星屑のレクイエム
第一章 錆びた時計と他人の記憶
泥と硝煙の匂いが、死にゆく世界の呼吸のように立ち込めていた。俺、リアムは、塹壕の縁で崩れ落ちる兵士の傍らに膝をついた。彼の胸には絶望的な大きさの穴が空き、そこから命と一緒に温かいものが流れ出している。兵士は震える手で胸ポケットから一枚の写真を取り出した。陽に焼けた笑顔の女性が写っている。
「リナ……」
か細い声が、最後の愛を紡ぐ。その瞳が、愛する者の幻影だけを映して虚空に焦点を結んだ瞬間――彼の命の灯火が消えた。
直後、激痛と共に奔流が俺の精神を襲う。知らない男の人生が、最後の愛と共に俺の内側へ雪崩れ込んでくる。リナという名の女性と交わした初めてのキス。故郷の麦畑を渡る風の感触。そして、彼女の腕の中で息絶えることが叶わなかった、魂を引き裂くような無念。
「……ッ、ぐ、ぁ……!」
俺は頭を抱えて蹲る。これは呪いだ。戦場で死んだ兵士が「最も愛する者の目の前で息絶えた」時、その最後の記憶と人格の一部を継承してしまう、忌まわしい能力。俺の中には、今や何十人もの死者が住み着き、時折その唇を借りて愛や未練を囁く。
落ち着きを取り戻すと、俺は無意識に自分の胸ポケットに手を入れた。冷たく、硬い感触。取り出したのは、常に「午前11時11分」を指して止まっている古い懐中時計。戦場で拾った、唯一の私物だ。俺が記憶を継承するたびに、この時計の針は微かに震える。蓋を開けると、ガラスの内側が万華鏡のようにきらめき、今しがた死んだ兵士とリナの笑顔が一瞬だけ映り、そして消えた。
この呪いが、幼い頃に戦死した兄の痕跡を探す唯一の手がかりだった。兄さんも、きっと誰かに見守られて死んだはずだ。ならば、その記憶は世界のどこかで、誰かの中に宿っている。それを見つけ出すまで、俺はこの地獄を彷徨い続ける。
『リナに、花を……』
内側から、今継承したばかりの兵士――ヨハンの声が響く。俺は固く目を閉じ、その声を精神の奥底に押し込めた。お前の想いは俺が受け取った。だが、俺には行かねばならない場所がある。
第二章 星屑の囁き
夜の帳が下りると、戦場の空には無数の光点が舞い始める。人々はそれを「星屑の記憶(Stardust Memoria)」と呼んだ。戦死者の最も純粋な想いが結晶化したものだ。それは恐ろしいほどに美しく、見る者の心を締め付けた。
「綺麗だと思うか、小僧」
焚火の隣で、古参兵のダリウスが言った。彼は乾いたパンを齧りながら、空を指差す。
「あれは呪いだ。誰にも覚えられていない星屑は、やがて消える。そして、そいつが生前最も憎んだ相手の心に、憎悪の種として芽吹くのさ。だから、このクソみたいな戦争は終わらねぇ」
俺は何も答えず、空を見上げていた。兄さんの想いも、あの星屑の一つになったのだろうか。そして、忘れ去られ、誰かの憎しみに変わってしまったのだろうか。
その夜、浅い眠りの中で、俺は悪夢にうなされた。継承した死者たちの記憶が混ざり合い、俺自身の記憶を侵食していく。ヨハンがリナの名を呼び、別の兵士が故郷の母を想う。その声の洪水の中で、不意に、聞き慣れた懐かしい声が響いた。
『リアム、聞こえるか』
兄さんの声だ。だが、その記憶は、俺が知らない戦場の風景の中にあった。見知らぬ兵士の兜の隙間から見える、俺自身のものではない光景。
『見つけないと……戦争を終わらせるための、“禁断の兵器”を……』
兄の言葉に、別の声が重なる。それは、俺が今まで継承した誰とも違う、深く、そして絶望的に疲れた声だった。
『すまない……リアム……。お前に、全てを託すしかない……。この時間の牢獄から、お前だけが……』
俺は絶叫して飛び起きた。心臓が激しく脈打ち、冷たい汗が背中を伝う。今のは何だ? なぜ、見知らぬ他人の記憶の中に、兄さんがいる? そして、あのもう一つの声は……まるで、俺自身の声のように聞こえた。
ポケットの懐中時計が、冷たく、重い真実を宿しているかのように鎮まり返っていた。
第三章 午前11時11分の真実
兄の記憶の断片――「古い教会跡」。それが唯一の手がかりだった。俺は部隊を離れ、単身で激戦地の中心にあるという教会跡を目指した。そこに行けば、何かが分かる。そんな確信があった。
