第一章 錆びついた雨音
肺が焼けるような匂いがした。
硝煙と、腐った油と、アスファルトを溶かす酸性雨の混ざった匂い。
古書店『メモリア』のひび割れた窓ガラスを、黒い雨粒が叩き続けている。
カラン、と乾いた音がした。
ドアベルの音ではない。客の震える手が、ドアノブにぶつかった音だ。
「……水、あるか?」
入ってきたのは、泥人形のような男だった。
年齢は六十代だろうか。だが、肌は土気色に乾き、眼窩は髑髏のように窪んでいる。
レインコートは元の色が判別できないほど汚れ、裾からはコールタールのような粘液が滴っていた。
私はカウンターの下で、護身用のスタンガンの柄を握りしめながら立ち上がる。
「いらっしゃいませ。どうぞ、掛けて」
男が足を引きずって歩くたび、私の視界がちらついた。
どす黒い紫。
コールタールのような粘着質な色が、男の背中から滲み出し、床を汚していく。
彼が抱える、言葉にならない「苦痛」の可視化。
男は一番奥、本棚の影に倒れ込むように座った。
彼が袖をまくると、骨と皮ばかりの手首に、プラスチックのバンドが食い込んでいるのが見えた。
『RANK: G-15』
蛍光塗料が剥げかけ、数字が頼りなく明滅している。
配給食すら後回しにされる、廃棄寸前のランク。
彼が店に入ってきた時、一瞬だけ躊躇った理由がわかった。
この店内の「清浄な空気」を吸うことすら、罪悪感を感じているのだ。
私はケトルのスイッチを入れる。
豆を挽く音と香ばしい匂いが、カビ臭い店内の空気を強制的に塗り替える。
「金なら、ないぞ」
男が、欠けた歯の間から息を漏らすように言った。
「ツケでいいですよ。出世払いってことで」
私はあえて唇の端を吊り上げ、マグカップを彼の前に置く。
男は両手でカップを包み込んだ。
熱さを確かめるように、何度も、何度も。
指先から紫色の火花が散り、私のこめかみを針で刺すような痛みが襲う。
――寒い。痛い。誰か。いや、もういい。殺してくれ。
流れ込んでくる情動に、胃の腑が締め付けられる。
私は奥歯を噛み締め、吐き気を飲み込んだ。
「……聞こえるんだ」
男がポツリと言った。
コーヒーの水面を見つめたまま、焦点の合わない目で。
「高い音が。耳の奥じゃねぇ、脳みその皺(しわ)を直接爪で弾くような……高い音が」
「音?」
「ああ。それが鳴ると、景色が歪む。腹の減りも、寒さも、全部どうでもよくなる」
男の手が痙攣した。
カップの中のコーヒーが波打ち、テーブルにこぼれる。
「アリスさん、だったか。あんた、ここであれ(・・)をやってるって噂は本当か?」
濁った瞳が、すがるように私を射抜いた。
その瞳孔が開いている。
「ここは古書店です。雨宿りなら構いませんが、それ以上は――」
私が言いかけた、その時だった。
キィィィィィィ――ン。
鼓膜がつんざかれるような不快音が、店内の空気を圧縮した。
本棚の古書がバタバタと震え、窓ガラスに亀裂が走る。
「う、あ……あああああ!」
男が頭を抱え、絶叫した。
喉が裂けんばかりの叫び声と共に、彼の背中にまとわりついていた「紫色」が、一瞬にして揮発していく。
色が、抜ける。
苦痛の色が消え、完全な「透明」へと置換されていく。
「お客さん!」
私はカウンターを飛び越えた。
男の腕を掴もうと、手を伸ばす。
指先が、レインコートの汚れた布地に触れた。
ズブッ。
掴んだ感触がなかった。
まるで水面に手を突っ込んだように、私の手は男の体をすり抜け――そのまま勢い余って床に叩きつけられた。
「……は?」
顔を上げる。
そこには、誰もいなかった。
湯気を立てるコーヒー。こぼれた茶色い染み。
そして、床に転がるプラスチックのバンドだけ。
男の肉体は、空気中の塵となって霧散していた。
後に残されたのは、強烈なオゾン臭と、私の指先に残る「無」の感触。
「冗談でしょ……」
震える膝を叱咤して立ち上がる。
壁に飾られた世界地図。
その西の端、かつて大陸があった場所が、インクが乾くように白く消滅していくのが見えた。
まただ。
また一人、世界から「色」が剥ぎ取られた。
第二章 消失点の座標
「該当IDノ市民ハ、存在シマセン」
タブレットから吐き出される合成音声は、氷のように冷たかった。
私は床に落ちていたバンドを拾い上げる。
プラスチックの断面は鋭利で、指の腹に食い込み、赤い血が滲んだ。
ズキン。
傷口から、情報の奔流が脳髄へ逆流する。
男の最期の記憶。
恐怖か、絶望か。私は身構えた。
――ああ、温かい。
――腹いっぱいだ。
――母さん? そこにいるのか?
