第一章 灰色の世界と金色の閃光
僕、相沢湊(あいざわみなと)の世界は、くすんだ灰色でできていた。物心ついた頃から、僕には他人の感情が、その人の輪郭を縁取るぼんやりとした「色」として見えていた。怒りは濁った赤、悲しみは淀んだ青、嫉妬は病的な緑。街を行き交う人々から溢れ出す無数の感情の濁流は、僕にとって耐え難い騒音と同じだった。僕はいつしか俯いて歩くようになり、他人との関わりを徹底的に避けることで、心の平穏を保っていた。友人など、いるはずもなかった。
高校二年生になった春。その日も僕は、教室の窓際の一番後ろの席で、灰色の景色に溶け込むように息を潜めていた。休み時間の喧騒が、様々な色のノイズとなって鼓膜を揺らす。目を閉じ、やり過ごそうとした、その時だった。
「ねえ、君、相沢湊くんだよね?」
不意にかけられた声に顔を上げると、そこに、信じられないものが立っていた。
太陽の光をそのまま溶かし固めたような、眩いばかりの「金色」。純粋で、温かく、一点の曇りもない、圧倒的な光。僕は目を細めた。生まれて初めて見る、こんなにも美しい色。その色の中心に、少年がいた。彼は僕の前の席の椅子を引いて、屈託なく笑っている。
「俺、今日からこのクラスになった、天野陽(あまのひなた)。よろしくな!」
陽と名乗った彼の笑顔は、その金色のオーラと同じくらい眩しかった。周りの生徒たちが放つ濁った色の靄が、彼が放つ光によって浄化されていくようにさえ感じた。僕が呆然と彼を見つめていると、陽は不思議そうに首を傾げた。
「どうした? 俺の顔、何か付いてる?」
「……いや……君は、すごい色をしてる」
思わず、心の声が漏れた。しまった、と思ったが、もう遅い。変な奴だと思われるだろう。だが、陽の反応は僕の予想とはまったく違っていた。彼はぱっと顔を輝かせると、身を乗り出してきた。
「やっぱり、君にも見えるんだ! 君の色はね、静かな雨の日の湖みたいな、澄んだ銀色だよ。すごく綺麗だ」
時間が止まった。この能力を理解されたのは、初めてだった。僕の心を覆っていた分厚い灰色の雲に、金色の光が差し込んだ瞬間だった。この日を境に、僕のモノクロームだった世界は、少しずつ色彩を取り戻していくことになる。陽という、たった一人の親友を得たことで。
第二章 二人だけの色彩
陽と僕は、急速に親しくなった。まるで、ずっと昔から知っていたかのように、互いのことが手に取るようにわかった。僕たちは放課後になると、学校の裏手にある、誰も使わなくなった古い温室へ向かった。そこが、僕たちの秘密基地だった。
「湊の銀色は、集中するともっと透明になるんだ。面白いよ」
「陽の金色は、嬉しいとキラキラって光の粒が舞うんだな。花火みたいだ」
僕たちは互いにしか見えない「色」について語り合った。陽は、僕が忌み嫌っていたこの能力を「素敵な個性だ」と言ってくれた。彼といると、街の雑多な色でさえ、少しだけ美しく見えた。陽の金色が、僕の世界のコントラストを上げてくれているようだった。
ある日、僕は古いガラス玉を温室に持っていった。光に透かすと、中に小さな気泡が閉じ込められているのが見える。
「これを、僕たちの友情の証にしないか」
僕の提案に、陽は満面の笑みで頷いた。僕たちはガラス玉を間に挟んで、両手でそっと包み込んだ。
「僕たちの色を、この中に閉じ込めてみよう」
陽が言う。僕たちは目を閉じ、互いの存在に意識を集中させた。僕の心から流れ出す穏やかな銀色と、陽の心から溢れる温かい金色。二つの色が、見えない絵の具のように混ざり合い、ガラス玉の中へと流れ込んでいくイメージ。
