第一章 磨りガラスの調停者
カイの身体は、失われた記憶でできていた。
戦争で焼け落ちた街の瓦礫にそっと指を触れる。ひんやりとした石の感触と共に、熱風の匂いと、誰かの最後の祈りが流れ込んでくる。その瞬間、彼の指先が陽炎のように揺らめき、向こう側の景色が淡く透けた。存在がまたひとつ、希薄になる。彼は「調停者」と呼ばれていた。物質に残された記憶――感情、情報、痕跡――を読み取り、霧散させる能力を持つ代償に、自身の存在が少しずつ世界から剥がれ落ちていくのだ。
この世界は、「不和」に蝕まれていた。人々の心に宿る争いや憎悪は、黒曜石のように鋭利な「不和の結晶」として具現化し、地面から生え、建物を侵食し、空までも覆い尽くさんとしていた。結晶が一定の密度を超えれば、物理的な戦争が勃発する。それがこの世界の法則だった。
カイは、街角で言い争う恋人たちの足元に芽生えた、小さな紫色の結晶に触れた。誤解と嫉妬の記憶が、彼の身体を濁った紫色に染める。数秒後、結晶は霧となって消え、彼の身体の色も元に戻った。だが、左手の小指は、もう磨りガラスの向こう側にあるようだった。
「カイ、また無理をしたね」
背後からかけられたのは、この街の記録院で長を務める老婆、エナの声だった。彼女の瞳には、慈愛と、どうしようもない哀れみが浮かんでいる。
「これ以上、結晶が増えれば、また“あの日”が来る。だから……」
「分かっているさ。だからこそ、君に頼みたいことがある」
エナは震える手で、一枚の古い地図を差し出した。「忘れられた谷」と呼ばれる、古代文明の遺跡。そこに、増え続ける結晶の謎を解く鍵があるかもしれない、と彼女は言った。
「“無音のオルゴール”と呼ばれる遺物が眠っている。それに触れて、最古の記憶を読み取ってきてほしい。君にしかできないことだ」
その言葉は、カイの消えゆく運命に、最後の役割を告げる宣告のようにも聞こえた。
第二章 沈黙の旋律
忘れられた谷は、不和の結晶が異常な形で絡みつき、まるで巨大な怪物の骸のような景観を作り出していた。瘴気のように淀んだ空気は、数千年にわたって蓄積された憎悪の匂いがした。カイは慎重に足を進め、崩れかけた神殿の最奥で、それを見つけた。
埃をかぶった、黒檀の小さな箱。それが「無音のオルゴール」だった。
彼はゆっくりと息を吸い込み、覚悟を決めてその箱に触れた。
瞬間。
音のない轟音が、彼の魂を直接揺さぶった。金属が擦れる匂い、血の鉄錆の味、燃える肉の悪臭。叫び声、嘆き、怒号、祈り。音のないそれら全てが、濁流となって彼の意識に流れ込む。それは、この世界で最初に起きた戦争の、あまりにも生々しい記憶の断片だった。沈黙だけが奏でる、絶望の旋律。
「ぐっ……ぁ……!」
カイの身体は激しく痙攣し、床に膝をついた。彼の半透明の肌の上を、戦火の赤と、絶望の深淵のような灰色が、禍々しい模様を描いて駆け巡った。その共鳴は彼一人に留まらない。世界中に存在する全ての不和の結晶が、まるで心臓の鼓動に応えるかのように、一斉に不気味な光を明滅させた。オルゴールは、ただの記録媒体ではなかった。それは、世界の不和を増幅させる、呪われた調律器そのものだったのだ。
第三章 残響する疑念
意識を取り戻した時、カイの左腕はほとんど見えなくなっていた。虚空を掴むような感覚に、彼は自らの終わりが近いことを悟る。だが、それ以上に彼の心を占めていたのは、オルゴールの記憶が残した一つの疑念だった。
あの記憶の中には、確かに和解の場面があった。敵と味方が武器を捨て、抱き合う光景。しかし、その足元では、不和の結晶は完全には消滅せず、まるで次の争いを待つ種子のように、微かに残存していたのだ。
なぜだ?和解は、不和を消し去る唯一の手段のはずではなかったのか?