「ッ……!」
私は思わずバンドを取り落とした。
違う。
これは死の苦痛ではない。
脳がとろけるような、麻薬的な幸福感。黄金色の、嘘くさい光。
あんなに怯えていた男が、消滅の瞬間に感じたのが「至福」だった?
店内の空気が、急激に冷えた気がした。
背筋の産毛が逆立つ。
本能が警鐘を鳴らしている。
『逃げろ』と。
バァン!!
入り口のドアが、蝶番ごと吹き飛んだ。
雨と風が店内に雪崩れ込む。
逆光の中に立っていたのは、二つの影。
言葉はない。
警告もない。
顔全体を覆う無機質なヘルメット。
その隙間から漏れる赤いセンサーの光が、私と、床に落ちたバンドを捉えた。
SCS執行部隊『グレイハウンド』。
彼らからは「色」がしない。
感情というノイズを薬物で完全に遮断された、生きた処刑器具。
ヒュッ、と風を切る音がした。
私が瞬きをするより速く、先頭の男が距離を詰めてくる。
手には、高周波で振動するブレードが握られていた。
「くっ!」
私はカウンターの下に隠していた発煙筒を引き抜き、足元に叩きつけた。
プシューッ!
白煙が視界を奪う。
男のブレードが空を切り、カウンターの木材を豆腐のように切断した。
「確保。対象、抵抗」
煙の向こうから、機械のような単語が聞こえる。
私は裏口へ走った。
心臓が肋骨を蹴り破りそうだ。
バンドをポケットにねじ込み、雨の路地裏へと飛び出す。
彼らは「不純物」である私を排除しに来たのではない。
このバンド――男が残した「幸福な死」の証拠を回収しに来たのだ。
雨水が目に入り、視界が滲む。
走るたびに、泥水がふくらはぎに跳ねる。
行き止まりの金網をよじ登りながら、私は街を見下ろした。
灰色に沈んだスラム街。
その上空に浮かぶ、巨大なホログラム広告。
『エデンへようこそ。苦しみのない世界が、あなたを待っています』
美しい女優が微笑んでいる。
だが、今の私には、その笑顔が死神の鎌に見えた。
第三章 優しき地獄の正体
地下鉄の廃墟は、カビとネズミの糞の臭いで満ちていた。
執行部隊の追跡を撒くのに、丸二日かかった。
泥だらけの服。渇いた喉。
私は震える手で、懐中電灯を照らした。
ここは、旧政府の地下データセンター跡地。
「盲点」と呼ばれる、都市の監視システムが及ばない唯一の場所だ。
私は瓦礫の山を乗り越え、錆びついたサーバールームへと侵入する。
埃を被った端末。
電源は生きているか?
祈るような気持ちで、男のバンドを解析ポートに押し込んだ。
ブゥン……。
重苦しい音と共に、モニタに光が灯る。
文字列が滝のように流れた。
男の生体ログ。
心拍停止の瞬間、脳波が異常な数値を叩き出している。
そして、転送記録。
「……転送?」
肉体は消滅したのではない。
分解され、エネルギーへと変換されている。
では、意識は?
『接続先:プロジェクト・エデン/第44区画』
私は端末を操作し、その「エデン」の内部データにアクセスを試みる。
セキュリティの壁が厚い。
だが、死んだ父が教えてくれたバックドアが生きていた。
「開いて……!」
エンターキーを叩く。
画面に映し出されたのは、楽園の映像ではなかった。
それは、巨大なカプセルの墓場だった。
地下深く、何キロにもわたって整然と並べられたガラスの棺。
その中に、無数の人間が浮かんでいる。
管に繋がれ、ピクリとも動かない。
脳だけが活動を続け、肉体は最低限の栄養補給だけで生かされている。
「嘘……」
私は画面に手を這わせる。
データウィンドウを開く。
『資源節約モード:稼働中』
『意識共有サーバー:正常』
エデンとは、仮想空間への移住ではない。
食料も水も尽きかけたこの星で、人口を維持するための「口減らし」だった。
覚めない夢を見せ続け、肉体の燃費を極限まで下げる。
それが、政府が出した答え。
あの老人も、消えた人々も、みんなここで植物のように飼われている。
『警告。不正アクセスを検知』
不意に、モニタが赤く点滅した。
「ッ!」
回線を切ろうとした指が止まる。
画面の隅に、新しいファイルが開かれたからだ。
『廃棄予定リスト』
そこには、数千人のIDが羅列されていた。
その一番上に、あの老人のIDがある。
ステータス:『栄養供給停止/安楽死プロセス待機中』
「ふざけるな……!」
彼らは救われてなどいない。
夢の中で幸せを貪らせ、用が済めば、眠ったままスイッチを切られる。
これが、美しい楽園の正体。
ドォォォォン!!
