声の無彩画

声の無彩画

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第一章 色彩のシンフォニー

柏木湊(かしわぎ みなと)にとって、世界は常に音と色彩の壮大な交響曲だった。生まれつきの共感覚。彼には、音が色を伴って見えた。クラクションは不快な赤黒い棘となって鼓膜を刺し、喫茶店のジャズは燻した琥珀色の煙のように空間を漂う。小鳥のさえずりは、新緑の絵の具を空中に散らしたようにきらめいた。

この特異な感覚は、グラフィックデザイナーである彼の日常に、密やかな恩恵と呪いをもたらしていた。クライアントの要望を電話で聞く。その声が自信に満ちたロイヤルブルーであれば、大胆なデザインを。不安げに揺れる濁った黄色であれば、安心感を与える柔らかな構成を。彼は言葉の裏にある「色」を読み解くことで、常に的確な仕事をし、若くして社内でも一目置かれる存在となっていた。

人間関係もまた、この色彩感覚に導かれていた。友人の快活な笑い声は、太陽のようなオレンジ色の飛沫となって広がり、湊の心を温める。苦手な上司の叱責は、粘つくタールのような黒で、彼はその色から物理的に距離を取ることで精神の摩耗を防いでいた。

彼の日常は、色に満ち、色に守られ、色によって成り立っていた。そう、あの日までは。

その日、湊は企画部の早川沙希(はやかわ さき)と、共有スペースで打ち合わせをしていた。彼女はいつも物静かだが、芯の通った声の持ち主だった。湊は密かに彼女に惹かれていた。彼女の声は、雨上がりの澄んだ空気に咲く紫陽花のような、静かで瑞々しい青紫色をしていたからだ。その色を見るたびに、湊の胸には穏やかな波が寄せては返した。

「このロゴのコンセプトですが、もう少しユーザーに寄り添うような温かみが欲しいという意見が出ていまして」

沙希が、モニターを指差しながら言った。湊はいつものように、彼女の声が放つ美しい青紫色を期待して、意識を集中させた。

しかし、何も見えなかった。

彼女の口から紡がれる言葉は、ただの音の振動として彼の耳に届くだけ。色は、ない。まるで上質なクリスタルガラスのように、完璧に無色透明だった。驚きのあまり、湊は息を呑んだ。目の前のモニターの光がやけに眩しく感じる。コーヒーの苦い香りが、鼻腔を鋭く突いた。

「柏木さん? どうかしましたか?」

心配そうに覗き込んでくる沙希の声も、やはり透明だった。他の社員たちの談笑が放つ色とりどりの光の粒子が、彼女の周りだけを避けるように流れていく。まるで、彼女という存在だけが、この色彩豊かな世界から切り取られてしまったかのようだった。

湊の完璧に調律されていた日常に、初めて不協和音が鳴り響いた瞬間だった。それは、彼の世界の終わりを予感させるような、静かで、恐ろしいほどの「無音」の色をしていた。

第二章 無音のパレット

沙希の声から色が消えて一週間が経った。現象は一時的なものではなかった。湊は混乱し、次第に恐怖に支配されていった。自分の脳のどこかが壊れてしまったのではないか。最初はそう疑った。しかし、世界は依然として色彩に満ちていた。朝のニュースキャスターの声は信頼感のある濃紺で、街の雑踏は様々な色の絵の具をぶちまけたパレットのようだった。ただ一人、早川沙希の声だけが、頑なに色を拒み続けている。

彼は、彼女を避けるようになった。声の色という「補助線」を失った今、彼女の感情が全く読み取れない。彼女が微笑みながら話しかけてきても、その声が無色透明であるという事実が、湊の心に得体の知れない不安を植え付けた。その笑顔は本物なのか? 言葉に偽りはないか? 今まで色に頼り切っていた彼は、まるで目隠しをされて断崖に立たされたような無力感に襲われた。

