第一章 硝子の墓標
指先が熱い。
ピンセットで摘まみ上げたその欠片は、夕暮れを煮詰めたようなドロリとした光を放っていた。
『時間断片』。
この世界に突如として降り注いだ、時間のバグだ。
路地裏の湿った風の中、私は一人、息を潜める。
誰かの依頼など受けていない。
これは、私のための、私だけの作業だ。
欠片を鼻先に近づける。
ツンとした古い紙の匂いと、安っぽいミントガムの香り。
心臓が、早鐘を打った。
間違いない。これはあいつ――レンの匂いだ。
ポケットから取り出したのは、上半分がひび割れ、無惨な姿を晒した砂時計。
私は震える手で、最後の一欠片をガラスの裂け目へと運ぶ。
カチリ。
硬質な音が響くと同時に、視界が歪んだ。
路地裏のドブ臭さが消え、夏草の匂いが爆発的に広がる。
鼓膜の奥で、セミの声が狂ったように鳴き喚いていた。
第二章 狂った秒針
「……また、止まったな」
不意に、記憶が脳髄に直接流し込まれる。
高校の図書室。
窓際の席。
私の隣で、レンが頬杖をついている。
彼と私の肩が触れ合った瞬間、壁掛け時計の秒針がピクリとも動かなくなった。
窓の外では、揚羽蝶が空中で静止し、風に揺れていたカーテンが石膏のように固まっている。
『俺たちが揃うと、世界がバグる』
レンはいつものように笑って、止まった時間を楽しんでいた。
けれど、私は気づいていた。
私たちが笑い合うたび、教室の壁に走る亀裂が深くなっていることに。
床が悲鳴のような軋みを上げていることに。
「カイ、その砂時計貸して」
記憶の中のレンが手を伸ばす。
彼が触れた瞬間、私の持っていた砂時計のガラスが、耐えきれずに砕け散った。
――パリンッ。
幻聴ではない。
現実のアトリエで、最後の一欠片が砂時計と融合する音だ。
硝子が癒着する。
世界が裏返る。
地面が天井になり、空が足元に広がるような嘔吐感。
私は膝をついた――はずだった。
けれど、掌が触れたのは冷たいコンクリートではなく、熱を帯びたフェンスの金網だった。
第三章 世界が軋む音
「よう。やっと修理完了か?」
錆びついたフェンスに背を預け、白衣の男が立っている。
逆光で表情は見えない。
けれど、その猫背気味の立ち姿だけで十分だった。
「レン……!」
喉が引きつる。
三年。
あいつが消えて、世界が『断片』だらけになってからの時間。
私は駆け寄ろうとした。
腕を伸ばし、その白衣の裾を掴もうと一歩踏み出す。
その瞬間――
ゴゴゴゴゴゴゴォォォ……!
空が、裂けた。
頭上の青空に巨大な亀裂が走り、そこからどす黒い虚無が覗く。
校舎が悲鳴を上げ、重力が狂い、足元の小石が空へと落ちていく。
「近寄るな」
レンが短く制止する。
彼が私から一歩下がる。
すると、空の亀裂がスゥッと塞がり、重力が正常に戻った。
「……あ」
言葉にする必要などなかった。
目の前の光景が、残酷な真実を突きつけている。
私たちが近づけば、世界が壊れる。
私たちが離れれば、世界は安らぐ。
あの日、時計が止まったのも、壁がひび割れたのも、偶然じゃなかった。
私たちの存在そのものが、この世界の許容範囲を超えたエラーだったのだ。
レンは何も説明しなかった。
ただ、修復された砂時計を指差す。
「お前がそれを直したせいで、俺はもう、ここにはいられない」
彼は苦笑し、ポケットから一枚のミントガムを取り出して口に放り込んだ。
その仕草があまりにも日常的で、あまりにも彼らしくて、視界が滲む。
レンが右手を軽く振る。
それは別れの合図ではなく、世界を正しい形に戻すための指揮のようだった。
「レン、嫌だ! 俺は……!」
叫びながら、私は再び走り出した。
世界が壊れてもいい。
空が落ちてきても構わない。
お前がいない、正しい世界なんて欲しくない。
けれど。
私の指先が彼の肩に触れようとした瞬間、レンの輪郭が世界という背景に溶け出した。
まるで、最初からそこに描かれていた風景画の一部であるかのように。
触れたのは、ただの風だった。
『アンカーは下りた。あとは頼んだぜ、相棒』
声だけが、直接脳内に響く。
彼の姿が完全に空の青さに吸い込まれた瞬間、世界中の亀裂が一斉に消失した。
最終章 秒針は進む
「…………」
気がつくと、私はアトリエの椅子に座っていた。
机の上には、完全に修復された砂時計がある。
継ぎ目一つない、完璧なフォルム。
窓の外を見た。
あれほど空を覆っていたノイズのような雲は消え失せ、暴力的なまでの青空が広がっている。
鳥が飛び、車が走り、人々が歩く。
何一つ狂いのない、退屈で、残酷なほどに正常な世界。
私は砂時計を手に取る。
ひやりとしたガラスの感触。
ひっくり返すと、黄金色の砂がサラサラと落ち始めた。
その音は、あの日止まったはずの教室の時計が、再び動き出した音に似ていた。
あるいは、私の心臓の音か。
世界は、レンという『異物』を排除することで、秩序を取り戻した。
彼が自らを犠牲にしたのではない。
私たちが二人でいることを、世界が許さなかっただけだ。
「……ミントの匂いがしないな」
部屋の空気を吸い込み、私は呟く。
孤独だ。
けれど、この砂時計の中だけには、あいつと過ごした歪で愛おしい時間が閉じ込められている。
砂が落ちる。
一粒、また一粒。
その動きだけが、彼が確かに存在したことの証明だった。
私はコートを羽織り、ドアを開ける。
眩しすぎる日差しが、私の影を色濃く地面に焼き付けた。
もう二度と、時計の針は止まらない。
私は、彼が守り、彼が拒絶されたこの正しい世界を、一歩ずつ歩いていく。
ポケットの中で、砂時計が静かに脈打っていた。