灰色の世界に捧ぐアウローラ

灰色の世界に捧ぐアウローラ

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第一章 灰色の閃光

世界から色彩が失われて久しい。リヒトの記憶にある限り、空は常に鉛色の雲に覆われ、大地は乾いた土とコンクリートの濃淡で描かれた水墨画のようだった。人々は表情をなくし、すすけた軍服と同じ色の顔で、泥濘にぬかるむ塹壕の中を行き来していた。戦争が始まってから、もうどれほどの時が経ったのか、誰も正確には覚えていない。ただ、終わりの見えない灰色の日々が続くだけだった。

リヒトもまた、その灰色に溶け込む一部だった。徴兵され、銃の冷たい感触だけが現実だと教え込まれた。感情は邪魔になる。恐怖も、怒りも、ましてや喜びなど、この世界では無用の長物だった。彼は心を分厚いコンクリートの壁で覆い、ただ命令に従って引き金を引く機械になろうと努めていた。

その日も、敵の砲撃が絶え間なく降り注いでいた。鼓膜を突き破るような轟音と、大地を揺るがす振動。リヒトは塹壕の壁に背を押し付け、頭を抱えていた。すぐ隣で、昨日言葉を交わしたばかりの同僚が、声もなく崩れ落ちる。土くれと鉄片が混じり合った嵐の中、死はあまりにもありふれた、色のない出来事だった。

「突撃!」

分隊長の甲高い号令が響く。思考する暇はなかった。身体が反射的に動き、リヒトは他の兵士たちと共に泥水を蹴立てて塹壕を飛び出した。目前に広がるのは、鉄条網とクレーターだらけの無人地帯。敵の機関銃が火を噴き、灰色の空気を切り裂いていく。

一発の砲弾が、リヒトの数メートル先で炸裂した。衝撃波が彼を地面に叩きつける。土の匂いと硝煙の匂いが鼻をつき、耳鳴りが世界から一切の音を奪い去った。朦朧とする意識の中、彼はゆっくりと顔を上げた。

その瞬間だった。

視界のすべてが、燃えるような「赤」に染まった。それは血の色であり、炎の色であり、リヒトが生まれてから一度も見たことのない、あまりにも鮮烈な色彩だった。爆発の中心で渦巻く深紅は、彼の心の壁をいとも容易く突き破り、魂の奥深くに焼き付いた。それは、純粋な恐怖そのものだった。死を覚悟した瞬間にだけ現れる、世界の真の姿なのだろうか。

やがて赤は幻のように消え失せ、世界は再び元の、味気ない灰色へと戻っていった。しかし、リヒトの中では何かが変わってしまった。初めて見た「色」の記憶が、彼の閉ざされた心に、小さな、しかし消えることのない亀裂を入れたのだ。あの赤は何だったのか。あれが、かつて世界にあふれていたという「色彩」なのだろうか。灰色の日々に、初めて一つの問いが生まれた。

第二章 色彩の萌芽

あの鮮烈な「赤」との遭遇以来、リヒトの世界は静かに変わり始めた。彼は以前よりも周囲を注意深く観察するようになった。だが、いくら目を凝らしても、世界は相変わらずの灰色だった。あの色は、死の間際に見た幻覚だったのかもしれない。そう結論づけようとした矢先、彼は野戦病院で働く衛生兵の少女、エマと出会った。

エマは、この灰色に染まった世界で、不思議なほど生き生きとしていた。彼女は負傷兵たちの間を駆け回り、その声は砲声の合間を縫って、澄んだ音色のように響いた。リヒトが腕にかすり傷を負って治療を受けた時、彼女は手際よく包帯を巻きながら、屈託なく話しかけてきた。

「大丈夫。これくらいなら、すぐに治るわ」

その声を聞いた時、リヒトは彼女の瞳の中に、微かな光を見た。それは、温かい土や、古びた木の机を思わせる、穏やかな「茶色」だった。驚いて瞬きをすると、色は消えていた。しかし、その温かい感覚は、確かにリヒトの胸に残った。

