第一章 残響の風景
銀色の霧が、街を包んでいた。
レオの指先から放たれたナノマシン・クラスターが、対象領域の全生体脳に浸透し、目標とする記憶情報――この街の守護聖人とされる英雄「アルトリウス」の建国叙事詩――を、シナプスの結合から静かに、そして完全に分解していく。それは外科手術のように精密で、暴力の匂いがしない、あまりにも洗練された戦争の形だった。人々は何も気づかない。ただ、翌朝目覚めたとき、心にぽっかりと空いた空洞の理由がわからず、漠然とした喪失感に首をかしげるだけだ。
「目標領域の記憶痕跡、九九・九パーセント消去を確認。作戦完了」
ヘルメットに内蔵された通信機から、合成音声が冷静に告げる。レオは背負っていた記憶消去装置《レテ》のパワーを落とし、深く息を吐いた。彼の所属する特殊記憶介入部隊、通称「レミニシオン」の任務は、敵国ヴァルマリアの国民から、彼らのアイデンティティを形成する共有記憶――歴史、文化、英雄譚――を奪い、戦意を根こそぎにすること。物理的な破壊を伴わないこの「大調停戦争」は、人道的だと称賛されていた。
レオはその中でも最高のエースだった。感情の揺らぎを見せず、常に完璧に任務を遂行する。彼にとって記憶とは、書き換え可能なデータに過ぎなかった。
撤収のため、高層ビルの屋上から身を翻そうとした、その時だった。
不意に、視界が白く点滅した。強烈なめまいと共に、全く知らないはずの光景が脳裏に流れ込んできたのだ。
石畳の広場。賑やかな楽隊の音。色とりどりのリボンで飾られた街路樹の下で、手を取り合って踊る人々。ひまわりの花束を抱えた少女が、こちらを見て屈託なく笑っている。頬を撫でる風は、焼きたてのパンと甘い果実の匂いを運んでくる。幸福、という言葉を煮詰めて結晶にしたような、温かい光景。
「……っ!」
レオは膝から崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。ヘルメットの中で、荒い呼吸が響く。あの光景はなんだ? 今まさに自分が消し去った「建国祭」の記憶の断片か? 消去プロセス中に、対象の記憶が術者にフィードバックされる「残響症候群」と呼ばれる副作用があることは知っていた。だが、これほど鮮明で、五感を揺さぶるような体験は初めてだった。
まるで、自分がその場にいたかのような、強烈なデジャヴ。いや、それ以上に――懐かしい、と感じてしまったのだ。会ったこともない人々の笑顔が、失くしてしまった宝物のように、彼の胸を締め付けた。
レオは首を振り、雑念を追い払う。これはただのノイズだ。任務が生んだ精神の残響に過ぎない。そう自分に言い聞かせ、彼は闇の中へと消えた。しかし、ひまわりの少女の笑顔だけは、網膜の裏に焼き付いて、いつまでも消えなかった。
第二章 亀裂の入った鏡
基地に戻ってからの数週間、レオの症状は悪化の一途をたどった。
それはもはや「残響」と呼べるような生易しいものではなかった。食事中に、スプーンを持つ手が止まる。目の前の味気ない配給食が、湯気の立つ肉の煮込みに変わる。知らないはずの母親が「たくさんお食べ」と微笑む声が聞こえる。訓練の最中に、敵の銃口の代わりに、夏の入道雲が広がる青空が見える。川のせせらぎと、仲間たちのはしゃぐ声が鼓膜を震わせる。
彼の完璧だった日常に、無数の亀裂が走り始めていた。鏡に映る自分の顔が、時折、まったくの別人のように見える。レオ・シュトライザーという、過去を持たない孤児院出身のエリート兵士。それが彼の全てのはずだった。だが、鏡の中の男は「お前は誰だ?」と問いかけてくるようだった。
「最近、様子がおかしいぞ、レオ。残響症候群が酷いのか?」
