追憶の弾丸

追憶の弾丸

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第一章 忘却の引き金

硝煙の匂いは、錆びた鉄と焼けた土の匂いがした。塹壕に身を屈める僕、リオの頬を、乾いた風が撫でていく。その風は、遠い故郷の洗濯物の匂いとは似ても似つかなかった。手にした「記憶変換式小銃」が、鉛のように重い。これは、ただの殺戮の道具ではない。我々の魂を削り取り、それを弾丸へと変える、呪われた祭器だ。

「リオ、次弾装填!」

隣で叫ぶのは、古参兵のダリオだ。彼の目は、どこか遠くを見ているように虚ろだった。ついさっき、彼は故郷の祭りの夜の記憶を撃ち出した。花火の光、恋人の笑顔、甘い綿菓子の味。その全てを、敵の装甲車を破壊するための一発に変えてしまったのだ。今や彼の口元からは、あの陽気な鼻歌が消えている。

僕たちは、記憶で戦う。些細な記憶ほど威力は低い。「昨日の朝食のパンの硬さ」や「幼い頃に転んだ膝の痛み」といった記憶は、牽制射撃にしかならない。戦況を覆す一撃は、人生で最も輝き、最も心揺さぶられた記憶からしか生まれない。愛する者との誓い、初めて見た海の広さ、親友と夜通し語り明かした夢。それらを撃ち出す瞬間、僕たちはその記憶を永遠に失う。脳裏から、心から、その情景は綺麗に消え去り、後には意味の分からない喪失感だけが残る。

僕には、まだ使っていない記憶がある。たった一つ、誰にも譲れない宝物。五つ年下の妹、エマが、僕の徴兵が決まった日にくれた、手作りの木彫りの小鳥。そして、「必ず帰ってきて。この鳥みたいに」と涙を堪えて微笑んだ、あの夕暮れの光景だ。その記憶だけは、この銃の糧にするわけにはいかない。それを失ったら、僕は僕でなくなってしまう。

「敵影、前方三百! 一点集中砲火!」

上官の怒声が響き渡る。敵の猛攻が始まった。土煙が舞い、耳をつんざく爆音が鼓膜を揺らす。仲間たちが次々と「切り札」を使い始めた。ある者は新婚旅行の思い出を、ある者は息子が生まれた日の歓喜を、灼熱の光弾に変えて撃ち放つ。そのたびに、彼らの顔から表情が一つ、また一つと抜け落ちていくのが分かった。まるで、色褪せていく古い写真のように。

僕も応戦する。だが、込められるのは取るに足らない記憶ばかりだ。「道端に咲いていた名も知らぬ花の色」「教科書のインクの匂い」。弾丸は弱々しく飛び、敵の塹壕の手前で虚しく霧散した。

「リオ! 何をためらっている! お前の『切り札』を使え! ここで死にたいのか!」

上官の目が僕を射抜く。その瞳は、あまりに多くの記憶を失い、もはや他人の感情を映すことさえできない、乾いたガラス玉のようだった。僕は唇を噛み締め、小銃を強く握りしめた。エマの顔が脳裏をよぎる。ダメだ、それだけは……。

その瞬間、鋭い風切り音が僕の耳元を掠めた。敵弾だ。ヘルメットの側面を弾丸がかすめ、火花が散る。僕は反射的に地面に伏せた。だが、奇妙なことが起きた。

弾丸が触れたこめかみから、電流のようなものが脳を駆け巡った。そして、一瞬だけ、僕のものではない光景が見えたのだ。陽光が降り注ぐ庭、白いワンピースを着た少女が笑っている。知らない顔だ。彼女は手に持った赤いボールを高く放り投げ、その声は夏の風に溶けていくようだった。

幻はすぐに消え、僕は再び硝煙と絶叫の渦巻く現実に引き戻された。心臓が激しく鼓動していた。今の光景は何だ? 敵の記憶……? 弾丸に、撃ち手の記憶の残滓が宿るというのか? そんな話は、誰からも聞いたことがなかった。

第二章 セピア色の残像

あの奇妙な体験以来、僕の世界は静かに歪み始めていた。敵の銃口の向こう側にいるのは、もはや記号や的ではない。彼らもまた、僕たちと同じように、失いたくない記憶を胸に抱え、そしてそれを失う痛みと共に戦っているのかもしれない。白いワンピースの少女の笑顔が、まぶたの裏に焼き付いて離れなかった。