リヒトは、理由を見つけてはエマのもとを訪れるようになった。彼女は病院の裏手で、薬莢を植木鉢代わりに、小さな花を育てていた。それは、かろうじて生き延びた、この世界では奇跡のような存在だった。

「この子たち、すごいでしょう? どんな場所でも、一生懸命生きようとするの」

エマがその花にそっと触れた時、リヒトは見た。しおれかけた花びらの上に、陽だまりのような、淡い「黄色」が灯るのを。それは恐怖の赤とは全く違う、心をそっと撫でるような優しい色だった。

エマと過ごす時間が増えるにつれ、リヒトは様々な色を見るようになった。彼女が冗談を言って笑うと、その口元に桜貝のような淡い「桃色」が差した。彼女が悲しい物語を聞いて涙ぐむと、その頬を伝う雫が雨上がりの空のような「水色」にきらめいた。

色は、強い感情の波紋なのだとリヒトは気づいた。恐怖、安らぎ、喜び、悲しみ。彼が押し殺してきた感情が、エマという触媒を通して、世界に色彩を取り戻させていく。彼はいつしか、エマを守りたいと強く願うようになっていた。彼女がいれば、この灰色の世界も、いつか豊かな色彩を取り戻せるかもしれない。そんな希望が、リヒトの中で確かな輪郭を持ち始めていた。それは、リヒト自身の心にも色が灯り始めた証だった。

第三章 アウローラの裏切り

希望は、時として最も残酷な幻覚となる。その事実を、リヒトは身をもって知ることになる。

ある夜、前線に静寂が訪れた。嵐の前の静けさだと誰もが感じていたが、その静寂は奇妙なほど心地よかった。エマとリヒトは、観測所の片隅で、空に浮かぶ月を眺めていた。もちろん、月も雲も灰色だったが、二人でいるだけで、その風景は特別なものに思えた。

「ねえ、リヒト。戦争が終わったら、色のあふれる世界を見てみたいわ。青い空、緑の森、七色の虹……」

エマが夢見るように語った、その時だった。空が、淡い光を放ち始めた。それはオーロラのように揺らめき、ゆっくりと、しかし確実に、世界を染め上げていった。灰色だった雲の隙間から、深く、澄み渡った「青色」が広がっていく。それは、エマが夢にまで見た空の色だった。

「見て……なんて、綺麗……」

エマは目に涙を浮かべ、空に手を伸ばした。リヒトもまた、その神々しいまでの光景に息をのんだ。希望の色だ。自分たちの願いが、祈りが、天に届いたのだ。この光が、長く続いた灰色の戦争を終わらせてくれる。彼は強く、そう信じた。

だが、その幻想は突如として打ち砕かれる。美しい青空の下で、塹壕にいた仲間たちが、一人、また一人と力なく倒れていくのが見えた。彼らの表情は、苦痛に歪んでいるのではなく、恍惚としていた。まるで、この世で最も幸福な夢を見ながら、安らかに眠りにつくように。

「どうしたんだ……? おい、しっかりしろ!」

リヒトが駆け寄ると、倒れた兵士の一人が虚空を見つめて呟いた。

「ああ……母さん……。故郷の麦畑が……黄金色に輝いている……」

その言葉が、リヒトの背筋を凍らせた。直後、敵の部隊が霧の中から現れるように、静かに前進してきた。抵抗は、ほとんどなかった。味方は皆、幸福な幻の中で、戦うことを放棄していた。

混乱の中、かろうじて捕虜にした敵兵が、すべてを白状した。震えながら、嘲るように。

「あれは、我々の新兵器『アウローラ』だ。無色無臭のガスで、人間の脳の感情を司る部分に直接作用する。強い感情を抱いた者に、その感情に応じた強烈な色彩の幻覚を見せるのだ。そして、その美しい幻に心を奪われたまま……神経を焼き切り、死に至らしめる」