同僚のヤンが、心配そうに声をかけてきた。
「医務官には診てもらったのか? あまり深入りすると、精神が混濁して、自分と他人の記憶の区別がつかなくなるって話だ」
「問題ない。ただの疲労だ」
レオは短く答え、目を伏せた。ヤンに言えるはずもなかった。自分の見る幻覚が、単なるデータの断片ではなく、確かな感情と温度を伴っていることなど。それはまるで、自分の中に眠っていた誰か別の人間が、無理やりこじ開けられた記憶の扉から、這い出そうとしているかのようだった。
上官に報告しても、返ってくる答えは同じだった。「君は優秀すぎる。それだけ深く、敵の精神世界に没入している証拠だ。誇りに思うがいい。しばらく休暇を取れ」。
だが、レオにはわかっていた。これは誇れるようなことではない。これは、自己という存在の根幹が崩れ始めている音だった。彼は恐ろしかった。このままでは、偽りの記憶に精神を乗っ取られ、レオ・シュトライザーという人格が完全に融解してしまうのではないか。彼は幻覚を抑え込むため、自らに課す訓練をより過酷なものにした。肉体の限界を超えた疲労だけが、彼に一瞬の安らぎを与えてくれた。眠りさえも、今や知らない誰かの夢を見るための入り口でしかなかったのだから。
第三章 偽りの揺り籠
「これは極秘任務だ。君にしか頼めない」
司令室の冷たい光の中、上官は重々しく口を開いた。今回の標的は、個人だった。敵国ヴァルマリアの穏健派指導者、ギルベルト宰相。和平交渉の最大の障壁となっているのは、彼の頑なな意志ではなく、彼が心の支えにしている、ある一つの記憶だという。
「標的記憶は『亡き妻、エリアーヌとの最後の日の思い出』。これを消去する。彼から希望を奪い、精神的に無力化させることが目的だ」
個人の、それも愛する者との最もプライベートな記憶を消す。それはこれまでの任務とは一線を画す、魂への冒涜に等しい行為だった。レオの胸に、かすかな抵抗が生まれた。だが、彼は命令に服従するように教育されている。彼は無感情に頷き、任務を受諾した。
深夜、厳重な警備を突破し、宰相の寝室に忍び込んだレオは、眠るギルベルトの額に《レテ》の小型プローブを接続した。目を閉じ、意識を集中させる。彼の精神が、ギルベルトの記憶の海へと潜っていく。
たどり着いたのは、陽光が降り注ぐ、緑豊かな庭園だった。白薔薇のアーチの下、車椅子に座った美しい女性が、穏やかに微笑んでいる。エリアーヌ。彼女がゆっくりと顔を上げた瞬間、レオは息を呑んだ。
その顔に見覚えがあった。何度も、何度も夢の中で、幻覚の中で彼に微笑みかけてきた、あの温かい笑顔の女性。彼の心の奥底に眠る「母親」のイメージそのものだった。
「あなた…」
エリアーヌが、ギルベルトに向かって優しく語りかける。その声も、レオが幻聴で聞いていた声と寸分違わなかった。
「たとえ私のことを忘れても、あの子のことだけは、必ず見つけ出して…」
記憶の中のギルベルトが、涙をこらえながら頷く。
「ああ、約束する。必ず、我々の『アキラ』を…」
アキラ。
その名を聞いた瞬間、レオの頭の中で何かが激しく弾けた。電流が全身を貫き、彼は強制的にギルベルトの記憶から弾き出される。呼吸ができない。心臓が張り裂けそうだ。
なぜだ。なぜ、敵国の宰相の妻が、自分の幻覚に出てくる女なのだ。なぜ、彼女の口から出た名前に、これほどまでに魂が揺さぶられるのだ。
レオは任務を放棄した。彼は狂ったように基地へ戻ると、自らの権限を越え、最高機密レベルのデータバンクにハッキングを試みた。指が震える。警告音が鳴り響くが、構わなかった。彼は真実を知らなければならなかった。
そして、彼は見つけてしまったのだ。『レミニシオン計画・創設要綱』と記されたファイルを。
