罪の色彩

罪の色彩

0 5223 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:

第一章 煤色の街と無垢な光

桐野蒼(きりのあおい)の世界は、常にくすんだ色彩で満ちていた。彼には、他人が抱く罪悪感が色として見える。その色は、アスファルトに染み込んだ油汚れのように、人々の輪郭にまとわりついていた。虚偽の報告書を提出したサラリーマンは濁った焦茶色を、不倫相手と別れたばかりの女は粘つくような紫紺色を引きずって歩く。蒼にとって、この街は巨大なパレットの上で無数の汚れた色が混ぜ合わされた、巨大なキャンバスだった。

この能力のせいで、蒼は社会から半ばドロップアウトし、夜間の景観清掃員として生計を立てていた。ヘッドホンで外界の音を遮断し、人々が寝静まった街のゴミを片付ける。それは、物理的な汚れだけでなく、昼間に人々が撒き散らした罪の残滓を拭い去るような、一種の儀式でもあった。特にネオンが煌めく繁華街は、欲望と後悔の色が渦巻く地獄だった。彼は、その区域を最も忌み嫌っていた。

その日、蒼は担当区域の端にある、古びた公園の清掃をしていた。噴水の水はとうに抜かれ、コンクリートの底には枯葉が溜まっている。ベンチに座る人影は、どれも一様に疲れた灰色を滲ませていた。それが彼の日常だった。

ふと、視界の隅に、ありえないほどの「無色」が映った。いや、無色ではない。それは、磨き抜かれた水晶のように、内側から淡い光を放つ透明な輝きだった。蒼は思わず目を細める。色の洪水の中で生きる彼にとって、それは初めて見る、純粋な光だった。

光の源は、砂場で一人、小さな城を作っている少女だった。歳は十歳くらいだろうか。着ている服は少し色褪せているが、清潔だった。彼女は、時折顔を上げて、蒼の方を見てはにかむ。その笑顔には、一片の淀みもなかった。蒼が見てきたどんな人間とも違う。彼女の周りだけ、空気が浄化されているようだった。

蒼は、吸い寄せられるように少女に近づいた。自分の足音が、この神聖な空間を汚してしまうのではないかとさえ思った。

「おじさん、お掃除してるの?」

少女が、鈴を転がすような声で尋ねた。

「……ああ。君は、こんな時間まで一人かい?」

「お母さんが帰ってくるのを待ってるの。もう少しで、パートが終わるから」

少女は陽菜(ひな)と名乗った。陽菜の母親は、近くのスーパーで夜遅くまで働いているらしい。彼女と話している間、蒼は長年忘れていた安らぎを感じていた。彼の世界を覆っていた煤色のフィルターが、陽菜の周りだけ取り払われ、世界が本来持つべき鮮やかさを取り戻したかのようだった。

それから、蒼の仕事に新しい習慣が加わった。毎晩、公園の清掃から仕事を始め、陽菜と短い言葉を交わす。彼女の無垢な輝きに触れる時間は、蒼にとって唯一の救いだった。この濁りきった世界で、この光だけは絶対に守らなければならない。蒼は、固く、そして漠然とそう決意していた。彼はまだ、その決意が自分をどこへ導くのか、知る由もなかった。

第二章 灰色の正義

陽菜という光を得て、蒼の世界観は少しずつ変化し始めていた。彼は、彼女を守るという使命感に駆られるようになった。それは、彼の能力の使い方も変えた。かつては、ただ忌み嫌い、避けるだけだった「色」を、彼は積極的に観察するようになった。陽菜に近づく人間の中に、特に濃く、禍々しい色を放つ者がいないか、見張るようになったのだ。

陽菜が暮らす地区は、古い木造アパートが密集する、いわゆる下町だった。そこに住む人々は、一様に生活に疲れた暗い灰色をまとっていた。ローンの返済に追われる父親、子供を叱りつけながら後悔に沈む母親、万引きの誘惑と戦う少年。彼らの灰色は、繁華街で見るような粘ついた色とは異なり、まるで乾いた土埃のように、彼らの全身を覆っていた。それは罪悪感というよりは、むしろ諦念や無力感の色に見えた。

蒼は、この灰色の群れから陽菜を隔離しようと試みた。陽菜が通る道に、色の濃い人間がいれば、わざと清掃カートで道を塞いだり、大きな音を立てて注意を逸らしたりした。それは、彼なりの不器用な正義の行使だった。しかし、彼の努力は焼け石に水だった。この地区全体が、巨大な灰色の澱の中に沈んでいるかのようだった。