「柏木さん、この間のロゴの件、すごく好評でした。ありがとうございます」

廊下でばったり会った沙希が、そう言って微笑んだ。その声は、やはり何の色彩も帯びていない。湊は「あ、ああ…どうも」と短く応え、逃げるようにその場を立ち去ることしかできなかった。背中に、戸惑いが混じった彼女の視線を感じたが、振り返る勇気はなかった。

この変化は、彼の仕事にも暗い影を落とした。色が見えない声から、インスピレーションを汲み取ることはできない。沙希が関わるプロジェクトでは、彼は途端に凡庸なデザイナーに成り下がった。今まで泉のように湧き出ていたアイデアは枯渇し、PCの前に座る時間が苦痛になった。白い画面は、まるで沙希の声そのもののように、彼に無力さを突きつけてくる。

湊は孤独だった。この奇妙な欠落を誰にも相談できず、一人で抱え込むしかなかった。友人との会話も、彼らの声が放つ鮮やかな色彩が、かえって沙希の「無色」を際立たせ、胸が締め付けられるようだった。彼は自分の感覚こそが、自分自身を世界から孤立させているのだと感じ始めていた。夜、自室のベッドで目を閉じると、音のない、色のない、完全な静寂が押し寄せてくる。それは、沙希の声と同じ、無慈悲な透明色をしていた。彼は、自分という存在そのものが、色褪せて消えていくような感覚に囚われていた。

第三章 透明な告白

スランプと孤独感に耐えきれなくなった湊は、ある金曜の夜、意を決して沙希を会社の屋上に呼び出した。もう、逃げているわけにはいかない。この不可解な現象の理由が何であれ、彼女と向き合わなければ、自分は前に進めない。そう思ったのだ。

冷たい夜風が二人の間を吹き抜ける。遠くに見える街の灯りが、ぼんやりと滲んで見えた。湊は震える唇で、自分の秘密を打ち明け始めた。

「早川さん、信じてもらえないかもしれないけど…僕には、音に色が見えるんです」

彼は、自分が共感覚者であること、その感覚を頼りに生きてきたことを、拙い言葉で懸命に説明した。沙希は驚いたように目を見開いたが、黙って彼の言葉に耳を傾けていた。そして、湊は最も言いにくい核心に触れた。

「君の声は…以前は、すごく綺麗な青紫色に見えていた。でも、最近、急に色が見えなくなったんだ。君の声だけ、何も色がない。透明なんだ」

拒絶されるか、気味悪がられるか。湊は固く目を閉じた。心臓が痛いほど脈打つ。長い沈黙が、屋上の静寂を一層深くした。

やがて、沙希が静かに口を開いた。その声は、やはり無色だった。しかし、その響きには、湊が今まで気づかなかった微かな震えが混じっていた。

「…そうだったんですね」

彼女の返答は、湊の予想を完全に裏切るものだった。

「柏木さん、多分それ…あなたのせいじゃない。私のせい、なんです」

湊は、弾かれたように顔を上げた。沙希は、遠い街の灯りを見つめながら、ぽつりぽつりと語り始めた。

「私、最近…感情が、よく分からなくなっているんです。実家の母が倒れて、色々あって…。悲しいとか、辛いとか、そういうのを感じていると、自分が壊れちゃいそうだったから。だから、スイッチを切るみたいに、心を無にする癖がついちゃったみたいで」

彼女は、自嘲するように小さく笑った。その笑顔は、ひどく儚く見えた。

「嬉しいとか、楽しいとかも、なんだか薄い膜が一枚かかったみたいに、現実感がないんです。だから、多分…私の声には、今、色なんてないんだと思います。空っぽだから」

衝撃だった。湊の頭をハンマーで殴られたような感覚が襲った。

能力の欠陥ではなかった。自分の異常ではなかった。沙希の声に色がなかったのは、彼女自身の心が、その彩りを失っていたからだったのだ。

彼は、自分の傲慢さを恥じた。自分だけが世界を一方的に「見て」いるのだと思っていた。しかし、違った。この感覚は、相手の内面を映し出す鏡でもあったのだ。色の喪失に怯え、彼女を避け、自分の殻に閉じこもっていた自分。その間、彼女はたった一人で、声も出せないほどの痛みを抱えていた。