そこに書かれていたのは、血も凍るような真実だった。
レミニシオンの兵士は、全員が敵国ヴァルマリア出身の戦災孤児だった。十年以上前、両国の紛争の混乱に乗じて拉致され、自らの過去に関する全ての記憶を《レテ》のプロトタイプによって消去された。そして、祖国を憎むように、偽りの経歴と愛国心を徹底的に刷り込まれたのだ。
彼らは、自らの故郷の歴史を、文化を、英雄を、その手で消去させられていたのだ。
レオが見ていた幻覚は、残響症候群などではなかった。それは、消し去られたはずの彼自身の記憶の断片。ひまわり畑の少女は、幼馴染だったのかもしれない。肉の煮込みは、本当の母親の得意料理だったのかもしれない。
レオ・シュトライザーという人間は、存在しなかった。彼は、ギルベルト・フォン・ヴァルマリアと、その妻エリアーヌの間に生まれた、たった一人の息子。
アキラ。
それが、彼の本当の名前だった。
彼は揺り籠の中で、偽りの子守唄を聞かされていただけの、哀れな人形だったのだ。足元から世界が崩れ落ちていく。絶望が、彼の全身を黒い炎のように焼き尽くした。
第四章 夜明け前の選択
絶望は、やがて静かな、しかし底なしの怒りへと変わった。奪われた名前。奪われた両親。奪われた故郷。彼の人生そのものが、壮大な欺瞞の上に築かれた砂の城だった。信じていた全てが嘘だったのなら、自分はいったい何のために戦い、何を破壊してきたのか。
レオ――いや、アキラは、一人、自室で《レテ》を見つめていた。この装置は記憶を消すためのものだ。ならば、この苦痛に満ちた真実も、再び消し去ってしまえるのではないか。何も知らなかった頃の、空っぽだが平穏だったレオ・シュトライザーに戻ることもできる。それは一つの救済かもしれなかった。
だが、一度知ってしまった温もりを、どうして忘れられるだろう。エリアーヌの、本当の母親の優しい笑顔。ギルベルトという、本当の父親の悲痛な表情。彼らは今も、自分を探している。
選択の時は来た。偽りの安寧に逃げ込むか。それとも、すべてを破壊しかねない真実と共に、修羅の道を歩むか。
アキラは決意した。彼は兵士識別コードを使い、自らをターゲットとして《レテ》を起動した。しかし、彼が入力したのは消去コマンドではなかった。開発者だけが知る、デバッグ用の隠しコマンド。
――強制記憶復元シーケンス、起動。
次の瞬間、彼の脳を、堰を切った激流が襲った。
ヴァルマリアの青い空の色。ラベンダーの丘を吹き抜ける風の香り。父ギルベルトに肩車をしてもらった時の高い視界。母エリアーヌが歌ってくれた子守唄の旋律。友達と泥だらけになって追いかけたトカゲの感触。失われていた人生のすべてが、痛みと歓喜を伴って、彼の魂に流れ込んでくる。
「あ……ああ……っ!」
涙が止めどなく溢れた。それはレオの涙ではなかった。十数年の時を経て、ようやく自分の名前を取り戻した、アキラという一人の少年の涙だった。彼は偽りの兵士の抜け殻を脱ぎ捨て、本当の自分として、そこに立ち上がった。
窓の外が、白み始めている。夜明けだった。
アキラの目には、もはやかつての冷徹な光はない。そこにあるのは、憎しみでも、絶望でもなく、鋼のような、揺るぎない意志の炎だった。
この欺瞞に満ちた戦争を終わらせる。
僕から全てを奪った者たちに、そして僕と同じように、全てを奪われた同胞たちに、真実を告げる。それがどれほどの混沌と痛みを生むとしても、偽りの平和よりは遥かにいい。
それは、新たな、そして本当の戦いの始まりを告げる夜明けだった。アキラは静かに立ち上がり、扉へと向かう。彼の心には、もう迷いはなかった。失われた記憶の残響は、今、未来を照らすための道しるべとなったのだ。