味覚士のレクイエム

味覚士のレクイエム

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第一章 錆びた鉄の味

僕の舌は、呪われていた。

物心ついた時から、僕、リオは他人の感情を「味」として感じていた。村人たちの穏やかな喜びは、完熟した桃の蜜のように甘く、安らかな眠りは澄み切った泉の水のように喉を潤した。僕は、この共感覚を誰にも話さず、世界の豊かな風味を独り占めする、ささやかな秘密として胸に抱いて生きてきた。この村、アトリは世界の果てのような、静かで美しい場所だったから、僕の舌が味わうのは、ほとんどが心地よい風味ばかりだった。

あの日までは。

東から戦争の匂いが風に乗って届き始めた頃から、僕の世界の味は変わり始めた。最初は、遠くで燻る焚き火のような、微かな焦燥の味だった。それが日を追うごとに強まり、やがて避難民の第一陣が村にたどり着いた時、僕の世界は地獄の味覚に塗り替えられた。

恐怖は、錆びついた鉄を無理やり呑み込むような味だった。悲嘆は、腐った泥水のように舌にまとわりつき、絶望は、すべてを焼き尽くした後の、乾いた灰の味しかしなかった。村の広場は、かつて収穫祭の陽気な喧騒と焼き菓子の甘い香りに満ちていた場所だったが、今や、吐き気を催す感情の不協和音で溢れかえっていた。僕は食事も喉を通らなくなり、ただひたすら、この味覚の地獄から逃れるように、自分の小屋に閉じこもるしかなかった。

そんなある嵐の夜だった。外では風が唸り、雨がトタン屋根を激しく打ちつけていた。村中に渦巻く恐怖と不安の味に耐えかね、耳を塞ぐように枕に顔を埋めていた僕の舌先に、ふいに奇妙な味が届いたのだ。

それは、これまで味わったことのない、あまりにも場違いで、鮮烈な味だった。

憎しみではない。恐怖でも、絶望でもない。それは、古い革表紙の本を開いた時のような埃っぽい匂いと、雨上がりの土の香り、そして……焼きたてのパンの、香ばしく甘い風味。複雑で、懐かしく、そして途方もなく物悲しい、一つの感情の味だった。

その味は、村から少し離れた、禁じられた森の方角から微かに流れてきていた。村人たちは、森には敵兵が潜んでいると噂し、誰も近づこうとはしない。しかし、僕の舌は、心は、その謎めいた味の正体を確かめずにはいられなかった。錆と泥と灰の味しかしないこの世界で、その味だけが、唯一、僕が失いかけていた人間らしい感情の輪郭を思い出させてくれるようだった。

僕は濡れた外套を羽織り、嵐の中へと一歩、足を踏み出した。舌の上で転がる「焼きたてのパンの味」を、道標のようにして。

第二章 焼きたてのパンの味

森の中は、闇と雨が支配していた。ぬかるんだ地面に足を取られながら、僕は舌先の微かな味覚だけを頼りに進んだ。木の根元でうずくまる避難民の恐怖の味が、時折、鉄錆のように僕の味覚を鈍らせる。そのたびに僕は立ち止まり、意識を集中させて、あの懐かしいパンの味を闇の中から探し出した。

味の源は、森の奥深く、苔むした巨岩の陰にあった。

そこに倒れていたのは、敵国の軍服を着た、一人の若い兵士だった。歳は僕と同じくらいだろうか。まだあどけなさを残した顔は蒼白で、脚からは血が流れ、泥に汚れていた。手元には、錆びた小銃が転がっている。敵兵だ。村を脅かす存在。頭ではそう理解しているのに、僕の舌が彼から感じるのは、殺意や憎悪といった攻撃的な味ではなかった。

やはり、あの味だ。故郷の石畳の匂い。母親が編んだであろうマフラーの温もり。そして、何よりも強く、焼きたてのパンの香ばしい味が、彼の意識の底から滲み出ていた。それは強烈な「郷愁」の味だった。彼はここで、ただ独り、帰れない故郷の夢を見ていたのだ。