しばらくして目を開けると、奇跡が起きていた。ただの透明なガラス玉の中に、銀と金の美しい渦巻き模様が浮かび上がっていたのだ。まるで、小さな銀河が誕生したかのように。
「すごい……本当にできた……」
僕の声は震えていた。陽は「な、言っただろ? 俺たちなら何でもできるって!」と誇らしげに胸を張った。
僕の世界は、陽という太陽を得て、輝き始めた。灰色だった通学路は、季節の移ろいを告げる豊かな色に満ち、教室の喧騒は、友人たちの活気あるエネルギーとして感じられるようになった。内気だった僕が、クラスメイトと笑い合っている。数ヶ月前には考えられないことだった。
しかし、陽との友情が深まるにつれて、僕は微かな違和感を覚え始めていた。陽は、自分の過去についてほとんど語らなかった。家族の話をしても、どこか曖昧ではぐらかされる。そして何より、彼の「色」は、あまりにも完璧すぎた。人間なら誰しもが持つはずの、不安や悲しみといった負の感情の翳りが、彼の金色には一切見られないのだ。まるで、この世の美しい部分だけを抽出して作られた存在のようだった。その純粋さが、時折、僕を不安にさせた。
第三章 嵐の夜の真実
その日は、朝から空が不気味な鉛色に染まっていた。夕方には猛烈な嵐が街を襲い、窓ガラスを叩きつける雨音と、空を引き裂く雷鳴が轟いた。僕は自室で、言いようのない不安に駆られていた。胸騒ぎがして、陽に連絡しようとスマートフォンを手に取ったが、なぜか繋がらない。
嵐がピークに達した頃、僕の胸を締め付ける不安は頂点に達した。いてもたってもいられなくなり、傘を掴んで外へ飛び出した。びしょ濡れになりながら、陽が住んでいると言っていたアパートへ向かう。しかし、何度インターホンを鳴らしても応答はない。隣の部屋から出てきた住人に尋ねると、信じられない言葉が返ってきた。
「天野さん? いいえ、その部屋はずっと空室ですよ」
嘘だ。何かの間違いだ。僕は震える足で、今度は学校へ向かった。守衛室に忍び込み、生徒名簿をめくる。僕のクラスのページに、天野陽の名前は、どこにもなかった。
頭が真っ白になった。じゃあ、陽は誰なんだ? 僕が今まで過ごしてきた時間は、全て幻だったのか?
絶望に打ちひしがれ、雨に打たれながら温室へたどり着いた。僕たちの秘密基地。そこで僕は、信じられない光景を目にする。温室の中央で、陽が立っていた。しかし、その姿は輪郭がぼやけ、まるで陽炎のように揺らめいていた。彼の身体を構成していたはずの金色の光が、今にも霧散してしまいそうに弱々しく点滅している。
「陽っ! 大丈夫か!」
駆け寄ろうとした僕を、彼はか細い声で制した。
「湊……ごめん」
その声は、風の音のように虚ろだった。
「僕はずっと、君に嘘をついていた。僕は、人間じゃないんだ」
陽は、ゆっくりと真実を語り始めた。彼は、僕の「誰かと繋がりたい」という強烈な孤独と願いが生み出した、想いの結晶だった。僕が世界を灰色だと絶望したとき、僕の心の奥底にあった、ほんの僅かな希望の色――金色が、形を持って現れた存在。それが、天野陽だった。
僕の心が安定しているときは彼の存在も安定するが、僕が今日のように強い不安や恐怖を感じると、彼の存在そのものが薄れてしまうのだという。
「……じゃあ、君は、僕の想像の産物だって言うのか? 僕が作り出した、幻……?」
「幻じゃないよ」陽は弱々しく、しかしはっきりと首を振った。「君の心が僕を創った。でも、僕たちが一緒に笑った時間も、交わした言葉も、このガラス玉に込めた想いも、全部本物だ」