「ごめん…」

湊の口から、か細い声が漏れた。

「僕は、何も知らずに…君を避けていた。君の声が聞こえなくなるのが、怖かったから」

「ううん」と沙希は首を振った。「話してくれて、ありがとう。誰も気づいてくれなかったから。…なんだか、少しだけ、救われた気がします」

その時、湊は初めて、色のない彼女の声に、ただひたすらに耳を澄ませた。色彩というフィルターを外した、ありのままの音。その響き、抑揚、息遣いの中に、彼女が必死に耐えてきた心の重さ、そして、今この瞬間に見せた、僅かな安堵の響きを、確かに感じ取ることができた気がした。

第四章 心の聴き方

あの日を境に、湊の世界は静かに、しかし決定的に変わった。彼はもう、沙希を避けなかった。むしろ、積極的に彼女と関わろうとした。

ランチに誘い、他愛もない話をした。彼女の声は相変わらず無色透明だったが、湊はもうそれを恐れなかった。彼は、色に頼るのをやめた。代わりに、彼女の言葉そのものに、その背後にある呼吸に、沈黙の間に、意識を集中させた。

彼は気づき始めた。自分は今まで、どれだけ「聞く」ことを怠ってきたのだろうかと。声の色は、感情のショートカットだった。便利で、分かりやすい。しかし、それだけを見て、分かった気になっていた。色のない声と向き合うことで、彼は初めて、言葉の選び方、声のトーンの微細な変化、話す速度、そういったものの中にこそ、人の心の複雑な機微が隠されていることを学んでいった。

それは、まるで新しい言語を習得するような、根気のいる作業だった。しかし、苦痛ではなかった。沙希がふと見せる、困ったような笑顔。仕事で成果を出した時の、控えめな喜びの表情。そうした一つ一つが、どんな鮮やかな色彩よりも、雄弁に彼女のことを物語っていた。

湊のデザインにも変化が訪れた。彼は、感覚的なインスピレーションに頼るのをやめ、より深くコンセプトを掘り下げ、ロジカルに構成を組み立てるようになった。すると、彼のデザインは以前よりも力強く、説得力を持つようになった。感覚という補助輪を外したことで、彼は自分自身の足で、デザイナーとしての一歩を力強く踏み出したのだ。

ある日の帰り道、二人は並んで駅へと歩いていた。

「柏木さん、最近なんだか、変わりましたね」と沙希が言った。

「そうかな?」

「はい。前よりも…話していて、ちゃんと私のことを見てくれている感じがします」

彼女は少し照れたように俯いた。その時、湊には見えた気がした。

彼女の笑い声に混じって、ごくごく淡い、ほとんど透明に近い光の粒子が、ふわりと一つ、舞い上がったのを。それは、春先の陽だまりのような、温かく、優しい色をしていた。

それは、まだ「色彩」と呼べるほどのものではなかった。しかし、紛れもなく、彼女の心が再び色を取り戻し始めた、最初の兆しだった。

湊は、何も言わずに微笑んだ。色が見えなくても、もう不安ではない。むしろ、この不確かで、少しずつ変化していく世界の方が、ずっと愛おしいとさえ思えた。

日常は、相変わらず音と色彩のシンフォニーに満ちている。しかし、湊にとって今、最も豊かで、最も心に響く音は、無色透明でありながら、無限の可能性を秘めた彼女の声だった。彼は、色が見える世界も、見えない世界も、その両方を受け入れ、愛することができるようになったのだ。本当の意味で人と繋がることは、目に見えるものではなく、心を澄ませて「聴く」ことから始まる。そのシンプルで、しかし尊い真実を、彼は静かに噛みしめていた。空には、薄紫色の夕暮れが広がっていた。それは、かつて彼が見た彼女の声の色に、少しだけ似ている気がした。

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