僕の中で、恐怖と憐憫がせめぎ合った。村人に見つかれば、彼は間違いなく殺されるだろう。僕が匿っていることが知られれば、僕も裏切り者として同じ運命を辿るに違いない。だが、この「味」を知ってしまった僕に、彼を見捨てることはできなかった。この地獄のような世界で、こんなにも人間らしい味を放つ存在を、僕は失いたくなかった。

僕は彼を肩に担ぎ、森のさらに奥にある、祖父が遺した狩猟小屋へと運んだ。幸い、彼の傷は見た目ほど深くはなかった。僕は備蓄してあった薬草を傷口に塗り、清潔な布で包帯を巻いた。意識を取り戻した彼は、僕を見ると怯えたように身を固くしたが、彼から発せられる味は、怯えよりも深い疲労と、やはりあの郷愁の味だった。

言葉は通じなかった。僕が彼の国の言葉を、彼が僕の国の言葉を知らなかったからだ。僕たちは身振り手振りで意思を伝えようと試みた。彼が「エミール」という名前であること、僕が「リオ」であることを知るのに、丸一日かかった。

奇妙な共同生活が始まった。僕は村から食料を運び、エミールの世話を焼いた。エミールは少しずつ元気を取り戻し、僕に対する警戒心も薄れていった。彼の心が安らぐと、郷愁の味はより一層、深く、甘くなった。彼が窓の外を眺めて故郷の家族を思う時、僕の口内には、彼のおそらく母親が作るのだろう、野菜がたっぷり入った温かいスープの味が広がった。その味は、僕を苛む世界の不快な味を、一時的に忘れさせてくれる鎮痛剤のようだった。

僕は気づいていた。自分が、エミールの放つ「味」に依存し始めていることに。彼がここにいる限り、僕はまだ、世界が美しい味を持っていた頃を思い出すことができる。敵であるはずの彼が、僕にとっての最後の救いになっていたのだ。

第三章 無味の絶望

平穏は、唐突に引き裂かれた。

ある晴れた日の午後、村の方角からけたたましい鐘の音が鳴り響いた。敵の小隊が、この村に捜索に入ったという報せだった。おそらく、はぐれた兵士――エミールを探しているのだろう。

その瞬間、村中にパニックが広がった。僕の舌は、これまで経験したことのないほどの強烈な味覚の嵐に見舞われた。村人たちの純粋な恐怖が生み出す錆の味、敵兵への憎悪が放つ焦げ付いた肉の味、そして自らの無力さに絶望する胆汁の味が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って僕の思考を麻痺させた。吐き気がこみ上げ、僕はその場にうずくまった。

「……っぐ!」

小屋の中、僕の苦悶に気づいたエミールが、心配そうにこちらを見ていた。だが、彼の顔には何の表情も浮かんでいない。そして僕は、さらなる恐怖に襲われた。

味が、しない。

エミールから、何の味もしなくなっていたのだ。あれほど僕を慰めてくれた、焼きたてのパンの味も、温かいスープの味も、完全に消え失せていた。そこにあるのは、ただの「無」。味覚の真空地帯。それは、恐怖や憎悪よりもはるかに恐ろしい、完全な感情の死を意味していた。

僕が混乱していると、エミールがおもむろに立ち上がった。そして、よろける足取りで、小屋の扉へと向かう。手には、あの錆びた小銃を握りしめている。

「どこへ行くんだ!」

僕は思わず叫んだが、言葉は通じない。だが、彼の行動の意味は、痛いほど理解できた。彼は、自分が囮になろうとしているのだ。村に近づく小隊の注意を自分に引きつけ、この村と、おそらくは僕を、守ろうとしている。

