第一章 灰色のファインダー
リヒトの世界は、美しい濃淡で出来ていた。空は淡い銀鼠色から、やがて鉛色へと沈んでいく。森の木々は深緑ではなく、墨を滲ませたような黒の階調で風に揺れ、かつて「薔薇」と呼ばれた花は、ベルベットのような質感の黒い影を花弁に宿していた。
大戦が終結して二十年。世界から「色」が失われ始めて、それだけの時が経っていた。戦争で使われた新型爆弾――「色彩喪失爆弾(クロマ・ボム)」は、人命よりも雄弁に、世界の記憶を奪っていった。爆心地から同心円状に、ある特定の波長の色が、まるで蒸発するように消え失せるのだ。最初の爆弾は「赤」を奪い、次の爆弾は「黄」を消した。戦争末期には、空と海の「青」までもが世界からごっそりと抜き取られた。
リヒトは写真家だった。祖父から譲り受けた旧式のフィルムカメラを首から下げ、失われゆく色の残滓を、そして完全に色を失った世界のモノクロームの美を記録し続けていた。それが、戦争を知らない彼にできる、唯一の抵抗であり、祈りだった。人々は次第に色のない世界に順応し、親世代が語る「夕焼け」や「新緑」といった言葉も、現実感のないおとぎ話になりつつあった。しかしリヒトは、祖父が遺した古い色彩写真のアルバムを知っていた。そこに写る、暴力的なまでに鮮やかな世界を、彼は焦がれ続けていた。
その日、リヒトはいつものように、街外れの廃工場地帯で撮影を終え、自宅の薄暗い暗室に篭っていた。現像液のツンとした匂いが鼻をつく。赤いセーフライトも、この世界では意味をなさない。ただの薄暗い電球だ。「赤」という概念そのものが、もう存在しないのだから。
ピンセットで印画紙を挟み、定着液から引き上げる。水洗いを終え、クリップで吊るす。そこに写し出されたのは、錆びついた鉄骨が空に向かって伸びる、ありふれたモノクロームの風景。のはずだった。
「……なんだ、これ」
リヒトは思わず声を漏らした。印画紙の一点に、信じがたいものが写り込んでいた。瓦礫の隙間から顔を覗かせた、一輪の小さな花。その花弁に、淡く、しかし確かに「青」が灯っていたのだ。
あり得ない。大戦末期に投下された最後の爆弾が、「シアン」から「ウルトラマリン」まで、全ての青のスペクトルを世界から消し去ったはずだ。それは、物理法則のように絶対の事実だった。リヒトは印画紙を掴むと、窓から差し込む灰色の光にそれをかざした。見間違いではない。それは、祖父のアルバムで見た、澄み切った空の色。忘れられたはずの、コバルトブルーの欠片だった。
心臓が早鐘を打つ。これは、世界の法則を覆す奇跡なのか。それとも、まだ誰も知らない、戦争の新たな呪いのはじまりなのだろうか。リヒトはカメラバッグを掴んだ。あの場所に、もう一度行かなければならない。ファインダー越しではない、この目で、失われたはずの青を確かめるために。
第二章 残響のコバルトブルー
立入禁止のフェンスを乗り越え、リヒトは旧爆心地へと続く荒野を歩いていた。ここは二十年前に「青」が失われた場所だ。足元の土は黒く、乾いた風が吹き抜けるたびに、鉄錆と埃の混じった匂いがした。世界から色が失われる瞬間は、完全な無音だったと聞く。音もなく、ただ静かに、世界の彩度だけが落ちていく。その静寂こそが、何よりも恐ろしかったと祖父は語っていた。
写真に青が写っていたのは、巨大なガスタンクの残骸の麓だった。リヒトは記憶を頼りに、瓦礫の山を慎重に進む。心臓の鼓動が、静寂の中でやけに大きく響いた。
そして、彼はそれを見つけた。
写真に写っていたのと同じ、小さな花。しかし、彼の肉眼には、それは他の植物と同じく、ただの灰色の濃淡にしか見えなかった。やはり光の悪戯か、フィルムの異常だったのか。落胆がリヒトの肩に重くのしかかる。
