第一章 腐敗の芽吹き
泥と硝煙、そして鉄錆の匂いが混じり合った空気が、塹壕の底に澱んでいた。リョウは、冷たい銃床を握りしめながら、絶え間なく続く砲声に耳を澄ませていた。もう何日、この湿った土くれの中で過ごしただろうか。故郷の森を燃やした炎の色が、今も瞼の裏に焼き付いている。あの豊かな緑と土の香りを奪った敵を、彼は心の底から憎んでいた。
「おい、リョウ」
隣で膝を抱えていた戦友のケンジが、掠れた声で彼を呼んだ。その顔色は土気色で、瞳には怯えが浮かんでいる。
「これ、見てくれ」
ケンジがためらいがちに差し出したのは、彼自身の左腕だった。泥に汚れた軍服の袖をまくり上げると、そこには信じがたい光景が広がっていた。手首の古い傷跡から、まるで皮膚を突き破るようにして、小さな緑色の双葉が顔を覗かせているのだ。それはあまりにも場違いで、生命力に満ちた緑だった。
リョウは息を呑んだ。全身の血が凍りつくような感覚に襲われる。
「腐敗病」。
前線で囁かれる呪われた病。感染者の体から植物が芽吹き、やがて全身を覆い尽くして死に至るという。治療法はなく、発症者は敵国の生物兵器に汚染された「腐敗兵」として、味方から忌み嫌われ、隔離、そして処分される運命にあった。
「嘘だろ……」リョウが絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
「三日前から、なんだか痒くてな」ケンジは乾いた笑みを浮かべた。「まさかとは思ったんだが……もう、終わりだ」
その瞳から、光が急速に失われていく。彼はゆっくりと腰の拳銃に手を伸ばした。
「報告される前に、自分で始末をつける。お前は何も見るな」
「やめろ、ケンジ!」
リョウは咄嗟にその手を押さえようとしたが、ケンジの力は絶望に裏打ちされていて、びくともしない。
「家族にだけは、俺が化け物になったなんて伝えるなよ。英雄として死んだと……頼む」
次の瞬間、乾いた銃声が塹壕に響き渡った。リョウの目の前で、ケンジの体は崩れ落ち、その腕からのぞく小さな双葉だけが、まるで何も知らぬ赤子のように、静かに揺れていた。
リョウは、その場に立ち尽くすことしかできなかった。友の命を奪ったのは、敵の銃弾でも砲弾でもない。たった一枚の、小さな葉だった。彼の心に、植物そのものへの、そしてこの不条理な戦争への、焼け付くような憎悪が深く刻み込まれた。
第二章 無人地帯の花
腐敗病の蔓延は、戦況を奇妙な形で膠着させた。敵も味方も、銃口の先にある脅威だけでなく、自らの体内に潜むかもしれない見えざる敵に怯えるようになった。誰もが互いを疑い、自分の体に小さな傷や発疹を見つけるたびに、絶望的な表情を浮かべた。上層部はこれを敵国の非人道的な新型兵器だと断定し、兵士たちの憎悪を煽り立てた。リョウもまた、そのプロパガンダを疑うことなく信じ、ケンジを奪った病への復讐心を燃やしていた。
彼は異常なほど潔癖になった。泥水で何度も体を洗い、支給される水で手を消毒する。野に咲く僅かな草花さえも、死の使いのように見え、踏み潰さずにはいられなかった。故郷の森を愛したかつての自分は、もうどこにもいなかった。兵士として、ただ敵を殺し、生き残る。それだけが彼の全てだった。
ある夜、敵陣への奇襲作戦が敢行された。月明かりすらない闇の中、リョウは仲間と共に鉄条網を潜り抜け、敵の塹壕へと忍び寄った。激しい銃撃戦が始まり、硝煙と怒号が夜を切り裂く。リョウは無心で引き金を引いた。ファインダー越しに見える敵兵の顔など、もはやただの的でしかない。
戦闘が終結に近づいた頃、リョウは足を滑らせ、敵兵の死体が折り重なるぬかるみへと転げ落ちた。その時、腕に鋭い痛みが走る。何かの破片で深く切り裂いてしまったらしい。悪態をつきながら起き上がろうとした彼の目に、信じられないものが映った。
彼のすぐ側で仰向けに倒れている若い敵兵。その胸の傷口から、一本の、凛とした白い花が咲き誇っていたのだ。泥と血にまみれた戦場にはあまりに不似合いな、清らかで美しい花だった。月光が雲の切れ間から差し込み、その花弁を白く照らし出す。それはまるで、死者への手向けのように見えた。
リョウは、その光景から目が離せなかった。憎むべき敵。腐敗病に汚染された醜い化け物。そうであるはずなのに、彼の胸から咲く花は、なぜこれほどまでに美しいのか。脳裏に、故郷の森の片隅にひっそりと咲いていた、同じ名の花が蘇る。幼い頃、その花を摘んで母に渡した日の記憶。温かい手の感触と、優しい笑顔。
彼の内側で、硬く凍りついていた何かが、微かにひび割れる音がした。
第三章 新しい森の礎
