色彩の墓標、沈黙の揺りかご
第一章 色を視る者
俺、カイの眼には、世界が常にやかましかった。それは単なる音量ではない。戦争が吐き出すあらゆる音は、俺の網膜の上で暴力的な色彩となって炸裂するのだ。遠雷のように轟く砲撃は、どす黒い赤紫の飛沫となって視界を汚し、断末魔の悲鳴は、ガラスを引っ掻くような鋭い黄色の線となって鼓膜の奥を刺す。指揮官の怒声は鉛色の棘となり、兵士たちの嘆きは、滲むインクのような鈍い青となって空気を満たした。
そして、最も恐ろしいのは沈黙だ。死が満ちた後の静寂は、全ての色を吸い尽くす、絶対的な黒い穴として眼前に広がる。
この呪われた共感覚だけではない。この世界には、もう一つの呪いがあった。人々が憎しみ合い、争いを始めると、その場所から音が消え、世界が透明になる。『虚空』と呼ばれるその現象は、存在の抹消に他ならなかった。建物も、木々も、大地さえも、そこに在るのに誰の記憶にも留まらない、素通しの景色へと変貌する。昨日は隣町との小競り合いで、市場の一角が虚空に飲まれた。人々は、そこに何があったのか、誰がいたのか、綺麗さっぱり忘れてしまった。まるで初めから、そこには何も無かったかのように。
俺だけが、その喪失を知覚できた。透明になったはずの場所から、時折、耳鳴りのような『残響』が聞こえてくる。それは消滅したはずの誰かの笑い声であり、歌であり、囁きだった。虚空に抗う、存在の最後の痙攣。俺は今日も、色彩の暴力と存在の残響に苛まれながら、透明になっていく世界をただ見つめていた。
第二章 虚空のメロディー
耐えきれず、俺は虚空と化した市場跡へ足を運んだ。空気は揺らめき、向こう側の景色が歪んで見える。人々はこの場所を無意識に避け、まるでそこに巨大な壁でもあるかのように迂回していく。俺は目を凝らした。色彩のない世界。音が死んだ世界。
その、虚無の中心で。
何かが、光っていた。
おそるおそる手を伸ばすと、冷たく滑らかな感触が指先に伝わる。それは手のひらに収まるほどの、乳白色の石だった。拾い上げた瞬間、俺の頭の中に、直接音が流れ込んできた。それは、いくつかの歯が欠けてしまった古いオルゴールのメロディー。途切れ途切れで、物悲しいのに、なぜか温かい。
「音石(サウンドストーン)……」
誰から教わったでもない名前が、自然と口をついて出た。この石だけが、虚空の中で自らの存在を主張し続けている。石が奏でるメロディーは、俺だけが聞いていた『残響』と微かに共鳴し、その輪郭をほんの少しだけ鮮明にした。まるで、失われた記憶の欠片を繋ぎ合わせようとするかのように。
「カイ」
背後から、澄んだ声がした。リナだ。この灰色の集落で、唯一俺の眼に映るものを信じてくれる少女。
「また、ここに来てたのね。辛くないの?」
彼女の心配そうな声は、柔らかな若草色をしていた。俺は音石を握りしめたまま、首を横に振る。
「辛いさ。でも、聞こえるんだ。消された人たちの声が」
リナは俺の隣に立つと、透明な虚空をじっと見つめた。「その力は、呪いなんかじゃないのかもしれないよ」彼女は静かに言った。「何かを終わらせるためじゃなくて、何かを……守るためにある力なのかも」
その言葉が、俺の心に小さな光を灯した。
第三章 集う憎悪
平和な時間は、長くは続かなかった。東の連邦と西の王国、二つの大国間の緊張が遂に臨界点を越え、世界全土を巻き込む大戦が始まった。
その日を境に、俺の世界は地獄と化した。
空は、憎悪が燃え上がる灼熱の赤と、絶望が沈殿する深い藍で塗りたくられた。爆発の閃光は、網膜を焼き切るほどの純白となって明滅し、無数のライフルの発砲音は、黒い点の群れとなって視界を埋め尽くす。俺はただ蹲り、両眼を腕で覆うことしかできなかった。色彩の嵐が、俺の意識を根こそぎ奪い去ろうとしていた。
世界の透明化は、もはや局地的なものではなくなった。川が消え、森が消え、街が次々と虚空に沈んでいく。人々は昨日まで隣にあったはずのものを忘れ、己の記憶の欠落にさえ気づかない。世界の輪郭が、日に日に曖昧になっていく。
そして、その波は、俺たちの集落にも押し寄せた。畑の半分が透明になり、人々は困惑しながらも、なぜ農作物が足りないのか理解できずにいた。家々の壁が透け始め、隣人の顔さえ思い出せなくなる者が現れた。終わりが、すぐそこまで迫っていた。
第四章 音石の共鳴
「カイ……どこにいるの……?」
か細い声に顔を上げると、そこにリナが立っていた。いや、立ちかけていた。彼女の足元から、その身体がゆっくりと透明になり始めている。その輪郭は揺らぎ、まるで陽炎のようだ。集落の他の者たちは、もう彼女の存在を認識できていない。
「リナッ!」
駆け寄ろうとする俺の足が、もつれる。駄目だ、間に合わない。彼女の記憶が、世界から消し去られようとしている。憎しみの音が、彼女という存在を打ち消そうとしている。
絶望が俺を飲み込もうとした、その時。懐で握りしめていた音石が、熱を帯びた。壊れたオルゴールのメロディーが、これまでになく大きく、鮮明に頭の中に響き渡る。その音は、俺の能力の中枢と激しく共鳴し、視界を埋め尽くしていた色彩の嵐を、一つの奔流へと束ねていく。
そして、悟った。
世界の透明化は、憎悪の音が存在を打ち消し合う現象だ。一つの存在証明(音)が、別の存在証明(音)を暴力で上書きし、互いに無へと回帰させているのだ。俺が聞いていた残響は、消えゆく存在の最後の叫び。音石は、その消滅に抗う最後の記憶の錨。
俺のこの眼は、音を色として『視る』だけじゃない。音を『受け止める』器でもあるのだ。
ならば。
もし、俺がこの世界の全ての争いの音――全ての憎悪と悲鳴と嘆きを、この身に吸収し尽くしたなら? 存在の打ち消し合いそのものを、止められるのではないか?