ある晩、蒼は陽菜の母親の姿を初めて見かけた。スーパーの袋を両手に提げ、疲れ切った足取りで公園に現れた彼女は、深い、深い灰色をしていた。それは、娘を一人で待たせている罪悪感、生活を支える重圧、未来への不安、それら全てが混ざり合った色だった。

「いつも、この子と話してくれてありがとうございます」

母親は蒼に深々と頭を下げた。その背中から立ち上る灰色は、まるで彼女自身の魂が削れている音のようだった。

蒼は何も言えなかった。陽菜のあの透明な輝きが、こんなにも重い灰色の上で成り立っているという現実に、胸が締め付けられた。この母親を、どうして「罪人」として断じることができるだろうか。

この社会の構造そのものが、人々に灰色をまとわせているのではないか。貧困、過重労働、機会の不均等。そういった目に見えない圧力が、人々の心を蝕み、罪悪感という名の色彩を押し付けているのではないか。蒼の中で、これまで善悪の指標でしかなかった「色」の意味が、ゆっくりと揺らぎ始めていた。

それでも、彼は陽菜の無垢な光を守りたかった。彼は信じていた。少なくとも陽菜だけは、この灰色の世界に染まらないでいてくれるはずだと。彼女の存在こそが、この濁った世界に残された最後の希望なのだと。その盲信が、やがて来る残酷な現実の前で、粉々に砕け散ることを、彼はまだ知らなかった。

第三章 反転するスペクトル

その事件は、冷たい雨が降る夜に起こった。蒼がいつものように公園に向かうと、陽菜がいつも遊んでいる砂場の近くに、一台のパトカーが停まっていた。嫌な予感が全身を駆け巡る。蒼は清掃カートを放り出し、駆け寄った。

人だかりの中心に、小さなスーパーの店主が立っていた。彼は、蒼がこれまで見た中でも最も濃い、まるでコールタールのような黒い色を放っていた。その腕に、陽菜が掴まれている。彼女は泣きじゃくっていた。

「この子が万引きしたんだ!うちの店のお菓子を!」

店主の怒声が、雨音にかき消されずに響き渡る。

蒼は、店主の真っ黒な色を見て、全身の血が逆流するような怒りを覚えた。こんな穢れた色の男が、陽菜の純粋な光に触れること自体が許せなかった。

「離せ!この子がそんなことをするはずがない!」

蒼は人垣をかき分け、店主の前に立ちはだかった。

「なんだお前は!こいつの仲間か!」

「この子のどこに、そんな色が見えるんだ!お前みたいな真っ黒な人間とは違う!」

蒼の叫びは、周囲の人々には意味不明に聞こえただろう。だが、彼の剣幕に気圧されたのか、店主の手がわずかに緩んだ。

その時、陽菜の母親が駆けつけ、事態は警察署での話し合いに移行した。蒼も付き添いとして、事情聴取を受けることになった。待合室で、蒼は例の店主と二人きりになった。彼は相変わらず真っ黒なオーラを放っていたが、その色は怒りだけでなく、深い絶望と自己嫌悪で揺らめいていた。

「……あんた、さっき色の話をしたな」店主がぽつりと言った。「俺が真っ黒に見えるかい。そうだろうな」

彼は自嘲気味に笑った。

「大手スーパーが近くにできてから、うちはもう火の車なんだ。来月には店を畳む。借金だけが残る。俺は家族を守るために、必死だった。……あの子が盗んだのは、たった百円のチョコレートだ。でも、俺にはそれが、俺の人生を嘲笑う最後の藁のように思えたんだ……」

店主の告白を聞きながら、蒼は言葉を失った。彼の黒い色は、陽菜への罪悪感だけではなかった。大企業にすべてを奪われ、破産へと追い込まれる無力感。生きるために、弱い者を標的にせざるを得なかった自己嫌悪。それは、社会という巨大な力によって塗りたくられた、悲痛な色だった。

やがて、陽菜が母親に連れられて部屋から出てきた。濡れ衣は晴れたようだった。蒼は安堵の息をつき、彼女に駆け寄った。

「陽菜ちゃん、大丈夫だったかい」

その瞬間、蒼は息を呑んだ。

陽菜の身体から、これまで見たこともないほど濃密で、重いアッシュグレーの色が、まるで煙のように立ち上っていた。それは、店主の黒とも、街の人々の灰色とも違う、絶望そのものを固めたような色だった。

