緋色のサイレン

緋色のサイレン

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第一章 黄金色の幻聴

泥と硝煙の匂いが混じり合う塹壕の底で、僕、リヒトは息を潜めていた。夜のしじまは、決して無音ではない。仲間たちの寝息は柔らかな藍色の靄となり、遠くで鳴く虫の声は銀糸のような光の筋となって闇を縫う。僕にとって、世界は常に音と色の交響詩だった。人々が「共感覚」と呼ぶこの特性は、平穏な日常ではささやかな祝福だったが、この戦場では呪いにも等しい。

塹壕生活にも慣れた今、僕が最も恐れるのは砲弾ではない。その予兆として空気を引き裂く、甲高い飛翔音だ。それは網膜を直接焼き付けるような、どす黒い緋色の楔となって視界に突き刺さる。その色が空を覆うとき、大地は揺れ、仲間たちの絶叫が濁った紫色の染みとなってあたりに飛び散るのだ。

その夜も、僕は緋色の悪夢にうなされる代わりに、警戒任務についていた。冷たい鉄兜の下で、神経を研ぎ澄ます。敵の足音は硬質な茶色の点描。薬莢が地面に落ちる音は、小さな真鍮色の閃光。僕は耳と目で、闇の中のあらゆる変化を捉えようとしていた。

その時だった。

ふと、今まで一度も聞いたことのない音が、僕の鼓膜を震わせた。それは北東、敵陣のさらに奥、無人地帯となっているはずの丘の方角から聞こえてきた。銃声でも、エンジンの唸りでも、人の叫び声でもない。もっと純粋で、澄み切った音。僕の視界に、それは穏やかで温かい、溶かした蜂蜜のような黄金色の光の柱として立ち昇った。

幻聴か? 戦場のストレスが見せる幻覚かもしれない。僕は目をこすり、再び耳を澄ませた。音は続いている。それは単調な響きではなく、明確な旋律を持っていた。悲しげでありながら、どこか祈りのような荘厳さをたたえた、美しい旋律。

「おい、リヒト。何を見てる?」

隣で同じく見張りをしていた古参兵のヨナスが、訝しげに声をかけてきた。彼の声は、信頼を感じさせる深緑色をしていた。

「……ヨナスさん。何か、聞こえませんか?」

「聞こえるかって? 敵のクソったれ共が、いつ攻めてくるかという緊張の音だけだ」

「いえ、そうじゃなくて……歌のような、音楽のような……」

ヨナスは怪訝な顔でしばらく耳を澄ませていたが、やがて首を横に振った。「何も聞こえん。お前の耳は良すぎるんだ。風の音でも聞き間違えたんだろう。それより、気を抜くな」

そう言われてしまえば、それ以上何も言えなかった。だが、僕にははっきりと見え、聞こえていた。緋色の恐怖が支配するこの戦場で、場違いなほどに美しい黄金色の音が、まるで夜空の星のように、僕の心の中で静かに瞬き続けていた。それは一体、何なのだろうか。その謎は、泥濘にまみれた僕の日常に、小さな、しかし無視できない波紋を投げかけたのだった。

第二章 色彩の戦場

黄金色の音は、それから毎夜のように聞こえてくるようになった。決まって真夜中、両軍の散発的な銃撃が止み、つかの間の静寂が訪れる頃に、それは始まる。僕はその音を確かめるために、志願して夜間の警戒任務に就くことが多くなった。

仲間たちは僕を「耳の良いリヒト」と呼び、その警戒能力を評価してくれたが、僕が本当に聴き、見ているものを知る者はいなかった。彼らにとって世界はありのままの姿で存在しているが、僕の世界は暴力的な色彩で常に塗りたくられていた。

昼間の戦闘は地獄そのものだった。機関銃が火を吹けば、無数の鋭利なオレンジ色の線が視界を埋め尽くす。手榴弾の炸裂は、腐った血のような赤黒い花を咲かせ、人々の断末魔は、耳を塞いでもなお網膜にこびりつく、おぞましいまだら模様の紫となって広がる。僕はその色彩の洪水の中で、嘔吐感をこらえながら引き金を引いた。敵の姿は見えない。ただ、向こう側から飛んでくる醜い色の音に向かって、無我夢中で鉛色の弾丸を撃ち返すだけだった。

