沈黙の叙事詩

沈黙の叙事詩

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***第一章 インクの硝煙***

前線からインクの匂いがする。硝煙の代わりに、湿った紙と乾いたインクの入り混じった、知的で、それでいてひどく暴力的な香りが、塹壕に満ちていた。僕、リオ・アシュフィールドは「物語兵」だ。この国で最も新しい、そして最も残酷な兵科に所属している。

僕たちの武器は銃でも剣でもない。ペンと、言葉だ。僕たちが紡ぐ物語は、特殊な周波数に乗せられて敵の精神に直接流れ込み、その士気を根底から破壊する。英雄譚は味方を鼓舞し、悲劇は敵を絶望させ、風刺は敵の指導者を無力な道化に変える。物理的な死者は出ない。だが、心は確実に死んでいく。人々はこの終わりなき消耗戦を「概念戦争」と呼んだ。

その日、僕はまた一つ、武功を上げた。僕が書き上げた『鋼鉄の心を持つ伍長』の物語は、膠着していた東部戦線を動かすことに成功した。物語が配信されると、敵の通信網からは悲鳴の代わりに、自らのイデオロギーを疑う混乱した呟きが溢れ出したという。司令部からの称賛は心地よかった。僕は、この力で戦争を早期に終わらせ、平和を取り戻せるのだと、心の底から信じていた。自分の言葉が、正義の刃なのだと。

だが、その夜、僕の個人端末に一通の奇妙な電文が届いた。敵性領域から発信された、暗号化されていない、たった三行のテキストだった。

「星のひとかけらを掬う。
 君の手のひらは、夜の湖。
 零れる光は、誰の涙か。」

それは物語ではなかった。プロパガンダ特有の扇動的な響きもない。ただ静かで、透明で、そして底知れないほどの哀しみを湛えた詩だった。解析班は意味のない文字列か、新型の精神攻撃のプロトタイプだろうと結論づけた。だが、僕にはそうは思えなかった。その三行は、僕の心の最も柔らかな部分に、小さな棘のように静かに突き刺さった。僕がこれまで書いてきた、勝利と栄光に満ちたどの物語よりも、その短い詩の方が、よほど雄弁に何かを語りかけてくるような気がしてならなかった。

***第二章 褪せたインクの色***

僕の言葉は、さらに鋭利になっていった。司令部の要求はエスカレートし、僕はより直接的で、より破壊的な物語を書くようになった。敵の兵士たちが愛する故郷の伝承を歪め、彼らの信じる神々を冒涜する物語を紡いだ。僕のペン先から生み出された言葉は、敵兵の精神を蝕む毒となり、彼らのアイデンティティを内側から崩壊させていった。

戦果は劇的だった。東部戦線は完全に沈黙し、僕の名前は救国の英雄として新聞の一面を飾った。しかし、僕の心は日に日に重くなっていった。勝利の喧騒の中で、僕はいつもあの三行詩を思い出していた。「零れる光は、誰の涙か。」

ある日、僕は捕虜になった敵国の「物語兵」と話す機会を得た。彼はまだ若く、僕と同じくらいの歳に見えた。憔悴しきってはいたが、その瞳には静かな光が宿っていた。僕が書いた物語で心を壊され、保護されたのだという。

「君の物語は、見事だった」と彼は掠れた声で言った。「まるで美しいガラス細工だ。だが、その破片はどこまでも鋭く、人の心を切り刻む」
僕は何も言い返せなかった。
「我々も、かつては君たちと同じだった」と彼は続けた。「言葉の力で、敵を屈服させられると信じていた。だが、気づいたんだ。憎しみを煽る言葉は、語る者の魂をも同じように蝕んでいく。インクが黒いのは、我々の心の闇を吸い取っているからかもしれないな」

彼の言葉は、僕が心の奥底で感じていた不安を的確に抉り出した。僕は本当に、世界を救っているのだろうか。それとも、ただ憎しみの連鎖に、より強力なインクを注ぎ込んでいるだけではないのか。僕の紡ぐ英雄譚の裏側で、名もなき人々の心が、音もなく砕けていく。その破片が、僕の足元に降り積もっている。僕は、そのガラスの破片の上を、裸足で歩いているような気分だった。

夜、眠れずに自室でペンを握る。だが、もう何も書けなかった。紙に向かうと、これまで自分が殺してきた無数の「心」の呻きが聞こえてくるようだった。インクの匂いが、死臭のように鼻についた。僕の言葉は、色を失っていた。

***第三章 星を掬う手***

戦局は最終段階に突入した。敵国は、首都中枢に向けて最大規模の「物語兵器」を発信するという最終通告を出してきた。司令部はパニックに陥った。それは、国民全ての精神を一度に破壊する、究極のプロパガンダに違いない。