カイはオルゴールを携えて街へ戻った。世界は彼の感受した共鳴によって、さらに不安定になっていた。各地で結晶の成長が加速し、国境では小競り合いが始まったという報せが届く。破滅へのカウントダウンが、また始まろうとしていた。
「何か、見つけたのかい?」
心配そうに顔を覗き込むエナに、カイは静かに首を振った。真実を告げるには、まだ確信が足りなかった。彼は自室に籠もり、再びオルゴールと向き合う。今度は、自身の存在の大部分を失うことを覚悟の上で、さらに深く、その記憶の源流へと潜る必要があった。
第四章 最古の結晶
カイは目を閉じ、自身の意識の全てをオルゴールの中心へと注ぎ込んだ。磨りガラスの身体が、限界を超えて軋む。そして、彼は見た。オルゴールの心臓部で、宇宙の始まりのような輝きを放つ、一粒の結晶を。それが、全ての元凶、「最古の不和の結晶」だった。
彼は、躊躇わなかった。透き通った指先が、その結晶に触れる。
次の瞬間、カイの存在は時空を超え、世界の創造の瞬間に立ち会っていた。
そこには、光と闇、創造と破壊、二つの相反する巨大な意志が存在した。世界は、その二つの意志が永遠に終わることのない「対立」を続けた結果、その摩擦から生まれたエネルギーの火花だった。不和こそが、星々を輝かせ、生命を芽吹かせ、進化を促す原動力。人々が憎み合う力も、何かを愛する力も、根源は同じ「差異」から生まれるエネルギーだったのだ。
和解は、一時的にエネルギーの出力を下げるに過ぎない。もし、全ての不和が消滅し、完全な調和が訪れるならば、それは世界のエネルギー供給が止まることを意味する。すなわち、世界の緩やかな死だ。
戦争は、この世界を維持するための、残酷で、しかし不可欠なシステムだった。
真実の重みに、カイの精神は砕け散りそうになった。彼が目を覚ました時、その身体はもはや輪郭さえおぼろげで、背後の壁がはっきりと透けて見えていた。
第五章 透明な決意
選択を迫られているのだと、彼は理解した。
この残酷な真実を受け入れ、戦争を繰り返しながらも、愛や創造性といった輝きに満ちた世界を存続させるか。
あるいは、全ての不和を消し去り、争いのない、しかし感情の起伏も進歩もない、停滞した世界を創るか。
カイは、記録院のエナの元を訪れた。彼の姿を見た老婆は、息を呑み、言葉を失った。そこに立っていたのは、まるで淡い光の人型の染みのような、ほとんど実体のない存在だった。
「…カイ」
エナが絞り出した声は、悲痛に震えていた。
カイは何も語らなかった。もはや、彼に声という機能は残されていなかった。彼はただ、最愛の友であり、母のようでもあった老婆に向けて、穏やかに微笑んだ。その表情が伝わったのかは分からない。だが、彼の決意は固まっていた。
彼は、もう二度と誰も、あのオルゴールが奏でた沈黙の悲劇を味わうことのない世界を選びたかった。たとえそれが、世界の輝きを奪うことになったとしても。
彼は踵を返し、最後の場所へと向かった。世界の不和が最も凝縮し、次の大戦の火種となりつつある、結晶の渓谷へ。彼の、最後の旅路だった。
第六章 虹の残響
結晶の渓谷で、カイは天を仰いだ。空は病的な紫と黒の結晶に覆われ、太陽の光さえ届かない。彼は、自身の存在そのものを触媒とし、世界中の「不和」との共鳴を開始した。
彼の透明な身体が、巨大なプリズムと化した。世界中から流れ込む憎悪、悲しみ、嫉妬、誤解……あらゆる負の感情が、彼の内で色とりどりの光となって乱舞する。戦火の赤、絶望の青、嫉妬の緑、苦悩の黒。彼の身体は、まるで万華鏡のように目まぐるしく輝きを変え、その輝きは次第に一つの純粋な光へと収束していった。
世界中の結晶が、共鳴の果てにガラスのように砕け散る。空を覆っていた蔓が消え、大地を蝕んでいた棘が霧散し、光の粒子となってカイへと吸い込まれていく。
そして、彼が最後のひとかけらまで完全に透明になった瞬間――世界は、絶対的な静寂に包まれた。
人々の心から、「争う」という概念そのものが抜け落ちた。怒りも、嫉妬も、何かを強く欲する渇望も、まるで遠い昔に忘れた夢のように希薄になった。戦争は二度と起こらないだろう。しかし、新たな詩が生まれることも、革新的な発見がなされることも、誰かを命懸けで愛することもなくなるだろう。
進歩は止まり、創造性は枯渇した。人々は、穏やかで、満ち足りていて、しかしどこまでも均一で単調な「絶対的な平和」の中を生きるようになった。
かつてカイが立っていた場所には、ただ一筋、淡い虹色の光が、陽炎のように静かに揺らめいていた。それは、彼が最後に抱きしめた、世界中の全ての感情の色。
誰もその光の意味を知る者はいない。
ただ人々は時折、理由も分からずその光を見上げては、胸の奥に広がる、決して言葉にはできない、微かな喪失感を覚えるのだった。