背後の防護扉が、爆炎と共に吹き飛んだ。
熱風が私を壁まで吹き飛ばす。
耳鳴り。血の味。
視界が揺れる中、硝煙の向こうから、無数の赤い目が光るのが見えた。
自律型戦闘ドローン。
羽虫のような不快な羽音を立てて、こちらへ群がってくる。
第四章 痛みを紡ぐ橋
「投降シロ。生存確率0.02%」
ドローンのスピーカーが、無機質な声を張り上げる。
私は咳き込みながら、血の混じった唾を吐き捨てた。
「お断りよ、ポンコツ」
私は端末にしがみつく。
逃げ場はない。
なら、やることは一つだ。
このデータを、真実を、地上の全スクリーンに強制送信する。
『送信準備』
指が震える。
恐怖じゃない。怒りだ。
ズガガガガガッ!
ドローンが一斉射撃を開始した。
コンクリート片が弾け飛び、破片が私の頬を切り裂く。
左肩に熱い衝撃。
撃たれた。
「ぐっ、ああああ!」
激痛で目の前が真っ白になる。
脂汗が吹き出し、歯の根が合わない。
だが、その「痛み」こそが、私が生きている証だ。
私は片手でキーボードを叩く。
システムが抵抗する。
画面上に無数のエラーウィンドウがポップアップし、私の操作を阻む。
まるで、世界そのものが真実を拒絶しているようだ。
『接続拒否』『権限不足』『削除』
「どけよ……!」
私は自分のこめかみに、解析用のジャックを直接突き刺した。
脳と端末を直結する。
網膜にノイズが走る。
頭蓋骨を万力で締め上げられるような苦痛。
私の「色を見る力」が、電子の海に干渉する。
見えた。
システムを守るファイアウォール。
それは、冷徹な青白い氷の壁。
私は自分の血を、怒りを、真っ赤な炎のイメージに変えて叩きつける。
氷が溶ける。
道が開く。
「見ろ……これが、お前たちの楽園だ!」
エンターキーを、拳で殴りつけた。
瞬間。
地下室の空気が爆ぜた。
ドローンの動きが止まる。
私の脳を経由して、膨大なデータが都市のネットワークへ逆流していく。
地上の大型ビジョン。
市民の手元のタブレット。
グレイハウンドのヘルメットのHUD。
すべてがジャックされる。
映し出されるのは、カプセルの中で痩せ細った人々の姿。
『廃棄予定』の赤い文字。
そして、老人が最期に感じた「偽りの幸福」と、現実の「死」の対比。
ドローンが、ガクガクと空中で痙攣した。
制御AIが混乱している。
『矛盾。矛盾。幸福ノ定義ヲ再計算中』
私は床に崩れ落ちた。
出血が酷い。視界の端から黒い闇が迫ってくる。
寒気がするのに、体は燃えるように熱い。
その時、地下室の入り口に人影が現れた。
グレイハウンドの隊長だ。
彼は銃を構えたまま、動かない。
そのヘルメットの奥から、くぐもった声が漏れた。
「……これは、なんだ」
動揺。
色が見える。
彼の灰色の精神に、混乱したオレンジ色が混ざり始めている。
「真実よ……」
私は息も絶え絶えに笑う。
喉からヒューヒューと音が鳴る。
「夢の中で死ぬか、痛くても現実で生きるか。……選ばせてあげなさいよ」
隊長の銃口が下がった。
彼だけではない。
街中の人々が、空を見上げている気配がする。
怒号。悲鳴。そして、慟哭。
都市が震えている。
システムが、私のハッキングを「脅威」ではなく「市民の総意」として再認識し始めた。
『システム更新。エデン計画ノ凍結ヲ申請』
乾いた電子音が響き、ドローンたちが次々と床に落下していく。
私は仰向けに転がった。
天井の配管から、水滴が落ちてくる。
冷たい。
頬に落ちた水滴が、傷口に沁みる。
痛い。
なんて、愛おしい痛みだろう。
私は薄れゆく意識の中で、瞼を閉じた。
瞼の裏に、無数の色が爆発している。
怒りの赤、悲しみの青、恐怖の黒。
それらが混ざり合い、濁り、それでも力強く脈動している。
それは、無色透明な楽園よりもずっと汚くて、ずっと美しい、人間の色だった。