沈黙のレクイエム

沈黙のレクイエム

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第一章 音の降る戦場

空から降ってくるのは、鉄の雨ではなかった。言葉の礫(つぶて)だった。

共和国軍特殊部隊『静寂の運び手(サイレント・キャリアー)』に所属する僕、カイの任務は、沈黙を運ぶことだ。背中に固定された銀色のケースには、最新鋭の指向性音響兵器――『破壊の言霊』が封じ込められている。起動すれば、半径二百メートル以内の敵兵の精神を、意味不明の音の洪水で汚染し、戦闘不能に陥らせるという。

僕がこの部隊に選ばれた理由は、たった一つ。僕には声がないからだ。

幼い頃の事故で声帯を損傷して以来、僕の世界から「発する」という行為が消えた。皮肉なことに、言葉が兵器となったこの時代において、僕の沈黙は最強の盾となった。敵国――連邦が放つ『呪言』は、意味を理解する脳の領域に直接作用する。だが、言葉を紡ぐことを忘れた僕の精神は、その攻撃に対して異常なまでの耐性を示したのだ。

前線は、地獄の合唱だった。耳を特殊なフィルターで覆っていても、骨を震わせる不快な音波が絶え間なく襲ってくる。「憎悪」「絶望」「虚無」。そういった負の概念を凝縮したような連邦の言葉が、閃光と共に炸裂する。兵士たちが耳を塞ぎ、意味をなさない叫び声を上げて倒れていく中、僕はただ静かに、その音の嵐をやり過ごす。僕にとって、それはただの耳鳴りの延長でしかなかった。

今回の目標は、敵の前線基地『鷲ノ巣』。天然の岩壁に築かれた難攻不落の要塞だ。そこへ忍び込み、銀色のケースを設置し、起動させる。それが僕の全てだった。

ぬかるんだ塹壕を進む。硝煙と血の匂いに混じって、焦げた土の匂いが鼻をついた。時折、風景がぐにゃりと歪む。強力な呪言の余波だ。僕はただ、背中のケースの冷たい感触だけを意識し、一歩、また一歩と足を前に運んだ。僕の沈黙は、兵器を運ぶためのただの器。僕自身の意志など、この音の降る戦場では何の価値もなかった。そう、信じていた。あの旋律に出会うまでは。

第二章 異邦の旋律

『鷲ノ巣』まであと数キロの森林地帯。作戦では存在しないはずの、小さな集落の廃墟に迷い込んだ。そこで僕は、彼女を見つけた。

瓦礫に寄りかかり、脚から血を流している若い女兵士だった。連邦の軍服。敵だ。彼女は僕の姿を認めると、咄嗟に小銃を構えようとしたが、その力なく腕は垂れた。その唇が、か細く動く。何かを言っている。おそらくは、連邦の呪言だろう。僕を殺すための、最後の言葉。

しかし、僕の耳に届いたのは、意味の分からない、だが驚くほど穏やかな響きだった。まるで、風が葦の葉を揺らすような、優しい音色。僕は警戒もせず、ゆっくりと彼女に近づいた。彼女の瞳が、恐怖と驚きに見開かれる。声も出さず、呪言の影響も受けずに歩いてくる僕が、不気味な存在に映ったのだろう。

僕は彼女の前に膝をつき、自分の背嚢から救急キットを取り出した。彼女は身を固くしたが、僕は構わず、その傷口に消毒液を染み込ませた布を当て、手際よく包帯を巻いていく。痛みにか、彼女の口から再び言葉が漏れた。

それは、やはり呪いではなかった。聞いたこともない言語のはずなのに、不思議と悲しみが伝わってきた。故郷の名を呼んでいるのだろうか。それとも、家族の名か。僕は何も言わず、ただ黙々と治療を終えた。

立ち去ろうとした僕の服の裾を、彼女が弱々しく掴んだ。そして、懐から小さな、革張りの本を差し出した。受け取れ、ということらしい。僕は一瞬ためらったが、その必死な眼差しに抗えず、本を受け取った。彼女は安心したように微笑むと、静かに意識を失った。

僕は彼女をそこに残していくしかなかった。だが、手の中にある本の温もりと、耳に残る彼女の言葉の響きが、僕の中で何かを静かに変え始めていた。それは、この戦争が始まって以来、僕が初めて感じた人間らしい感情の欠片だった。

第三章 偽りの聖歌

基地への帰還は、奇跡的に誰にも気づかれなかった。報告義務は、筆談で済ませられる。僕は作戦の失敗――目標地点への未達――を簡潔に報告し、自室にこもった。手には、あの革張りの本が握られていた。

ページをめくると、そこには僕の知らない文字が、美しいリズムで並んでいた。詩集のようだった。読みたい。彼女が僕に託した言葉の意味を、知りたい。その衝動は、抑えがたいほど強かった。