リヒトは愕然とした。彼が見てきたすべての色は、敵の非人道的な兵器がもたらした、死に至る幻覚だったというのか。恐怖の「赤」も、エマと見た安らぎの「黄色」も、そして今この空を染める希望の「青」も、すべては偽りだった。彼が抱いた希望や愛は、敵の策略によって増幅され、自分自身を蝕む毒に過ぎなかったのだ。

絶望が、彼の視界を再び灰色に塗りつぶしていく。隣で、エマがふらりとよろめいた。彼女の瞳は虚ろで、美しい青空を映したまま、焦点が合っていなかった。

「見て、リヒト……お花畑が……一面に……」

その声は、あまりにもか弱く、そして幸せに満ちていた。

第四章 心に残る色

偽りの色が世界を覆い尽くす中、リヒトは唯一の真実を抱きしめていた。それは、腕の中で衰弱していくエマの、確かな温もりだった。野戦病院に彼女を運び込んだが、もはや手の施しようはなかった。「アウローラ」に深く侵された者は、美しい悪夢から二度と目覚めることはない。

エマは、ベッドの上で幸せそうに微笑んでいた。彼女の瞳には、リヒトには見えない色とりどりの花畑が広がっているのだろう。時折、彼女は楽しげに指をさし、存在しない蝶々を追いかけた。その無邪気な姿が、リヒトの心をナイフのように切り裂いた。

偽りの色に満ちた世界で、本物の感情とは何なのだろう。エマが今感じている幸福は、偽物なのか。自分が彼女に抱いた愛情も、ガスによって作られた幻だったのだろうか。問いが、答えのない問いが、リヒトの頭の中を駆け巡った。

彼は決意した。偽りの色に、エマを独りで行かせはしない。

リヒトは、エマの手を固く、固く握りしめた。彼女の視界がどれほど鮮やかな色彩に満ちていようと、この手の温もりだけは、現実のものだ。

「エマ、聞こえるか」

彼は語り始めた。色のない世界の美しさを。

砲弾の跡に溜まった水たまりが、灰色の月を映す静かな夜のことを。

乾いたパンを分け合った時の、ザラザラした食感と、仲間のかすかな笑い声のことを。

雨上がりの土の匂い。風が頬を撫でる感触。遠くで響く、誰かの歌声。

「君が育てていた花は、黄色くなんてなかったかもしれない。でも、君がその花に水をやる姿は、誰よりも美しかった。君の瞳は茶色じゃなかったかもしれない。でも、俺をまっすぐ見てくれた時の光は、どんな星よりも強かった」

色なんて、なくてもよかったのだ。リヒトが感じていた温かい感情は、ガスが見せた幻覚なんかではなかった。それは、エマという存在そのものが、リヒトの灰色の世界に灯してくれた、本物の光だった。

彼は語り続けた。声が枯れるまで。エマの幻覚が、自分の声で、自分の言葉で、少しでも彩られることを願って。

やがて、エマの呼吸が静かになっていく。彼女は最期の力を振り絞るように、リヒトの手を握り返した。そして、虚空を見ていたその瞳が、ふっと焦点を結び、リヒトを、ただリヒトだけを映した。

「リヒト……あなたの声……とても、あたたかい色……」

それが、彼女の最後の言葉だった。

その瞬間、リヒトの世界から、揺らめいていた偽りの色彩が、すっと潮が引くように消え去った。完全な、完璧な灰色が戻ってきた。しかし、もう以前のような虚無の灰色ではなかった。

エマはいない。戦争は終わらない。世界は灰色のままだ。

だが、リヒトの心には、決して消えることのない、鮮やかな「彩り」が深く、深く刻み込まれていた。それは、偽りの兵器が見せた幻の色ではない。エマと共に感じた、痛みも、喜びも、そして愛も、すべてが混ざり合った、誰にも奪うことのできない、彼だけの本物の色だった。

リヒトは静かに立ち上がり、窓の外を見つめた。その瞳には、深い悲しみと共に、灰色の現実を生きていくという、静かで強い光が宿っていた。

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