「……何か、お探しですか?」
背後からかけられた声に、リヒトは飛び上がるほど驚いた。振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。歳はリヒトと同じくらいだろうか。着古した灰色のワンピースに、長く編んだ髪は、まるで光を吸い込むような不思議な黒色をしていた。何よりも印象的だったのは、彼女の瞳だった。このモノクロームの世界で、唯一許された色彩であるかのように、深く、静かな青色を湛えていた。
「いや、その……花を」リヒトはどもりながら答えた。「青い花が、咲いているように見えたんだ。写真に、そう写っていたから」
少女はくすりと笑った。その笑顔は、まるで水面に広がる波紋のように、周囲の空気を和らげる力があった。「ええ、咲いていますよ。とても綺麗に」
「君には、見えるのか?色が」
「はい。私には、見えますから」
彼女はアリアと名乗った。この廃墟で一人で暮らしているという。アリアが指差す先を、リヒトはもう一度凝視した。やはり、灰色にしか見えない。だが、彼女が隣にいるだけで、なぜかその花が持つべき本来の色が、頭の中に流れ込んでくるような気がした。忘れかけていた「青」の記憶が、心の奥底で微かに疼く。
二人は言葉を交わしながら、廃墟を歩いた。アリアはこの世界の全ての色を、まるで昨日のことのように語った。真っ赤に燃える夕焼け、萌えるような若草の緑、黄金色に輝く小麦畑。それはリヒトが写真でしか知らない、おとぎ話の世界だった。
「どうして君だけが色を視ることができるんだ?」リヒトは尋ねた。
アリアは少し寂しそうに微笑むと、空を見上げた。「私は、たぶん、忘れられていないだけなんです。誰かが強く覚えていてくれる限り、色は消えないから」
その言葉の意味を、リヒトは完全には理解できなかった。だが、彼女の瞳に宿る深い青を見ていると、この世界はまだ終わっていないのだと、強く感じることができた。彼女自身が、失われた色彩の最後の残響のように思えた。
第三章 彼女という色彩
リヒトはアリアに会うため、毎日のように廃墟へ通った。彼女と過ごす時間は、モノクロームの世界に差し込む一筋の光だった。彼はアリアを被写体に、何枚も写真を撮った。不思議なことに、アリアを撮った写真には、いつも彼女の瞳と同じ、淡い青色の光が写り込んだ。まるで彼女の存在そのものが、世界に色を呼び戻そうとしているかのようだった。
リヒトはアリアに惹かれていた。それは、彼女が持つ特異な能力への興味だけではなかった。世界の全ての色を記憶していながら、それを誰とも分かち合えずに生きてきた彼女の孤独に、彼は自分の姿を重ねていた。
変化は、突然訪れた。その日、廃墟にけたたましい軍靴の音が響き渡った。現れたのは、隣国の軍服を纏った兵士たちだった。彼らはリヒトを突き飛ばし、アリアを取り囲んだ。
「ようやく見つけたぞ、最終変数『アズール』」指揮官らしき男が、歪んだ笑みを浮かべて言った。「お前が存在する限り、我々の『色彩浄化』は完成しない」
リヒトは何が起きているのか理解できなかった。アリアは怯える様子もなく、ただ静かに兵士たちを見つめていた。その青い瞳が、悲しげに揺らぐ。
「やめろ!彼女に何をする気だ!」リヒトは叫んだ。
指揮官はリヒトを一瞥し、嘲るように言った。「小僧、お前には分かるまい。そいつは人間ではない。大戦末期、我々が放った最終クロマ・ボム――『青』を消し去る爆弾が生み出した、偶発的な副産物だ。消え去るべき『青』という概念が、人々の強い想念や記憶を核にして、人の形を成しただけの、いわば『色の幽霊』よ」
衝撃的な事実に、リヒトは言葉を失った。アリアが、人間ではない?「青」という色の概念そのもの?