僕は基地内で唯一、心を許せる友人の元を訪れた。情報解析班に所属する、言語学の天才、リオだ。彼は僕が声を出せないことをからかったりせず、いつも対等に接してくれた。

「連邦の古文書か?珍しいな」

僕が差し出した本を手に取り、リオは興味深そうに言った。事情を説明する気にはなれず、『拾った』とだけメモに書いた。

「翻訳、してみるか。少し時間がかかるぞ。これは標準語じゃなく、古い方言詩のようだ」

数日後、リオは興奮した様子で僕の部屋を訪れた。

「カイ、すごいぞこれ!とんでもないものだ!」

彼が差し出した翻訳原稿を、僕は震える手で受け取った。そして、そこに綴られた言葉に、息を呑んだ。

『空の青が溶けるとき、あなたの瞳を思い出す。』

『風の歌に耳を澄ませば、遠い故郷の木々が揺れる。』

『小さな手のひらに握られた種が、いつか世界を覆う森になるように、我らの祈りもまた、天に届くだろう。』

そこにあったのは、呪いでも、憎しみでもなかった。愛と、希望と、自然への賛歌だった。共和国が「悪魔の言語」「世界を破滅させる呪文」と断定し、国民に恐怖を植え付けてきた敵国の言葉は、僕が知るどんな言葉よりも美しかった。

愕然とする僕に、リオはさらに衝撃的な事実を告げた。

「この詩の韻律、音の周波数パターンを解析していて、気づいたんだが…」

彼はタブレットの画面を僕に見せた。そこには、二つの波形が並んでいた。一つは詩を音読した際の音声データ。そして、もう一つは――

「これ、君が運んでいる『破壊の言霊』の基本波形と、完全に一致するんだ」

全身の血が凍りついた。

「まさか…」と僕は声にならない声で呟いた。

「ああ。共和国は、連邦の美しい詩や古い民謡を収集し、その音響構造を解析した。そして、最も人の心に響く周波数帯を抽出し、それを不協和音で歪め、憎悪のシグナルを上乗せして兵器に転用したんだ。僕らが『聖歌』と呼んで崇めている共和国の軍歌も、元は連-邦の愛の歌だったらしい」

僕らが信じていた正義。僕が背負ってきた沈黙。その全てが、巨大な嘘の上に成り立っていた。僕が運んでいたのは、敵の文化を陵辱し、その美しさを破壊の力に変えた、冒涜的な兵器だったのだ。

足元から世界が崩れ落ちる音がした。それは、どんな呪言よりも、どんな破壊の言霊よりも、僕の魂を深く、静かに引き裂いた。

第四章 沈黙は歌う

次の任務が下された。最終作戦だ。目標は、連邦の古都にある中央図書館。そこには、連邦の文化の全てが眠っているという。僕が運ぶのは、過去最大級の新型『言霊』。起動すれば、半径数キロの知的生命体の精神を、永久に崩壊させる。文化の根絶。それこそが、共和国の真の狙いだった。

僕は、無言で頷き、銀色のケースを受け取った。だが、僕の心は決まっていた。

夜陰に紛れて、僕は一人、戦場の中心へと向かった。そこは、両軍の憎悪が最も色濃く渦巻く、境界線上の丘だった。遠くで、共和国の『聖歌』と連邦の『呪言』が、互いを打ち消し合うように激しく衝突している。

僕は丘の頂上で立ち止まり、背中のケースを地面に置いた。そして、リオに頼んで密かに改造してもらった起動スイッチに指をかけた。これは、破壊のスイッチではない。再生のスイッチだ。歪められた音の信号を濾過し、本来の旋律を取り戻すための。

スイッチを入れる。

スピーカーから響き渡ったのは、破壊の不協和音ではなかった。

それは、静かで、どこまでも優しいピアノの旋律から始まった。やがて、澄んだ女性のソプラノが、あの詩集の一節を歌い上げる。僕があの森で出会った、敵国の言葉で。

『空の青が溶けるとき、あなたの瞳を思い出す…』

戦場が、一瞬にして静寂に包まれた。

憎しみを込めて言葉を放っていた両軍の兵士たちが、まるで魔法にかかったかのように動きを止め、そのありえないほど美しい歌声に耳を傾けていた。閃光が止み、怒号が消えた。ただ、穏やかな歌声だけが、血と硝煙に汚れた大地を洗い流すように、どこまでも響き渡っていく。

歌は、僕が運んできたはずの破壊のエネルギーを、鎮魂の祈りへと変えていった。

僕は、その歌声に包まれながら、ゆっくりと天を仰いだ。そして、何十年ぶりに、自分の声で言葉を紡ごうとした。喉が震え、ひび割れた隙間から、か細い息が漏れる。

「…あ…お…」

それは、言葉にすらなっていなかったかもしれない。ただの、音の欠片。

だが、僕にとっては、生まれて初めての、僕自身の歌だった。

僕がその後どうなったのか、僕自身も知らない。ただ、あの丘に響いた異邦の歌が、長く続いた「言霊戦争」を終わらせるきっかけになったと、後の世では語られているらしい。

言葉を奪われた僕が、沈黙の果てに見つけた、たった一つの真実。

本当の言葉は、人を傷つけるためにあるのではない。たとえ声にならなくても、たとえ届かなくても、誰かを想い、平和を祈る心そのものが、世界で最も美しい歌なのだということを。

戦場に響いたあのレクイエムは、僕の沈黙が生んだ、最初で最後の、祈りの詩だった。

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