その迎撃という、国の命運を賭けた任務が、僕に与えられた。僕が書き上げる「反論叙事詩」で、敵の物語を相殺し、無力化するのだ。もう書けない、と叫びたかった。だが、僕がやらなければ、この国が終わる。僕は震える手でペンを握りしめ、魂を削るようにして、憎悪と欺瞞に満ちた言葉を書き連ね始めた。これまで僕が培ってきた、人の心を最も効率的に破壊する技術の、その全てを注ぎ込んで。

決行の時刻。敵の物語が、巨大な電波塔から放たれる。僕たちの迎撃システムが、その構造を解析するモニターに、無数の文字列が流れ始めた。僕は息を飲んだ。それは、僕が想像していたような、扇動的で攻撃的な文章ではなかった。

『――北の村の少年アランは、星を見るのが好きだった。彼は毎晩、小さな望遠鏡で、いつか自分の星を見つけたいと願っていた。彼の夢は、天文学者になることだった。だが、徴兵令状が届き、彼はペンを銃に持ち替えさせられた。いや、我々の国では、ペンは銃よりも恐ろしい武器だった――』

それは、叙事詩だった。しかし、英雄の物語ではなかった。この長い戦争で死んでいった、両国の、名もなき兵士たち一人ひとりの物語だった。パン屋の息子、恋人に手紙を書いていた青年、娘の成長だけが楽しみだった父親。彼らのささやかな夢、愛、そして戦争によって無残に断ち切られた人生が、静かで、慈しみに満ちた筆致で、淡々と綴られていく。

そこには敵も味方もなかった。ただ、失われた命への深い哀悼があるだけだった。それは憎しみを煽るのではなく、憎しみの虚しさを悟らせる物語だった。僕たちが忘れようとしていた、あるいは見ないふりをしてきた一人ひとりの顔が、そこにはあった。

司令部が呆然とする中、僕は気づいた。あの三行詩だ。「星のひとかけらを掬う」。彼らは、夜空からこぼれ落ちた無数の星々――名もなき兵士たちの魂を、その物語で掬い上げようとしていたのだ。そして、その手は「夜の湖」、つまり僕たち敵国の兵士の心をも映し出す鏡だったのだ。「零れる光は、誰の涙か。」――それは、敵味方の区別なく、この戦争で流された全ての涙のことだった。

敵の目的は、勝利ではなかった。彼らは、破壊によってではなく、共感によってこの戦争を終わらせようとしていたのだ。

***第四章 沈黙に咲く言葉***

僕の指は、迎撃システムの送信ボタンの上で凍りついていた。僕が用意した憎悪の塊のような物語を、この静かな鎮魂歌にぶつけることなど、到底できなかった。それは、夜空に輝く満月に向かって、泥を投げつけるような行為に思えた。

周りを見渡すと、他のオペレーターたちも同じだった。誰もがモニターに映し出される物語に釘付けになり、その目には涙が浮かんでいた。塹壕の兵士たちも、敵の司令部の人間たちも、きっと今、同じ物語を読んでいるのだろう。同じように、心を揺さぶられているのだろう。

僕は、用意していた原稿を破り捨てた。そして、新しい紙に、たった数行の言葉を綴った。それは僕の「反論」であり、そして生まれて初めて書く、僕自身の「祈り」だった。

「掬われた星が、空に還る。
 夜明けの湖は、涙を映さない。
 君の手のひらに、新しい光を。」

僕はそれを、迎撃用の回線ではなく、全ての兵士に届く公開回線で送信した。それは敵の叙事詩に対する、僕からの返歌だった。

やがて、戦線は沈黙に包まれた。銃声も、怒号も、そして物語の配信も、すべてが止んだ。インクの硝煙が晴れた戦場に、気まずく、しかし確かな静寂が訪れた。戦争は、終わったのだ。一人の英雄の勝利によってではなく、無数の名もなき人々の痛みを、敵と味方が分かち合ったことによって。

僕は物語兵を辞めた。僕の言葉は、もう誰かを傷つけるためには使えない。これから僕が紡ぐべきは、勝利の物語ではない。忘れられた人々のための、小さな物語だ。あの叙事詩のように、誰かの心の片隅で静かに光る、星のような物語を書いていきたい。

インクの匂いは、もう死臭のようには感じなかった。それは、これから生まれる新しい物語の、始まりの匂いがした。僕の手のひらには、まだ何も書かれていない真っ白なページが広がっている。そこに、どんな光を灯すことができるだろうか。その問いだけが、僕の進むべき道を、静かに照らしていた。

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あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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