「彼女は、人々の記憶を糧に存在する。そして彼女が存在する限り、この世界から『青』は完全には消滅しない」指揮官は続けた。「だが、我々はその性質を逆用する。彼女を捕らえ、その存在を強制的に霧散させれば、世界中の人間の精神から『青』の記憶を完全に消し去ることができる。色が完全に忘れ去られた時、我々の新しい秩序は完成するのだ。彼女は、我々にとって究極の記憶破壊兵器となる」
兵士たちがアリアに手を伸ばす。その瞬間、リヒトは衝動的に動いていた。彼は兵士とアリアの間に割って入り、両腕を広げて彼女を庇った。
「彼女に触るな!」
アリアは、リヒトの背中の後ろで小さく震えていた。彼女は人間ではないのかもしれない。色の幽霊なのかもしれない。だが、リヒトにとって、彼女は笑い、語りかけ、孤独を分かち合ってくれた、かけがえのない存在だった。世界から色が戻ることよりも、彼女一人の存在の方が、今は遥かに重かった。
価値観が根底から覆される。彼はこれまで、失われた色を取り戻すことだけを夢見てきた。だが今、目の前にいる「青」そのものである彼女を、世界のために犠牲にすることなど、到底できなかった。
第四章 心に灯るプリズム
閃光と爆音。リヒトが我に返った時、周囲には味方であるはずの自国の兵士たちが駆けつけ、隣国の部隊と交戦状態に陥っていた。混乱の中、リヒトはアリアの手を掴んで必死に走った。瓦礫の影に身を潜めると、アリアが静かに口を開いた。
「……ごめんなさい。私のせいで」
「君のせいじゃない」リヒトは息を切らしながら答えた。「君は、ただ、そこにいただけだ」
アリアの青い瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。その雫は、地面に落ちると、淡い光を放って消えた。彼女は、泣くことさえ、自分の存在を削ることになるのかもしれない。
リヒトは決意した。アリアを兵器になどさせない。かといって、このまま隠れていても、いずれ見つかってしまうだろう。方法は一つしかなかった。指揮官の言葉がヒントになった。「彼女は、人々の記憶を糧に存在する」。ならば、その記憶を、もっともっと強くすればいい。
翌日、リヒトは行動を開始した。彼はこれまで撮り溜めてきた、アリアの写真――その瞳や、彼女の周りにだけ微かに写り込んだ青い光の写真を、全て引き伸ばした。そして、街の中心の広場へ向かった。彼は、広場の壁という壁に、その写真を貼り付け始めたのだ。
「皆さん、見てください!」リヒトは集まってきた人々に向かって叫んだ。「これが『青』です!僕たちが忘れてしまった、空の色、海の色です!」
人々は怪訝な顔で写真を見つめた。モノクロの写真に写る少女と、そこに灯る不思議な光。最初は誰も信じなかった。だが、リヒトは語り続けた。祖父から聞いた話、古いアルバムで見た色彩、そしてアリアが語ってくれた色の記憶。彼は、自分の知る限りの言葉を尽くして、色の美しさを、その喪失の悲しみを訴えた。
一人、また一人と、人々が写真に見入る。年老いた女性が、ふと呟いた。「ああ……思い出した。私の好きだった、勿忘草の色だわ」。その言葉を皮切りに、人々の心に眠っていた色の記憶が、堰を切ったように溢れ出した。子供の頃に見た空、恋人からもらったサファイアの指輪、母親が編んでくれた青いセーター。
人々の想いが、見えない力となって広場に満ちていく。その時、広場の片隅に佇んでいたアリアの姿が、ふわりと発光した。彼女の足元から、淡い青色の光が波紋のように広がり、人々の灰色の服や、建物の壁を、一瞬だけ本来の色に染め上げた。それはほんの一瞬の幻だったが、その光景を目撃した全ての人々の胸に、鮮烈な感動を刻み付けた。
世界に色が完全に戻ることはなかった。戦争が奪ったものを、完全に取り戻すことはできない。世界は今も、ほとんどがモノクロームのままだ。
しかし、何もかもが変わった。人々は、心の中に色のプリズムを取り戻したのだ。彼らは灰色の空を見上げ、そこに果てしない青を思い描くようになった。黒い花を見て、その奥にかつての赤を幻視した。失われたのではなく、心の中に在るのだと知った。
リヒトは、アリアと共に生きていくことを選んだ。彼は写真家として、色の物語を語り継ぐ者となった。アリアは、人々の強い想いによって存在を支えられ、もう消えることはなかった。彼女はもはや兵器ではなく、世界の希望の象徴となった。
時折、リヒトはファインダー越しにアリアを見つめる。モノクロームの風景の中で、彼女の瞳だけが、変わらぬ深い青色を湛えている。それは、世界でたった二つの、失われなかった青。
ファインダーの中の彼女は、優しく微笑む。その笑顔を見るたびに、リヒトは思うのだ。世界から全ての色が奪われても、たった一つ、愛する者の瞳に色が残っているのなら、それだけで世界は十分に美しいのだと。色喰いの空の下で、彼は静かにシャッターを切った。