奇襲作戦から数日後、リョウは左手の包帯を解き、息を呑んだ。あの時負った傷口が、疼くように熱を持っている。そして、その中心に、見覚えのある緑色の双葉が、力強く顔を出していた。ケンジの腕にあったものと、全く同じ芽だった。
絶望が、冷たい水のように全身を巡った。どんなに用心しても、どんなに憎んでも、無慈悲な病は彼をも捉えたのだ。
「俺も……化け物に……」
思考が停止する。仲間たちの軽蔑の眼差し、隔離施設への移送、そして無意味な死。ケンジの最期が脳裏をよぎる。同じ道を辿るくらいなら、いっそ――。
衝動的に、リョウは銃を手に塹壕を飛び出した。どうせ死ぬのなら、敵を一人でも多く道連れにしてやる。処分される前に、兵士として死ぬのだ。彼は、両軍の睨み合う無人地帯(ノーマンズランド)へと、狂ったように突き進んだ。
しかし、砲弾のクレーターをいくつも越えた先で、彼は足を止めた。目の前に広がっていたのは、地獄のような戦場ではなかった。
そこは、一面の花畑だった。
赤、白、黄色、紫。色とりどりの花々や、名も知らぬ植物たちが、おびただしい数の骸から芽吹き、風にそよいでいた。破壊され尽くしたはずの大地は、まるで生命の絨毯のように生まれ変わっていた。それは、この世のものとは思えないほど幻想的で、荘厳な光景だった。
花畑の中心に、人影が見えた。敵国の軍服を着た、白髪の老人だった。彼は銃も持たず、ただ静かに、植物の世話をしていた。リョウが殺意を込めて銃口を向けると、老人はゆっくりと顔を上げた。その目は驚くほど穏やかだった。
「君も、選ばれたのかね」老人は、リョウの左手にある双葉に目をやり、静かに言った。言葉は違うはずなのに、不思議と意味が理解できた。
「選ばれただと? これは、お前たちの国の呪いだろう!」
リョウは叫んだ。しかし、老人からは憎しみの感情が一切感じられない。
「呪いではない。これは、大地の祈りだよ」
老人は語り始めた。彼は軍医であり、この現象をずっと調査していたという。この病は、ウイルスでも生物兵器でもない。戦争によって、あまりにも多くの化学物質と血が大地に吸い込まれた結果、土そのものが悲鳴を上げたのだと。大地は、自らを浄化し、新たな生命を育むために、最も生命力に満ちた存在――若い兵士たち――を「種子」として選び、その体に未来を託したのだ、と。
「我々は兵士ではない。我々は、この荒れ果てた地に、新しい森を作るための礎なのだよ。敵も味方も関係なく、ただ、大地に選ばれた最初の種子なのだ」
老人の軍服の胸元からも、青い小さな花が咲いていた。彼の言葉は、リョウの心の奥深くに突き刺さった。憎しみと復讐心で固められていた価値観が、音を立てて崩れ落ちていく。敵、味方、国、イデオロギー。この壮大な生命の循環の前では、それらがどれほど矮小なものだったか。
第四章 静かな芽吹き
リョウは、銃を地面に置いた。硝煙の匂いではなく、むせ返るような花の香りと土の匂いが、彼の肺を満たしていく。彼はもはや、兵士ではなかった。
彼は無人地帯に留まった。そこには、彼と同じように運命を受け入れた、数人の敵国の兵士たちがいた。彼らもまた、体から様々な植物を芽吹かせ、静かにその日を待っていた。言葉は通じなかったが、互いの体から育つ植物を見れば、不思議と心が通じ合うような気がした。ある者は力強い樫の木を、ある者は可憐な野薔薇を、その体に宿していた。
リョウの左手から芽吹いた双葉は、日を追うごとにすくすくと育ち、やがて彼が故郷の森で見た、懐かしい山桜の若木であることが分かった。彼は、自分の体が、あの燃え尽きた森をこの地に再生させるための器となったことを知った。憎しみの対象であった植物は、今や彼自身の一部であり、未来への希望そのものだった。
死の恐怖は、いつしか消え失せていた。代わりに、大いなる流れの一部となることへの、静かな安堵と誇りが心を占めていた。彼は、かつてケンジの腕から芽吹いた双葉の意味を、今なら理解できる気がした。あれは呪いではなく、新たな始まりの兆候だったのだ。
やがて、リョウの足は深く根を張り、大地と一体になった。意識は次第に薄れ、思考は風の音や土の感触に溶けていく。最後に彼の目に映ったのは、自らの指先から伸びた枝が、灰色の空に向かって最初の桜の葉を広げる光景だった。
遠くで、砲声がまだ響いている。しかし、この小さな花畑では、破壊の連鎖を断ち切る、静かで力強い生命の賛歌が、確かに始まっていた。戦争が終わるのか、人類がどうなるのか、彼にはもう分からない。ただ、この森だけは、きっと生き続けるだろう。幾千もの兵士たちの命を吸って、未来永劫、美しい花を咲かせ続けるのだ。