夜、僅かな休息時間。塹壕の中で、僕たちは冷えた配給食を口に運んでいた。誰もが口数少なく、その沈黙は、失われた記憶の分だけ重みを増しているようだった。

「なあ、リオ」ダリオが、焚き火の揺らめきを見つめながら、ぽつりと呟いた。「お前、何を失うのが一番怖い?」

彼の問いに、僕は言葉を詰まらせた。エマの記憶、と答えるのは簡単だった。だが、本当に怖いのはそれだけだろうか。

「記憶を失うことは、魂の一部を殺すことだ」彼は続けた。「俺はもう、女房の顔も、初めて口づけを交わした場所も思い出せない。ただ、何かとても大切なものを失った、という感覚だけが胸に穴を開けている。この戦争が終わって家に帰っても、俺はもはや、彼女が愛した男じゃないんだ」

ダリオの横顔は、焚き火の光に照らされて、まるで知らない男のように見えた。彼の言葉は、僕の心に深く突き刺さった。僕たちは国を守るために戦っている。だが、そのために自分自身を失って、一体何が残るというのだろう。

数日後、僕は斥候任務に志願した。敵陣の配置を探る、危険な任務だ。だが僕は、確かめずにはいられなかった。あの少女の記憶の持ち主を、この目で見てみたかった。

闇に紛れて、敵の警戒網を抜ける。月明かりだけが頼りだった。息を殺し、草の匂いと湿った土の感触を全身で感じながら、僕は敵の野営地に近づいた。そこから漏れ聞こえてきたのは、怒声や鬨の声ではなかった。それは、抑揚のない、悲しげな歌声だった。

岩陰からそっと覗き込むと、数人の敵兵が小さな焚き火を囲んでいた。彼らの顔は、僕たちと同じように疲労と悲しみに満ちていた。一人の若い兵士が、震える声で語っていた。

「……今日、妹の誕生日を撃った。あいつが好きだった、イチゴのケーキの味と一緒に。もう、祝ってやることも、その笑顔を思い出すこともできない」

彼の仲間が、無言でその肩を叩く。彼らもまた、同じ痛みを共有しているのだ。彼らが使う言葉は違えど、その声に含まれた喪失の色は、僕たちが知るものと全く同じだった。白いワンピースの少女。彼女も、この中の誰かの、あるいはここにいない誰かの、かけがえのない記憶だったに違いない。敵と味方。その境界線が、僕の中で急速に溶けていくのを感じた。

第三章 交錯する追憶

夜明けと共に、総攻撃の号令が下された。それは、この戦線を決する、最大規模の戦闘だった。空は爆撃機の黒い影で覆われ、大地は砲弾の雨に絶え間なく揺れた。僕たちは、波のように敵陣へと押し寄せる。もはや、些細な記憶で時間を稼いでいる余裕はなかった。

「撃て、撃て、撃ち尽くせ! 最後の記憶を捧げろ!」

狂乱した上官の声が、爆音の合間を縫って届く。仲間たちは、次々と人生の最終章を弾丸に変えていく。その度に、彼らの瞳から光が失われ、ただ命令に従うだけの自動人形になっていく。

僕は追い詰められていた。敵兵がすぐそこまで迫っている。小銃を構え、震える指で記憶変換装置を操作する。パネルに映し出されるのは、エマの、あの夕暮れの笑顔だ。「必ず帰ってきて」という声が、頭の中に響く。ごめん、エマ。僕は、君との約束を守れないかもしれない。

引き金に指をかけた、その時だった。前方の土煙の中から、一人の男が現れた。敵の指揮官だ。彼の軍服は所々が焼け焦げ、顔には深い傷跡があった。だが、その双眸は、燃えるような強い光を宿していた。僕と彼の目が、ぴたりと合った。

時間が、引き伸ばされたように遅くなる。彼は僕に銃口を向け、躊躇なく引き金を引いた。閃光。僕は避けきれず、灼熱の衝撃が左肩を貫いた。

激痛と共に、僕は地面に倒れ込んだ。だが、肉体の痛みなど些細なことだった。弾丸が僕の体に触れた瞬間、凄まじい奔流となって、彼の記憶が僕の脳内になだれ込んできたのだ。

それは、あの白いワンピースの少女の記憶だった。しかし、僕が垣間見た断片とは比べ物にならないほど鮮明で、膨大だった。彼女の名前はリナ。彼の最愛の娘。公園で駆け回る姿、誕生日を祝う家族の食卓、初めて文字を書いた日の喜び。温かく、光に満ちた、幸せな記憶の数々。