その瞬間、僕は悟った。僕が今まで感じていたエミールの「郷愁の味」は、彼がこの地獄の中で必死に守り抜こうとしていた、最後の人間性の欠片だったのだ。しかし、仲間の接近という現実は、その脆い希望を無慈悲に打ち砕いた。故郷も、家族も、未来も、もはや彼にとっては何の「味」もしない、意味のないものになってしまった。戦争は、銃弾で人を殺すだけではない。こうして、人の心を、魂を、静かに、完全に「無味」にして殺していくのだ。

敵兵の中にも人間がいる、などという生易しい感傷ではなかった。戦争の本質は、敵も味方も関係なく、すべての感情を奪い去り、虚無に変えてしまうことだった。僕の価値観は、根底から覆された。舌の上で感じていた甘美な郷愁は、ただの幻だったのだ。

第四章 希望の萌芽

「行くな!」

僕はエミールの腕を掴んだ。彼の瞳は、何も映していないガラス玉のように空虚だった。このまま行かせれば、彼は犬死にするだけだ。そして、彼の心は永遠に「無味」のまま、この世界から消えてしまう。それだけは、駄目だ。

どうすればいい? 言葉は通じない。何をすれば、この虚無に閉ざされた心に届く?

その時、僕の脳裏に、遠い昔の記憶が蘇った。幼い頃、熱を出して寝込んだ僕を、夜通し看病してくれた母の手。その手から感じた、温かくて、甘くて、どうしようもなく安心する味。無償の愛の味。蜂蜜とミルクを混ぜたような、僕の人生で最も幸福な味だった。

これだ。これしかない。

僕はエミールの腕を掴んだまま、目を閉じ、意識のすべてをその記憶に集中させた。母の温もり、母の微笑み、僕の存在そのものを肯定してくれる、絶対的な安心感。その感情を、僕自身の心の中から絞り出す。それは、僕にとっても最後の砦のような、大切な味だった。

「君の心に、味を、思い出せ!」

声にならない叫びが、感情の奔流となって、僕からエミールへと流れ込む。僕の舌の上で、蜂蜜とミルクの甘い味が再現される。届け、届けと、ただ念じる。

すると、奇跡が起きた。

エミールの空虚だった瞳が、微かに揺れた。彼の「無味」だった心に、ほんのわずかな亀裂が入る。そして、彼の瞳から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。その涙が、僕の舌に、新しい味を届けた。

――しょっぱい。

それは、純粋な「悲しみ」の味だった。虚無からの、再生の第一歩だった。心が死んでいなければ、人は悲しみを感じることができる。味が、戻ったのだ。エミールは、その場に崩れ落ちるように泣き始めた。僕は、ただ彼の肩を抱きしめることしかできなかった。

遠くで聞こえていた銃声や怒号は、いつの間にか遠ざかっていた。捜索隊は、何も見つけられずに森を去っていったようだった。

どれくらいの時が流れただろう。戦争は、終わったのか、続いているのか、僕には分からない。エミールも、いつしか僕の前から姿を消した。彼が故郷に帰れたのか、それともどこかの戦場で命を落としたのか、知る術はない。

僕は今、焦土と化した大地に独りで立っている。かつてアトリ村があった場所だ。

僕の舌は、もう他人の感情の味に苛まれることはない。憎しみも恐怖も、ただそこにある「現象」として、受け流せるようになっていた。僕の能力は、呪いではなくなっていた。

ふと、風が僕の頬を撫でた。その風は、瓦礫の隙間から芽吹いた、名もなき草花の香りを運んでくる。そして、僕の舌先に、かすかな味を届けた。

それは、雨上がりの土のような、ほんのりとした苦味の奥に隠された、瑞々しい甘さ。

「希望」の味だった。

僕は、この荒れ果てた世界で、失われた「味」を探し、育む者として生きていくことを決めた。僕の舌が、世界がまだ死んでいないことを証明している。僕はゆっくりと目を閉じ、風が運んでくるその小さな希望の味を、静かに、深く、味わった。

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