純粋無垢な、光そのものだったはずの陽菜が。

「ごめんなさい……」陽菜が、小さな声で呟いた。「わたしが、貧乏だから……お母さんを困らせて、お店の人にも、おじさんにも、みんなに迷惑かけちゃった……ごめんなさい」

その言葉が、雷となって蒼の頭を撃ち抜いた。

全身が震えた。違う。ずっと、間違っていた。

自分が見ていたこの「色」は、罪悪感じゃない。少なくとも、それだけじゃない。

これは、社会の圧力によって個人に押し付けられた「自己責任」という名の呪いだ。社会の歪みの皺寄せを、一身に背負わされた者の魂が上げる悲鳴だ。

加害者も、被害者も、この理不尽なシステムの中では等しく色をまとわされる。陽菜の透明な輝きは、無垢だったからではない。彼女がまだ、社会から「お前が悪いのだ」という烙印を押されていなかっただけのことだ。

蒼の世界は、完全に反転した。色の意味が、根底から覆った。彼が守ろうとしていた光は、彼の目の前で、最も重く、悲しい灰色に染まっていた。

第四章 夜明けの清掃員

蒼の価値観は、音を立てて崩れ落ち、そして再構築された。もう彼は、色で人を判断しなかった。街に溢れる無数の色彩は、善悪のラベルではなく、一人一人が背負わされた痛みのカルテのように見えた。真っ黒な店主も、重い灰色をまとった陽菜も、同じシステムの犠牲者だった。

彼は無力だった。しかし、何もしないでいることはできなかった。陽菜のあの悲しい灰色を、少しでも晴らしてやりたかった。

誰かを断罪するのではない。この色を生み出す、目に見えない構造そのものに、ささやかな抵抗を試みるのだ。

蒼は、自分の仕事道具に目を向けた。清掃員として、彼は毎日、この街が吐き出した無数の「声」を拾い集めている。人々が捨てたレシート、破り捨てられた手紙、期限切れのクーポン券。それらは、人々の生活の断片であり、社会の縮図だった。

彼は行動を開始した。陽菜の地区を担当する清掃員仲間と連絡を取り、情報を集め始めた。特に、あの店主を追い詰めた大手スーパーに関するゴミを。不自然なほど安い商品の仕入れ伝票の写し、下請け業者からの悲鳴のようなメモ書き、パート従業員の違法なシフトが記された紙切れ。一つ一つはただのゴミだが、それらをつなぎ合わせると、巨大な企業の搾取的な構造が浮かび上がってきた。

それは、地道で、途方もない作業だった。夜の仕事を終えた後、蒼は薄暗い自室で、街から集めた断片を分類し、記録し続けた。眠る時間も惜しんだ。彼の目には、以前のような絶望も、盲信もなかった。ただ、静かな決意の炎が燃えていた。

数週間後、蒼は集めた資料を、小さなウェブメディアを運営する旧友に渡した。最初は半信半疑だった友人も、証拠の生々しさに目を見張り、やがて彼の協力者となった。

記事が公開されると、反響は小さかった。大企業の壁は厚く、社会はすぐには変わらない。だが、陽菜の住む地区では、確かに何かが変わり始めていた。記事をきっかけに、個人商店主たちが団結し、大手スーパーに対して共同で抗議の声を上げたのだ。あの真っ黒だった店主も、その中心にいた。彼の背負う色は、以前より少しだけ、薄らいで見えた。

蒼は、今日も夜の街を掃除している。街は相変わらず、様々な色で溢れている。貧困の灰色、過労の焦茶色、孤独の濃紺色。それらが消えることはないだろう。

でも、今の蒼には、その色の奥にある人々の痛み、苦しみ、そして、それでも生きようとする微かな希望が見える。

彼は、公園のベンチに腰を下ろした陽菜を見つけた。彼女の周りには、まだアッシュグレーの影が残っている。だが、その中心で、小さな、本当に小さな光が、再び瞬き始めていることに蒼は気づいた。友達と笑い合った瞬間に灯る、ささやかな光。

蒼は、陽菜に近づかず、遠くからその光を見守った。そして、静かに立ち上がり、自分の仕事に戻った。

街のゴミを拾い、こびりついた汚れを洗い流す。それは、人々の心にまとわりついた灰色の煤を、ほんの少しでも拭い去る行為なのだと、彼は信じている。

夜明けが近づいていた。東の空が、白み始めている。それは、まだ誰も気づかない、新しい世界の始まりの色なのかもしれない。蒼は、その淡い光に向かって、黙々とカートを押し続けた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る