そんな日々の中で、夜に聞こえる黄金色の旋律だけが、僕の唯一の救いだった。それは、汚れたパレットの上に垂らされた、一滴の純粋な絵の具のようだった。その音を聞いている間だけ、僕は自分がまだ人間であり、色彩の狂気に飲み込まれていないことを確認できた。

「あの音の正体を、確かめに行きたい」

ある晩、僕はヨナスにそう打ち明けた。彼は呆れたように僕を見た。

「正気か、リヒト。あの丘は無人地帯だぞ。どこに地雷が埋まっているか分からんし、敵の狙撃兵の格好の的だ」

「でも、あの音は……何かの合図かもしれません。敵の罠だとしても、知る必要があります」

それは半分以上が建前だった。本当は、ただ純粋な好奇心と、あの美しい色を放つ音の源に触れたいという渇望に駆られていただけだ。ヨナスの深緑色の声が、心配の色を帯びて少しだけ暗く濁った。

「……分かった。俺も行こう。お前一人じゃ死にに行くだけだ」

彼の言葉は意外だったが、その声が放つ色の誠実さに、僕は胸が熱くなるのを感じた。

数日後、僕たちは月のない夜を選んで、慎重に塹壕を這い出した。鉄条網を抜け、ぬかるんだ大地を腹這いで進む。死の匂いが立ち込めるクレーターをいくつも越え、黄金色の音が聞こえる丘の上の廃墟――かつて教会だった建物――を目指した。近づくにつれて、旋律はより鮮明になる。それは壊れたパイプオルガンの音色のようだった。こんな場所に、一体誰が? 息を殺して、僕たちは教会の崩れた壁の隙間から、中を覗き込んだ。そして、信じられない光景を目にした。

第三章 廃教会のデュエット

蝋燭の灯りが、ぼんやりと祭壇のあたりを照らしていた。そこに置かれていたのは、かろうじて原形を留めているだけの、古びたパイプオルガン。そして、その前に座り、一心に鍵盤を弾いている一人の兵士の姿があった。

その兵士は、僕たちが着ているものとは違う、敵国の軍服をまとっていた。しかし、僕の目を釘付けにしたのは、その横顔だった。ヘルメットからこぼれた亜麻色の髪、泥で汚れてはいるが、まだあどけなさを残した少女の顔。年は、僕とそう変わらないだろう。

彼女が弾いていたのだ。この黄金色の旋律を。

僕とヨナスは顔を見合わせた。ヨナスはライフルを構えようとしたが、僕は無言でそれを制した。罠ではない。彼女はただ、祈るようにオルガンを弾いているだけだ。その姿には殺意のかけらもなく、むしろ深い悲しみが満ちていた。

彼女の指が止まり、旋律が途切れた。静寂が戻る。その瞬間、彼女はふっと顔を上げ、僕たちが隠れている壁の隙間を真っ直ぐに見つめた。見つかった――! 僕の心臓が大きく跳ね、全身がこわばる。ヨナスも息を飲んだ。

しかし、彼女は叫び声を上げなかった。武器を取るそぶりも見せない。ただ、静かに僕たちを見つめ、やがて、震える声で言った。

「……あなたの音、ずっと聞こえていました」

言葉の意味が分からなかった。僕の音? 彼女が話す言葉は、僕たちの言葉と同じだった。

「警戒している時の、あなたの心臓の音。それは、とても澄んだ、青い硝子のような色をしている」

僕は絶句した。彼女も、僕と同じなのか?

恐る恐る、僕は壁の陰から姿を現した。ヨナスが背後で制止の声を上げたが、僕は構わなかった。彼女は驚いた様子もなく、ただ静かに僕を見ている。

「君は……色が見えるのか? 音の」

「いいえ」と彼女は首を振った。「私には、感情が音として聞こえるんです。恐怖は不協和音、怒りは耳障りな金切り声。そして、あなたの心音は、この戦場で聴いた中で、一番静かで綺麗な音色だった」

衝撃が全身を貫いた。僕が「黄金色の音」として捉えていた彼女の旋律は、彼女が「平和への祈り」という感情を音に変えて奏でていたものだったのだ。そして彼女は、僕の恐怖や緊張の中に隠れた、僕自身も気づかなかった静かな心の音を聴いていた。