崩れかけた教会の聖堂に足を踏み入れた瞬間、背後から銃声が響いた。待ち伏せだ。敵兵数名が、俺を取り囲む。絶体絶命。死を覚悟した、その時だった。
ポケットの懐中時計が、まるで心臓のように強く脈打ち始めた。そして、今まで感じたことのない熱を発し、まばゆい光を放つ。俺が時計に目を落とすと、止まっていたはずの秒針が、狂ったように回転を始め――長針と短針が「11時11分」の位置でピタリと重なった。
――覚醒のトリガーだった。
「ッッッ!!!」
俺の中に眠っていた全ての記憶が、ダムの決壊のように奔流となって溢れ出した。ヨハンの正確無比な射撃技術。老練な指揮官の戦術眼。臆病だった新兵の、死角を見つける異常なまでの危機察知能力。そして、兄の揺るぎない覚悟と、あの謎の兵士の、時間を超えた絶望と希望。
全てが一つに溶け合い、俺という存在を再構築していく。
敵兵が引き金を引くより早く、俺の身体は動いていた。ヨハンの腕で銃を拾い、指揮官の目で敵の配置を読み、新兵の足で死角へと滑り込む。それはもはや、俺一人の力ではなかった。
『そうだ、リアム』
内なる声が響く。それは兄の声であり、見知らぬ兵士の声であり、何十人もの死者の声であり――そして、遥か未来の俺自身の声だった。
『“禁断の兵器”とは、物理的な破壊の力じゃない。全ての死者の想いをその一身に受け止め、憎しみの連鎖を断ち切る存在。――お前自身のことだ』
混乱の極致で、全てのピースが嵌った。兄の記憶を俺に宿らせたあの兵士は、兄ではない。この戦争の連鎖に絶望し、最後の力で時間を遡り、過去の自分にこの能力と使命を託した、未来の俺自身だったのだ。兄の記憶は、俺をここまで導くための道標。この懐中時計は、未来の俺が遺した、覚醒のための鍵。
「なぜだ! なぜ俺なんだ! こんな呪いで……こんな悲しみだけで、世界が救えるものか!!」
俺は天に向かって絶叫した。喜びも、希望も、愛も、そして憎しみさえも。その全てを抱きしめなければ、星屑の呪いは解けない。俺の存在そのものが、そのための器だった。答えは、あまりにも残酷で、孤独だった。
第四章 名もなき英雄の夜明け
俺は決意を固め、崩れた祭壇の中央に立った。敵兵たちは、俺から放たれる尋常ならざる気配に圧され、動けずにいる。
光り続ける懐中時計を、アンテナのように高く掲げる。
「来い。世界中の悲しみも、願いも、憎しみも……全て、俺が引き受ける」
その言葉に応えるように、空が鳴動した。夜空を埋め尽くしていた「星屑の記憶」が、世界中からこの教会跡を目指して降り注いでくる。それは、何億、何兆という魂の慟哭であり、愛の囁きだった。光の津波が、俺の身体に殺到する。
俺の肉体が、徐々に光の粒子へと変わっていく。指先から崩れ、星屑と溶け合っていく感覚。痛みはない。ただ、途方もない悲しみと、それを上回るほどの温かい愛が、俺という個を溶かしていく。
「兄さん……これで、いいんだろう……?」
最後の呟きは、誰にも届かない。俺の意識は無限に拡散し、星屑の奔流と完全に一つになった。
光は巨大な一つの意志となり、天から大地へと降り注ぐ。それは破壊の光ではない。癒しと、共感の光だった。世界中で戦っていた兵士たちが、ふと、空を見上げて武器を置いた。彼らの心に、直接流れ込んできたのだ。敵であるはずの相手の悲しみが。その胸に宿る、家族への愛が。なぜ自分たちが殺し合っていたのか、その理由が、まるで遠い昔の夢のように霞んで消えていく。憎しみが、雪のように溶けていく。
戦争は、その日、終わった。
数年後。世界には穏やかな平和が訪れていた。街角の公園で、一人の少女が地面に落ちている古い懐中時計を拾い上げた。銀色のそれは、傷だらけで、「午前11時11分」を指して止まっている。
「だれのかな?」
少女は不思議そうに首を傾げ、それを大切な宝物のように、そっとポケットにしまった。彼女は知らない。その時計が、かつて世界を救った英雄の唯一の遺品であることなど。
世界は英雄を記憶していない。リアムという名の青年がいたことさえ、誰も知らない。
だが、彼が遺した想いは、この大地に、風に、そして互いを思いやる人々の心の中に、確かに息づいている。
空にはもう、悲しい星屑は二度と舞わなかった。