彼の言葉が、信じられなかった。僕の世界を彩ってくれた唯一無二の親友が、僕自身の孤独の裏返しだったなんて。足元から世界が崩れていくような感覚。僕が今まで感じてきた友情は、ただの独りよがりな幻想だったのか? 僕は、膝から崩れ落ちた。降りしきる雨のように、僕の瞳から涙が溢れ出した。
第四章 君が遺した色彩
温室の床に突っ伏し、僕は泣き続けた。騙されたという怒りよりも、かけがえのないものを失うという恐怖と、自分の孤独が生み出した存在に依存していたという惨めさで、胸が張り裂けそうだった。僕の心が絶望に沈むにつれて、陽の金色の光はさらに弱くなっていくのがわかった。
「消えないでくれ……」
僕は嗚咽混じりに呟いた。幻でも、構わない。いなくならないでくれ。僕がそう願ったとき、ふと、陽がくれた言葉が頭をよぎった。
『湊の銀色は、静かな雨の日の湖みたいで、すごく綺麗だよ』
『素敵な個性だ』
陽は、僕がずっと否定してきた自分自身を、初めて肯定してくれた存在だ。彼が僕の心から生まれたというのなら、僕を肯定してくれたのも、僕自身の一部だったということになる。陽との出会いによって、僕は他者を、そして世界を受け入れる方法を学んだ。彼がくれたものは、幻なんかじゃない。紛れもない、僕自身の成長そのものだった。
僕はゆっくりと顔を上げた。涙で滲む視界の中で、陽が悲しそうに微笑んでいる。
「君が僕の心から生まれたなら、僕が君を守らなくちゃいけない。君が僕の孤独から生まれたなら、僕がもう孤独じゃなくなればいいんだ」
僕は立ち上がり、不安定に揺れる陽の光に向かって、一歩踏み出した。
「陽。君が幻だろうと、そうでなかろうと、君は僕のかけがえのない親友だ。それは、絶対に変わらない。だから……これからも、ずっと一緒にいてくれ」
僕がそう宣言した瞬間、奇跡が起きた。弱々しく点滅していた陽の金色の光が、ふわりと力強く輝きを取り戻したのだ。温室内が、夕焼けのような温かい光で満たされる。陽は、これまでで一番優しい笑顔を僕に向けた。
「ありがとう、湊。その言葉が聞きたかった」
彼の声には、もう虚ろな響きはなかった。
「でもね、湊。僕はもう、外にいる必要はないんだ。君はもう、一人で世界と向き合えるから」
そう言うと、陽の身体は輝く金色の粒子となり、ふわりと宙に舞った。そして、吸い込まれるように、僕の胸の中へと溶けていった。
温かい光が、僕の全身を駆け巡る。失ったのではない、一つになったのだと直感的に理解した。嵐は、いつの間にか過ぎ去っていた。ガラス窓の向こうには、雨に洗われた美しい夕焼けが広がっていた。僕の世界は、もう灰色ではなかった。鮮やかで、希望に満ちた色彩が、そこにはあった。
それから数年が経った。僕は今、たくさんの友人に囲まれて、笑い合っている。もう他人の感情の色を恐れることはない。それは僕にとって、人々を深く理解するための、大切な言葉のようなものになった。
時々、ふとした瞬間に、誰かの優しさや、夕焼けの空、道端に咲くタンポポの中に、あの日の純粋な金色のかけらを見つけることがある。そのたびに、僕は胸に手を当て、心の中の親友に静かに語りかけるのだ。
「見てるか、陽。世界は、こんなにも美しい色で溢れているよ」
僕のポケットの中では、銀と金の渦巻き模様を宿したガラス玉が、あの日のまま、温かい光を放ち続けている。友情とは、誰かの中に自分の色を見つけ、自分の色を分かち合うこと。そして時には、自分自身の内側にある最も美しい色に気づくことなのだと、僕は知っている。