僕たちは敵同士だった。昨日まで、互いに醜い色の音をぶつけ合い、殺し合おうとしていた。だが今、目の前にいるのは、同じ苦しみを抱え、同じように感覚の呪いと祝福に苛まれる、一人の人間だった。彼女の名前はエルマといった。僕たちは言葉を交わした。戦争のこと、家族のこと、そして、僕たちにしか分からない世界のことを。エルマが奏でるオルガンの音は、もはや単なる黄金色ではなかった。彼女の故郷の話をするときは若草色に、亡くなった兄の話をするときは淡い藤色に、その色合いを複雑に変えていった。僕にとって、敵はもはや「緋色の脅威」ではなく、豊かな色彩を持つ一人の少女へと変わってしまった。

第四章 無音のレクイエム

それから、僕とエルマの夜の密会が始まった。ヨナスは「狂気の沙汰だ」と呆れながらも、僕の行動を黙認し、見張りに立ってくれた。彼の深緑色の声には、呆れよりも深い優しさが滲んでいた。

廃教会でのひとときは、色彩のないこの世界で唯一、色が息づく場所だった。エルマはオルガンを弾き、僕はその音が織りなす色彩のタペストリーを眺めた。彼女が聞く僕の心の音もまた、日を追うごとに変化していったという。恐怖の青から、安らぎの緑へ、そして、彼女への想いを映した柔らかな桃色へと。僕たちは、互いの感覚を通して、言葉以上に深く心を通わせていった。この地獄が終わったら、二人で色の見える音と、音の聞こえる感情に満ちた世界を旅しよう、と。そんな、叶うはずもない夢を語り合った。

しかし、永遠に続く秘密などない。

ある夜、僕たちの密会は双方の軍に発見された。教会は瞬く間に包囲され、拡声器から響く怒号が、汚れた茶色の濁流となって押し寄せる。「裏切り者」という言葉が、鋭いガラスの破片のように僕の胸に突き刺さった。

「リヒト、逃げて!」

エルマが叫ぶ。だが、逃げ場などどこにもなかった。外では、昨日まで背中を預け合っていた仲間たちと、顔も知らなかった敵兵たちが、僕たち二人を共通の敵として追い詰めている。

絶望的な状況の中、エルマは静かにオルガンの前に座った。そして、鍵盤に指を置く。外から銃声が轟き、壁に弾丸が突き刺さる。銃声の醜いオレンジ色の火花が、蝋燭の灯りを揺らした。

それでも、彼女は弾き始めた。

その瞬間、僕の世界から、全ての音が消えた。いや、正確には、彼女のオルガンの音以外、何も聞こえなくなった。彼女が奏でる最後の旋律。それは、もはや単一の色ではなかった。

悲しみの深い藍、絶望の鉛色、恐怖の黒、それでも消えない希望の白、ささやかな喜びだった若草色、そして僕への想いを告げる桃色。全ての感情、全ての色彩が渾然一体となって溶け合い、僕の視界を圧倒的な光で満たしていく。それは、この世のどんな言葉でも表現できない、荘厳で、あまりにも美しい虹色の光だった。

僕は目を閉じた。暴力的な緋色のサイレンも、憎悪に満ちた銃声も、今はもうない。ただ、魂を震わせる虹色の光だけが、僕の全てを包み込んでいた。これこそが、僕たちが見つけた、この狂った世界への唯一の答えなのだ。

やがて、一発の乾いた銃声が響き、オルガンの音が、そして虹色の光が、ぷつりと途切れた。

僕の視界は、完全な暗闇と沈黙に包まれた。

それから僕がどうなったのか、自分でもよく覚えていない。ただ、気づいた時には、全ての色を失っていた。音はただの音としてしか聞こえず、世界はくすんだモノクロームの風景に変わっていた。戦争は終わったが、僕の世界に色彩が戻ることは二度となかった。

それでも、時折、風の音に耳を澄ますことがある。目を閉じると、今でも鮮やかに思い出すことができるのだ。あの夜、戦場の真ん中で、たしかに輝いていた虹色の光を。そして、その光が教えてくれた、どんな闇の中にも人間の魂が放つ美しい色があるということを。僕は、その無音のレクイエムを胸に抱いて、これからも生きていく。

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