それは、個人の精神が耐えられる所業ではないだろう。だが、リナの消えかかる姿が、俺に決断を迫っていた。彼女のいない世界に、色が残っていたとて何の意味がある?
「待ってろ、リナ。俺が、全部終わらせる」
俺は音石を強く握りしめ、憎悪の色彩が最も激しく渦巻く戦場の中心へと走り出した。
第五章 色彩の吸収
戦場の中心は、色彩の地獄だった。俺は両腕を広げ、天を仰ぐ。音石から流れ込む力で増幅された俺の意識は、この星を覆う全ての『音』へと接続された。
「来い」
その一言を合図に、世界が俺の中に流れ込んできた。
東の塹壕から、命令の鉛色と恐怖の黄色が。西の空から、戦闘機の爆音が純白の閃光となって。名もなき村から、嘆きの鈍い青と、憎しみの赤黒い飛沫が。ありとあらゆる戦争の音が、色彩の津波となって俺の精神に叩きつけられる。
ぐ、あああああああああっ!
全身の血管が沸騰し、骨がきしむ。魂が、億千万の叫びによって引き裂かれそうになる。だが、俺は耐えた。リナの笑顔を、集落の穏やかな風景を、この世界から消させはしない。俺はただ、受け止め続けた。吸収し続けた。
やがて、変化が訪れた。
砲撃の音が、止んだ。
銃声が、途絶えた。
兵士たちの叫びが、沈黙へと変わっていった。
世界から、争いの音が消えた。それと同時に、俺を苛んでいた色彩の奔流もまた、静かに凪いでいった。目を開くと、そこには信じられない光景が広がっていた。透明化していた大地が、ゆっくりと確かな実体を取り戻していく。虚空に沈んでいた森が、鮮やかな緑を取り戻す。
そして、俺の故郷の方向には、リナの姿が、夕日を浴びてはっきりと立っていた。
第六章 無声の調和
世界は、救われた。俺はよろめきながら集落へ戻った。誰もが武器を置き、静かに佇んでいる。兵士たちは敵味方の区別なく、互いに肩を貸し合っている。憎しみも、怒りも、恐怖も、そこにはない。ただ、完璧な静寂と調和だけがあった。
だが、何かが決定的に違っていた。
誰も笑わない。誰も泣かない。誰も、言葉を発しない。
リナが俺に気づき、ゆっくりと歩み寄ってくる。彼女の表情は、まるで穏やかな湖面のようだった。かつてのような、感情のきらめきがない。彼女は俺の目の前に立つと、何も言わずに、ただじっと俺を見つめた。
その瞬間、彼女の心が、いや、彼女だけではない、そこにいる全ての人の意識が、俺の心に直接流れ込んできた。
《ありがとう、カイ》
《これで、もう誰も傷つかない》
《私たちは、ひとつになった》
俺は悟った。愕然として、その場に膝をついた。俺が吸収したのは、戦争の音だけではなかったのだ。怒りや憎しみと、喜びや悲しみは、同じ根から生えていた。個を個たらしめる感情の起伏、意見の対立、すれ違い――それら全ての不協和音を、俺は世界から消し去ってしまったのだ。
人々は、個の意識を失い、互いの全てを理解し合える、巨大な一つの集合意識体へと変貌していた。争いのない、完璧で究極の平和。それは、多様性という名の色彩を全て失った、無音の世界だった。
俺は、色彩を取り戻した美しい世界で、たった一人になった。
この静かすぎる世界の中心で、俺の耳にだけは、今もあの音石の壊れたメロディーが鳴り響いている。それは、かつてこの世界に満ちていた、不完全で、愛おしい、無数の個の存在を弔う、最後の墓標のように。