そして、記憶の最後。けたたましいサイレンの音。空を覆う、見慣れた我が軍の爆撃機。リナを庇い、家に覆いかぶさる彼。轟音、衝撃、舞い上がる粉塵。そして、瓦礫の中で腕に抱いた、動かなくなった小さな体……。

僕の部隊が参加した、先月の空爆だった。

絶望が、僕の全身を叩きのめした。涙が止めどなく溢れる。だが、流れ込んできた記憶が告げる事実は、それだけではなかった。彼は、復讐のために戦っているのではなかった。この地獄のような記憶を、彼は何度も何度も弾丸に変えて撃ち出してきたのだ。娘を失った、この引き裂かれるような悲しみを、忘れるために。

しかし、その記憶は決して消えなかった。撃ち出すたびに、心の奥底でより鮮明に、より鋭利になって、彼を苛み続けていた。この世界で最も強力な弾丸を生み出すのは、愛おしい記憶ではない。最も忘れたいと願いながら、決して消すことのできない、絶望的なまでの悲しみの記憶だったのだ。

僕は悟った。僕が守ろうとしていたエマとの美しい記憶も、彼が消そうとしていたリナとの悲しい記憶も、源は同じなのだ。それは、どうしようもなく深い「愛」だった。

第四章 沈黙の銃口

僕は地面に膝をついたまま、動けなかった。肩の傷口から流れる血よりも、心に流れ込んできた彼の悲しみが、僕の全てを麻痺させていた。目の前に立つ敵の指揮官。彼はもはや、憎むべき敵ではなかった。同じように愛を知り、そして僕よりも遥かに深い喪失を抱えた、一人の父親だった。

僕の手の中で、記憶変換式小銃が虚しく冷たかった。エマの笑顔が浮かぶ。この記憶を撃てば、強力な一撃を放てるだろう。だが、その一撃は、目の前の男の悲しみを終わらせるだけかもしれない。そして、僕自身も、帰るべき理由を失う。それは、勝利ではない。魂の敗北だ。

指揮官は、僕が撃ち返してこないことに気づいたようだった。彼の燃えるような瞳が、僕の涙に濡れた顔を捉え、わずかに揺らぐ。僕の目を見れば、彼には分かったはずだ。彼の記憶が、彼の絶望が、僕に伝わってしまったことが。

言葉はなかった。僕たちの間には、ただ戦場の喧騒を突き抜ける、奇妙な静寂だけが存在した。それは、互いの魂の奥底を覗き込み、同じ痛みを分かち合った者だけが共有できる、沈黙の理解だった。

僕は、ゆっくりと立ち上がった。そして、エマの記憶が込められようとしていた小銃を、静かに地面に置いた。

武器を捨てる。それは、死を意味する行為だ。だが、僕には分かっていた。記憶を失い、空っぽのまま生き永らえることは、本当の意味での「生」ではない。エマとの約束は、ただ生きて帰ることじゃない。彼女の兄として、心を失わずに帰ることだ。たとえ、この先どんな悲しみが待っていようとも、この記憶を抱えたまま生きていく。それが、僕の選ぶべき戦いだった。

僕の行動は、さざ波のように周囲に広がった。僕を狙っていた他の敵兵たちが、戸惑ったように銃口を下ろす。それを見た味方の兵士たちもまた、引き金にかかった指を緩めた。狂乱の只中にあった戦場に、まるで伝染するかのように、銃声の止む空白が生まれていく。

指揮官は、僕から視線を外し、天を仰いだ。彼の目からも、一筋の涙が流れたように見えた。彼は銃を下ろし、僕に背を向け、ゆっくりと自陣へと歩き去っていった。その背中は、果てしない悲しみを背負いながらも、どこか少しだけ、軽くなったように見えた。

戦争は、この日、この場所で終わったわけではない。世界のどこかでは、今も記憶が弾丸に変えられ、魂が削られているだろう。

それでも、僕たちの戦場には、沈黙が訪れた。僕の心には、エマの夕暮れの笑顔が、今も鮮やかに息づいている。そして、それと共に、僕のものではなかったはずの、白いワンピースの少女の笑顔もまた、確かに刻み込まれていた。

失うことで何かを守るのではない。他者の痛みを受け入れ、その記憶と共に生きていくこと。あるいは、それこそが、この呪われた世界で僕たちが見つけられる、唯一の希望の形なのかもしれない。僕は空を見上げた。そこには、忘れかけていた、故郷の空と同じ青色が広がっていた。

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