供をあやす歌声も戻ってきたのだ。

瓦礫と化したホールの外に出たレオは、空を見上げた。戻ってきた風が、彼の頬を撫でる。遠くから、誰かが歌う、調子外れの歌が聞こえてきた。彼はもう、完璧なピアニストとして舞台に立つことはないかもしれない。しかし、彼は理解していた。不協和音を抱きしめること。不完全さを受け入れること。それこそが、この混沌とした世界で生きていくということなのだと。

完全な調和とは、果たして平和なのか。不協和音と共存する道はないのか。答えのない問いを胸に、レオは、再び音を取り戻した世界の、その不完全で愛おしい響きに、静かに耳を澄ませていた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る